光 明
智謀の将トバイアスが大使として迎えた、八年目の朝もいつもとたいした変わりはなかった。
早朝に起床して必要な執務をとり、祖国とのあいだに必要な連絡報告をすませ、イングランドの重要な内政に関する施策に助言すべく、クリフォーレ王の政治顧問や執政官と討議をかわす。そして午後の日差しが強まるころ、街路にでて長屋や四阿に暮らす戦争寡婦や孤児たちを訪ない、西の空が茜色に染まるころ帰路につくといった調子だった。
その日、いつもより比較的早く帰路についたトバイアスの頭は、散りぢりに湧きあがってくる思考に占拠されていた。すでに耳に届いていたオトゥール王の病状、ようやく安定感が見えてきた傷痍傷病者への施策、クリフォーレ王と妃とその娘や臣下たちの思惑、何一つ先行きの見通しがはっきりするものはなかったが、一つだけ心の乾板に強く焼き付いている印象があった。夜宴でのひと時とはいえ、見つめあってきた者だけが知る、瞳のなかに垣間見る星の煌めきだった。ノードゥス王女の黒目がちな瞳から放たれる光と、それを受けとめる感情がそれだった。
彼は歩きながら無意識に己に問うていた。
「我が君は、王女を受け入れるだろうか、恐らくそこに問題はないだろう。いや、それ以前にクリフォーレ王が、王女をアイルランドへと赴かせるはずがない。我が君にしろ私にしろ、彼女を政略の道具にするつもりなど毛頭ないとしても、彼の王はそれを猜疑し、首を縦に振ることはないだろう……しかし王女自身はどう考えているのだろうか。私の帰国が近づきつつある今……」
まとまりのつかぬまま彼は城門をくぐり、あてがわれている自室へと向かうために、城壁上の回廊へつながる階段をのぼりはじめた。
回廊は午後の日差しの温もりをたくわえたまま、無言で彼をむかえたが、石壁は溶岩が発する熱を伝えているようだった。
その回廊の石床を踏んで自室へと向かって歩きはじめたとき、
「離しなさい、離してと言っているのが聞こえませんか!」
という、憤りに満ちた声を彼は耳にした。
「なりません。そんなことをなされたら、私たちが断首刑にされてしまいます、後生ですから、おやめください!」
足取りを早めたその先でトバイアスが目にしたのは、露台から身を投げんとして胸壁を乗り越えようとするノードゥス王女と、それを止めんとしている侍女たちの姿だった。
「なりません!」
トバイアスは瞬発的に叫んでいた。
声の主の姿を目にした王女は、まるで吊られていた糸が切れた人形のように、露台に頽れたが、それでも力の入らない体を引きずるように、足をもつれさせながら、トバイアスの方へ這い寄ろうとした。九死に一生を得たと安心したのか、侍女たちはその場に力なく座り込んだ。
ようやくのこと、トバイアスの傍らまで這い寄ってきた王女は、彼の膝を抱いてボロボロと大粒の涙を流して、頬を濡らした。
「トバイアス様。この者たちも父も母も、わたしの風切り羽をきってしまいます。わたくしは飛べないのです。飛べない白鳥にどんな価値があるというのでしょうか。この城には澄んで美しく広い湖もありません。いいえ、あったとしても、飛べない白鳥など見る者の慰めでしかありません。それならわたくしは、名も知られぬ小鳥にでも生まれ変わったほうがましなのです。ですから……。でも、こんな恥ずかしい姿をまさかあなた様に見られるとは、思ってもおりませんでした。わたくしは……禁断の果実を齧ったあとも裸でいるままのイブです」
膝をつき、王女の腕を手にとりながら、トバイアスは力を込めるようにして言った。
「生きてください。私はこの目でいくつもの悲しい死を見てきました。そしてその者たちの声を聞いてきました。このうえ、こんな愁嘆場でさえ詩心を忘れない美しい心をもつあなたのような人を失うなど、耐えられません。きっと私は病気になってしまう」
「トバイアス様、裸のイブは迷わず申し上げます。あなた様を心から愛していると」
「多分、私もそうなのでしょう」
「多分とは……わたくしは神かけてあなた様を愛しています。トバイアス様も神にかけて誓ってください。わたくしの心を殺したままにしないと、誰人にも、わたくしたちのあいだを引き裂かせはしないと」
ノードゥス王女の潤んだ瞳に、感極まった声に、震える肩に、真剣さがあった。
「いけません。神かけて誓うことはなりません。己自身に対して誓いあいましょう。私は私自身に対して、王女様は王女様の胸に誓うのです」
「わたくし自身に対して?……」
「そうです。必ず己の願いを叶えてみせます、と。神を冒涜するつもりはありませんが、神はいささか意地悪ですから。いつかは楽園を出てゆけと言いだすのが神ではないでしょうか?」
「蛇に気をつけろということですね」
「そうです。神は偉大であっても、蛇に気をつけられるのはわれわれ愚かな人間であって、神ではないのです」
王女はすべてに納得がいったように、心身を震えから解放していった。黒目がちな瞳は以前にも増して強い光を放っていた。
「いったい何の騒ぎだ」
クリフォーレ王の声だった。
「まさかお前たち……」
「ええ、そうですお父様」
「いいえ、違います」
「予は許さんぞ。政略の道具としてお前を嫁がせるなど」
「まあいいじゃあありませんか」
クリフォーレ王の妃が、王の背中越しから覗きこむように二人を見つめていた。
「あなたはお忘れになっているようですね。わたしたちも、誰一人賛成する者がいないなかで惹かれあってきたことを。あの茨の道で味わった痛みを忘れたことはありません。わたしはここ数年ほど母親の眼差しでこの男を見てまいりました。いま口にすべきではないのかもしれませんが、及第点は差しあげられましょう。しかし惜しいのは、この者が娘を連れて故国へ帰ることで、我が国にようやく根付きはじめた施策が滞ることです。この娘を長く見てきました。なんとも施策には向かぬ子だと、わたしはとうに諦めておりました。そうしたことに優れた婿でも現れればとは思っていましたが、その婿に施策を仕切られるのもまた癪ではありませんか。ねえ、あなた、そうは思われませんか」
「一理あることじゃな」
「娘などいなかった。そう思えばいいことです。親子の縁が薄い子であったこともまた事実。我らに懐かぬ子でしたからな。ともあれトバイアス卿、夫の説得は私に任せて欲しい。ただ、先に申したこと、その点をお忘れなきよう願いたい。それから、二人の意見の相違を、まずなんとかすることですな。見るに堪えぬみっともなさと言うものです」
「御意のままに」
意外な展開にトバイアスもノードゥス王女もあっけにとられたが、それは二人がはじめて見た光明であり、平穏であり、また自由への翼だったのである。
十年が過ぎたとき、智謀の将トバイアスはノードゥス王女を妻として故郷へと帰還し、それと入れ替わるように新たな親善大使として、隻腕の族長デクスターがクリフォーレ王の城に到着した。
「これが最後の別れになるやもしれぬな」
慰労の念がこめられたオトゥール王からかけられた言葉を聞いたデクスターは、
「もとより承知の上です。そのために我が君はわたしのような者をお育てになられたのですから」
と言っただけだった。




