鵞 鳥
その雄の鵞鳥は、エイダンによってシアーシャと名づけられた。
まだ幼なかったせいか、シアーシャはすぐにエインダをはじめとする城中の人たちに懐いた。そうして人びとのアイドルになった。シアーシャのほうからして、どうだったかといえば、彼はどうやらオトゥール王の崇拝者であるようだった。少なくとも、彼をよく知る人の目にはそう映ったのである。なぜならシアーシャは、首に繋がれた縄を解かれてから、どこかに出かけては、王の執務室につづく桟敷に舞いおりて、毎日貢物を届けることを怠らなかったからだ。日の出とともに目を覚まし、朝食をせわしなく嘴で突いて平らげると、ようやく温もりをもたらしはじめた太陽めざして飛びたち、紅鱒を咥えて夕暮れまえに、王のもとへそれを届けることを、彼は日課にしていたからだ。
そうしたことがあって、シアーシャとその主人のエイダンは、オトゥール王と親密になっていった。
「どうしてシアーシャは、王様に紅鱒を運ぼうと思うんだろう? 王様だけでなく、他の人にもって考えないのかなァ?」
「予にもわかないことがある。だけど、こういうお話がある。農夫の飼っている鵞鳥が、ある日金の卵を産んだ。翌日また金の卵を産んだ。その翌日も……翌日も……。そのおかげで農夫は大金持ちになった。それからも鵞鳥は一日一個金の卵を産んだのだけど、農夫は物足りなさを感じて、こう考えた。もしかしたら、こいつの腹には金塊が詰まっているのかしれない。そう思うといてもたってもいられなくなり、彼は鵞鳥の腹を切り裂いてみた。だが、鵞鳥の腹に金塊は無く、腹を切り裂かれた鵞鳥は死んでしまい、もう二度と金の卵を産むことはなかった」
「なるほどねェ、あんまり欲張るなってことですね」
オトゥール王は目の横に皺を刻みながら笑った。
「毎日毎日の積み重ねが大事だ、という寓意もあるかもしれないけれど、シアーシャが誰に何をどれくらいあげようと思うかは、彼に任せるしかない。ただ予はこう思う。毎日予ばかリがそれを貰おうとは思わない。ある日には予よりそれが必要な人もいよう。また違う日にはまた別の人にそれをあげたほうがいい場合もある。そう考えられるのが、動物と人間の違いではないかと、予は思っているのだよ」
エイダンは聞いたことを反芻するように考えてでもいたのか、しばらく鵞鳥の体を撫でていた。
「じゃあとっても鱒が食べたそうな顔をしてる人がいて、今日は、誰さんが鱒を食べたそうだったので、貰えますかって言ったら、王様はそれを許してくれる?」
「もちろんだ」
「ぼく、王様っていうのは、人からものを貰いうけるんだと思ってた」
「そういう王様もいるだろうが、予はそうではない。少し変わっているのかもしれないな。それはともかく、食べたそうな顔に心当たりがあるのかい?」
「ブルックおばさんだよ」
それは、トバイアスが戦争寡婦として引き取り、料理人の一人として働いている、老いた女の名だった。
「だけど本当にブルックがそんな顔をしてたのかい? ひとの気持ちがわかるというのは簡単なことじゃないからね。もしかしたら本当に、おばさんがそういう顔をしてたのかもしれない。だけどそうじゃなくて、たまたま君にそいう風に見えたのかもしれない。君にそう見えたからって、本当のところブルックは欲しいと思っていなかったかもしれない、ということもある。どっちだったんだろね?」
「なんとなく言われてることはわかるんですけど、王様の言うことは難しいなァ……」
「まあいい、持って行ってあげない。手渡すときに相手がどんな顔をしたかを見れば、どっちだったかはわかるさ」
オトゥール王は紅鱒を皿ごとエイダンに手渡した。
「もう日が暮れる、早くもっていっておやり」
「ありがとう、王様」
「おやすみ、エイダン」
「おやすみなさい」
エイダンはそよ風のように走りだしていった。だが、何か忘れ物に気づいたように振りかえった。
「王様はお妃様をもらわないんですか?」
「予の顔がそんなふうに見えるのかい?」
「わかりません。ただ、なんとなく」
「君が心配するようなことじゃない、さあもうお行き」
「それではまた明日」
暮れゆく太陽と昇りはじめた月によって描きだされた、小さな人影が見えなくなるまで、そう長くはかからなかった。
しかし、そこに二つの影が差すことは確かだった。翼あるものが空を飛べば、その下に影が従うようなものである。
若きオトゥール王はそのことを鋭敏に嗅ぎとっていた。だが、王はその夜も遅くまで執務をつづけた。
ときに真剣な面持ちで、腕を組んで沈思黙考したあと、案件に対する善後策を羽根ペンで書きつけ。ときに目頭を押えて、口元をひらつかせ、血色のない無表情になり、そうしてまた羽根ペンを走らせた。生者の声と死者の声を聞きながらの執務は、王の精神と肉体を痛めつけた。それは、風除けのあるランプの外では、欲望の雲からおこった旋風と、様々な感情の塵埃が混ざりあって吹きつけてくる豪雨に打たれても、灯された炎を揺るがないようにするのに似ていた。しかし炎を燃やしつづけるためには、風除けの底部と頂部にある空間を塞いでしまうことはできない。そうしてそこから、彼の精神と肉体は徐々に侵蝕されてきたのだ。
即位から二十年余りの日々、空に太陽のあるあいだは、勇武に優れんとして甲冑を着て馬上の人となって槍を揮い、駒を下りれば盾を構えて剣を握る日々。陽が落ちれば叡智を鍛えんとして、月明りと燭台の灯を友として、書物を開きつづけた夜々。一日たりとも休息することのなかった年月。そして十年に及ぶ戦争のなかで味わった艱難辛苦。彼は常に寧日とは無縁だったのである。
そして今、若きオトゥール王には、クリフォーレ王の軍勢に、再侵攻する気配ありという諜報と、長年の不眠不休に抗議の声をあげはじめた、常人より早い肉体の衰えという、ふたつの影が忍び寄っていたのだ。




