悲 恋
イングランドを治する、クリフォーレ王の居城では、今宵も夜会が催されていた。
ちらばる億千の星々に見守られながら、月に惹かれて集った近しい人たちの宴は、穏やかにつづいていた。
「前回にて『イリアス』の朗読は幕切れとなりましたが、さて、今宵はどういたしましょうか。ひきつづきホメロスでもお楽しみ頂けるでしょうから、今夜からは『オデユッセイア』でも朗読いたしますか?」
「今夜はいささか余興など、いかがでしょうか」
トバイアスの質問に応えたのは、ノードゥス王女だった。
「お転婆だと笑われましょうが、わたくし、聞いているだけではつまらなくなってきたのです」
「珍しいこともあるものだ」
クリフォーレ王は、未だにやってみたい事を一度も口にしたことのない王女を、興味深げに見やっていた。
しかし王女はその視線にはまるで無頓着に、弾むように立ち上がって部屋の中央に躍りでた。臣下たちが拍手をもって迎えた。
「それでは失礼いたしまして」
ノードゥス王女は小さく会釈をしたあと、雲雀のように歌いはじめた。
太古より来る風よ
何処からきて
何処ゆくか
彼方へ赴く風よ
風よお前は変わらでか
蘆原うって波立てて
風よお前はいつの日か
翳とどめんと振りむいて
群なすひと草ゆらさんと
踊らんばかりに渦巻けや
あえなくひと草たおさんと
踊れや踊れ渦巻けや
いつか朽ちては
去る前に
いつか朽ちては
去る前に
だけどお前はつれない風
昔と今と夢掃くように
だけどお前は吹いて消え
もはや踊りもままならに
ひと草の蘆つき見よと
その身起こすことならじ
ひと草の蘆つき見よと
お前よ風を待つだけに
いつか朽ちては
土還るだけ
いつか朽ちては
土還るだけ
歌が終わったとたん、万雷の拍手が起こった。
「はじめて作ったものです。拙い詩ですが、皆さんが歌う呼び水にでもなればと思いまして」
王女は晴やかにドレスの裾を翻して席に戻った。
「どうやら王女様には、詩作の才能があるようですな」
トバイアスは彼女の吟じた詩にこめられた韻の響きを読みとっていた。それが一昼一夜に作られたものでないことにすぐに気づいた。そしてそれ以上に、彼女の胸裡にある哀しみをそれとなく感じとっていた。
「さてそれでは、王女様の期待に応えて、我こそはという方はいらっしゃいませんか。即興の歌を吟じてくださる方はおられませんか?」
豪気の城主クリフォーレ王の臣下たちは、戸惑い顔で互いの表情を窺いあうばかりだった。しかし、一人の若い臣下が「それでは」と言って、進みでた。
こうして、トバイアスの朗読からはじまった宴は、思いもよらぬ方向へと舵が切られたのである。夜会の第一歌はいつもノードゥス王女によって歌われ、それにつづいて、臣下たちが即興で詩吟や楽器の演奏を披露した。中には酷いものもあったが、貶す者はいなかった。ときには仮面をつけた二人が喜劇を演じ、ときには長々と独演される痛烈な諷刺が、聴衆を笑いの壺に投げこむこともあった。そうして夜が重なるにしたがい、王と臣下たちは武勇とは違う喜びや楽しみを文芸に見出していった。そんな中、クリフォーレ王と妃の心を殊に動かしたのは、意外にも悲恋の詩歌であった。若い臣下たちはその理由もわからず、ただ驚くばかりだったが、王と妃のなれそめを知る古老たちは、悲恋の歌に涙を飲むのだった。
そうしたことが三カ月ほどつづいたある夜、ノードゥス王女がひとつの詩を吟じた。
月も落ち、プレアデスも
落ち、よるのしじまに
時はすぎゆく
けれどもわたしは一人眠っている
歌い終えた彼女は、落ち着きなく席に戻り、頬を赤らめて俯いていた。華麗なドレスの袖から覗いたレースの襞が幽かに震えていた。そうしてそのあと、ゆっくりと上げられた美しい黒目がちな瞳が、潤みながら輝いているのを、トバイアスは見てとった。
智謀の将は、王女が歌った詩が女流詩人サッポーの悲しい恋の歌であることを知っていた。そしてそのときトバイアスは、はたとノードゥス王女の気持ちに気づいたのだ。彼は思わず手を挙げて、設えられた台にのぼって歌った。
紫の髪に匂う清き優しきサッポーよ
なれに語らんと思えど、はじらいの心われを留む
彼は周囲の耳目を欺くために、長々と即興の詩を歌いながら、そのなかに、返歌を差しこんだのである。それに気づいたのはノードゥス王女その人だけだった。
トバイアスにつづいて吟じられた悲恋の歌によって懐慕が湧いたのか、クリフォーレ王の手が妃の手に重ねられていた。そしてその傍らに置かれた椅子から、菫の髪飾りをつけた王女が立ち去ろうとしていた。
トバイアスはいたたまれぬ気持ちでそれを見送った。彼女の気持ちに応えることも出来ず、それを慰めてやることも出来ない己にただ肩を落としたのだ。




