氷 像
時の矢は鈍ることなく突き進んでいった。
智謀の将トバイアスが帰国してから、十年の月日が流れていた。オトゥール王の国も、クリフォーレ王の国にも平穏な時が流れつづけていた。
トバイアスとノードゥスとのあいだには二子が生まれ、長男は生まれてすぐに、クリフォーレ王のもとへ送られた。嫁いだ娘の忘れ形見として育てて欲しいという好意からだった。夫妻にとって心を引き千切られるような別れではあったが、二人に行く末を許してくれた恩返しとして、長男を捧げたのである。
すでに老境に入っていたクリフォーレ王とその妃は、彼らの思いやりを喜び、珠のような孫息子を愛した。世間にはこうした出来事を政略だと目算する声もあったが、城主の近辺にある重臣たちは、二十年という歳月のあと情深くなった老王とその妃が、笑窪をつくりながら乳飲み子を抱くのを見て、黙って目を細めるだけだった。
トバイアス夫妻のあいだに生れた第二子は女児であり、ユーラレと名づけられ、二人の愛を一身に受けることになった。
「もうすぐつたい歩きをはじめそうではないか」
寝台に半身を起こしながら、白髪白髯となった王が、ユーラレを見つめながら言った。
若きオトゥール王はもう若くなかった。全身に老いと病が染み渡っていた。だがその双眸は変わらずかつての叡智を静かに宿していた。しかし、いまや手足もきかず、自らの力で立ち上がることもできなかった。
「我が君には長生きをしていただき、この子が成人した麗しい姿を見ていただかなければ」
「トバイアス卿、世辞は不要だ。予はそう長くはないぞ」
「何をおっしゃいますか我が君は」
ノードゥスは無邪気な子どものように感情もあらわに声を張り上げた。
「卿は気づいているのか、卿の妻の素質を」
「我が君はノードゥスにあの素質があると仰るのですか」
「どうやら、何もかも話すときが来たようだな。卿と卿の妻が惹きあったのは決して偶然ではない。卿らはそれになぜ気づかなかったのだ」
「しかしそれでは……」
トバイアスは妻が死者の声を聞けるようになることによって、苦しむことを望んでいなかった。例えそれが王の命令だとしても。
「ノードゥス、すまぬがユーラレを連れて外に出ていてくれまいか」
彼女は素直に言いつけに従って、娘を抱き上げ、部屋を出ていった。
「卿は彼女を娶ろうと思ったとき、彼女に何と言ったのだ?」
「確か、こう言ったはずです『神かけて誓うことはなりません。己自身に対して誓いあいましょう』と」
「それが素質というものだ。それに卿の妻が先に見せたようなあの無邪気さもまた素質といえる。また別の言い方をするなら詩心とでもいえるがな」
「詩心ですか?」
トバイアスはかつてクリフォーレ王の夜宴で、ノードゥスと詩を交わしあった日々を思いおこしていた。
「心当たりはあるのか?」
「それが無いとは申せません。彼女と親しくなったのは、その詩が我らのあいだにあったからです」
「そうであろう。予の寿命が尽きる前に、いつかは伝えんと思っていたことだ。予にしても卿にしても、ネッドやデクスターにしても、またエイダンにしても、死者の声など聞けるものなどおらぬ。それらは己のこころの声を曇った硝子を通すことなく聞けるまでのことだ。卿がノードゥスに求めた、己自身に誓うということが素質の正体を恐らく最も的確に言い当てている言葉であろう」
「では、デクスターはどうなるのです? 彼はそれを知らないのではないですか」
「左様だな。だがあの男は、納得しておるし、それが死者の声を聞く声だと思いこんでいたとしても、実際にあの男が聞いているのは己のこころの声であるのだから、例え一生涯、故国の土を踏めなかろうと、後悔はせぬだろう。だが、卿とエイダンにはしかと伝えておくつもりだった。予亡きあと、政略ととられかねる者を王位につけるわけにはいかぬ。智謀の将トバイアス卿よ、予のいう意味がわかるか」
「では、エイダンを王とされよと申されるのですね」
「その通りじゃ。そして卿が予から受け継いだものを与えてやって欲しい」
「御意のままに」
「予は老いた。そしてまた予の唯一貴ぶべき存在であったシアーシャも老いた。今やあの雄の鵞鳥は、狩りもできぬ身じゃ。予とそう変わりはない。じきにシアーシャも世を去るだろう。そのときは手厚く葬ってやって欲しい。何ものも年月の流れには逆らえぬのだから」
トバイアスは言うべき言葉を失い、ただ黙然として頭を垂れつづけた。
「もはや、死者の声に悩まさる必要はない。安堵して過ごすがよい。ノードゥスとの誓いを守れ。誓いの意味を皆に教えてやってくれ」
「御意のままに」
「予は疲れた。休ませてくれ」
トバイアスは言葉を発さずに、頭を垂れたまま王の居室から辞去した。
雲ひとつない晴れた晩夏のある日、老いたオトゥール王は用意された椅子に座して、シアーシャをはじめとする近習の臣下たちをつれて狩りにでた。そこには青年となったエイダンの逞しい姿もあった。もはや狩りの出来なくなった王と鵞鳥は、優雅に矢を放つ凛々しいエイダンを眺めながら、蘆原を揺らす風にただ吹かれていた。
それから数日して、オトゥール王は静かに息を引きとった。
翌日、エイダンがオトゥールⅡ世として即位した。
新王から休暇を得たトバイアス夫妻は、二十年の時を超えて、かつてクリフォーレ王と対峙したあの湖畔を訪ねていた。
歳月が多くのものを変えていた。もはや戦の痕跡はどこにもなかった。
湿原に吹く風を頬に受けながらトバイアスが妻に言った。
「君がはじめて夜会で歌った詩を憶えているかい?」
「ええ、もちろんです」
「歌っておくれ、今は亡き我が君のために」
太古より来る風よ
何処からきて
何処ゆくか
彼方へ赴く風よ
風よお前は変わらでか
蘆原うって波立てて
風よお前はいつの日か
翳とどめんと振りむいて
群なすひと草ゆらさんと
踊らんばかりに渦巻けや
あえなくひと草たおさんと
踊れや踊れ渦巻けや
いつか朽ちては
去る前に
いつか朽ちては
去る前に
だけどお前はつれない風
昔と今と夢掃くように
だけどお前は吹いて消え
もはや踊りもままならに
ひと草の蘆つき見よと
その身起こすことならじ
ひと草の蘆つき見よと
お前よ風を待つだけに
いつか朽ちては
土還るだけ
いつか朽ちては
土還るだけ
それは以前と変わらぬ美しい歌声だった。宵闇迫る寒空に、月を呼び出すような妙なる声だった。
「我が君は月を見れたのだろうか」
「きっと見れましたわ。永久に風はやみませんから」
「ならばいいのだが」
「ねえあなた、ユーラレがもう少し大きくなって、王様はどんな人だったのと聞いたら、なんと答えるおつもりですか?」
「そうだな、我が君、若きオトゥール王は氷像のようなお方だった」
「逆らうことなく、ただ溶けるままにお任せになったと仰るのですね。その手やその心は決して冷たくはなかった。何もかも見通していたし、誰にでもご自身を隠すこともなかった。そう仰るのですね」
トバイアスはこの世界で立てられる誓いがすべて叶うことを祈るような眼差しで、昇りはじめた半透明の月を見つめていた。
蘆原に立つ二人は、月光が通りぬけてゆくように透明で冷たい氷像のようだった。
しかし、繋ぎ合わされた手と手には温もりがあった。




