親 善
「小生、とうていそれには賛成しかねます」
トバイアスの声は、いつになく激昂していた。
城中の一室に集まった執務官たちを囲むように、いくつもの燭台に灯された火が燻っていた。炎とともに立ちのぼった煤は、智謀の将の胸に沈潜していた遺恨を浮かびあがらせるように、天上に黒い染み広げていた。議題に乗せられていたのは、クリフォーレ王が画策している再侵攻に対して、いかなる態度を取るかであり、既に選択肢は、外交を用いるか軍備をもって応えるかに、絞られていた。
「卿は智謀の将であることを忘れたか? 老卿ニアードの最期が眼前に蘇ることは、予にも理解できるが、それはそれ、これはこれであろう」
「我が君の仰ることはごもっともです。しかし、小生にも感情というものがございます」
「だからこそ、予はここにおるデクスターやネッドのようなものを育ててきたことは、卿がもっともよく知っておることであろう、違うのか?」
「それは理解しています。しかし、ニアード卿はそれで浮かばれるのでしょうか?」
「ならばトバイアス、直接ニアードに訊ねてみるがよい」
オトゥール王の声は物静かだったが、その奥には堅固な意志があるようだった。
ネッドとデクスターは言葉を耳にした瞬間、瞼を下したが、王はトバイアスをじっと見据えていた。
「それは……」
「なにを恐れておる。直接訊くがよい。それが一番、間違いのないことだ」
トバイアスは静かに目を閉じた。そして、死者の声を聞くための黙想へと己を導こうとした。彼はとてつもない恐怖から、背中を冷汗が流れるの感じていた。それまで、聞こえてくる声をきくことはあったが、己から進んで、死者の声を聞こうとしたことは、なかったのだ。
――誰じゃ、儂の眠りを覚ますのは? ほう、懐かしきかな、卿はわが友、トバイアスではないか。
――ニアード卿、少々お伺いしたいことがありまして。
――なんなりと申せ。
――卿はあのとき、というのはクリフォーレ王と対峙したとき、どのようにお考えだったのですか?
――なかなか微妙な質問をされるな、卿は。だが答えてしんぜよう。卿は恐らく儂の最期の言葉どおり、儂が己の一命をもってしても、彼の王と刺し違えてでも、彼奴の遺恨を断ち切ろうと思っていたと見ておるのじゃろう。だがな、違うのじゃ。この老いぼれ、伊達に歳はくわなかったのじゃ。儂がなんとしても彼の王を討つといって、我が君がそれを止められぬようであれば、本当の意味で誰かを遺恨の沼から引きあげることもできんし、我が君が新らしい時代を作れるとは思えなかったのじゃ。つまり儂は、意地が悪かったのじゃ。王を試すためにあのような最期を遂げるのが、きっと儂の運命だったのじゃろう。
――では老卿は、彼の王が改心できると信じておられたのですね。
――左様じゃ。人間の心というものは、一筋縄ではいかぬものじゃがな。
――お言葉、ありがたく拝聴いたしました。ごゆっくりお休みください。
――ああ、そうするよ。皆によろしく伝えてくれ。爺は呑気に寝呆けておるとな。
「納得できたかな、智謀の将トバイアス卿」
オトゥール王はいつもの穏やかな表情だった。すでに瞼をあげていたネッドとデクスターもまたそうだった。
「己を過信しておりました。砦でオルトンと共に過ごしたあの数年、小生、実は王を疑ったことが何度もあったのです。なぜ我が君は前線にいらっしゃらないのか、と。しかし今、ようやくわかりました。我が君がこのようにして、これらの者を必死になって育てられ、かつまた小生の目覚めを待っておられたのだと」
ネッドとデクスターの二人が相槌をうつように肯いていた。
「疑いは眼を曇らせる。予は願っておった。卿が真に目覚めることをな。しかし、目覚めというものは、無理に強いたりするものではない。ことの善悪はいまだ予にもわからぬが、ネッドたちが目覚めたのは、戦があったゆえと言えるのだ。彼らは親兄弟を失い、目覚めざるを得なかった。人びとは平和を求める。だがな、そうした時代になればなるほど、目覚めるものは少ないようなのだ。皮肉なことであるが、どうやらそのようだ。ゆえに予にはいまだにわからんのだ、戦の世が良いのか、平和な世が良いのかが。どちらの世が良いなどと軽々に言えぬと思うておる。卿がより深き道に進む契機もまた、此度の危急があったればこそと言えよう。不肖ながら予にわかるのはその程度のことなのだ」
「それでその契機を逃さず、小生をイングランドへの親善大使とされたいと申されたのですね」
「その通りじゃ」
「そうあることで、小生の目覚めを完全に近づけようとお考えになられたと」
「なにしろ卿は予にとって最も信頼にたる男であるし、予とのつきあいも、ネッドらより長いのだからな」
「親善大使の件、謹んでお引き受けいたします」
こうして智謀の将トバイアスは、暗殺の恐れさえある地に、親善大使として赴くことになったのである。
それは、従来考えられている大使の使命とは、相当に趣きを異にしていた。トバイアスは敵国の政情や情勢の密偵としてではなく、ひとつにはクリフォーレ王の遺恨を拭い去る友人として、ひとつには彼の国の王家や民人にとって有益な施策の立案を助け、また両国にとって価値ある情報を交換しあう使命を期待されていたのである。
しかし彼にも心残りがあった。エイダンのことだった。
だがそれもオトゥール王に見抜かれていた。
「そのことなら、寛大なる巨漢のネッドに任せるがよい。予自身もあの子の傍にあって何かと教えてやりたいと思うておる。それにデクスターや他の者もおるし、旧臣下にも信頼できる者はおろう。ネッドの次の世代で目覚めるものは、そう多くはあるまいが、エイダンにはその素質があると予は見ている。平和な時代ゆえそうした者が少ないだけに、大切に育ててやりたいと思うておる。卿の後任として傷痍病者に当たるのは、オルトンの側近であった男、オーブリーが適任であろう。それでどうだ?」
「安心いたしました」
その翌日、クリフォーレ王のもとへと、親善大使の件を伝える使者が出立した。
派遣される智謀の将トバイアスと、王のもとに残る隻腕の族長デクスターのあいだでは、数日のあいだ、様々な意見が交換され、危急の際の連絡方法などを、隅々まで検討しあった。そうして、出発の日がやってきた。
昇りはじめた太陽が、トバイアスを見送るために、城の南門に集った人影を長くたなびかせていた。
「エイダン、これからは王様とネッドの言うことをよく聞くようにするんだぞ」
「大丈夫だよ、トヴィーおじさん。僕ちゃんとできるから」
巨漢のネッドの肩に乗せられたエイダンは、必死に笑顔を絶やすまいとしていた。
「それでお前、シーアシャのことは承諾したのかい?」
「うん、王様がたってのお願いだっていうから」
「トバイアス卿よ、何も心配はいらんて、我らが何事も滞りなくやりおうすから。ああそれから、これは俺とデクスターからのささやかな餞別だ」
そういってネッドは二冊の本を手渡した。ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア 』だった。
「卿なら、その本に書かれている本質を読みとれるだろう」
「武勇のアキレウスか、智謀のオデュッセウスか、卿はどちらを選ぶのかといったところか?」
「さすがに察しが早いな。その二冊に重ねて、卿に対していくつかの心配事を申させてもらうなら、オデュッセウスには帰還を辛抱強く待つ良妻がいたが卿にはおらぬこと、それと、彼が帰還までに十年を要したといった辺りかな。卿の場合、イングランドで嫁をもらうという手もあるし、卿の実力をもって事にあたるなら、十年ということにはなりそうもないが」
「いまだ王が妃をもらわぬのに、小生が先を越そうとは思わぬがな」
トバイアスは『イリアス』の表紙をめくった。すると表紙の裏に、デクスターが記したであろう文字が刻まれていた。
――癒しを歌え、女神よ、イングランド王クリフォーレの――アイルランド勢に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王に投げ与え、その亡骸は群がる野犬野鳥の啖うにまかせたかの呪うべき王であっても。
「デクスターは、冒頭の一節が気に食わぬらしい」
トバイアスはにこやかに微笑んで、本を閉じた。
「王はどうやら執務を離れられんようだな」
「性分だな。その分われわれが盛大に送っているつもりだが」
デクスターは王の居室へとちらりと目を向けた。
「それでは我が君をくれぐれもよろしく頼みます」
トバイアスはそう言って馬車に乗りこんだ。走りだした馬車に向かって手を振りながら、エイダンが叫んだ。
「トヴィーおじさん、手紙を書きます!」
そのときトバイアスは、オトゥール王の居室につづく桟敷から、けたたましい啼き声をたてながら、飛んでくる鵞鳥の姿を見たような気がした。
シアーシャが伝えたのは、王が病臥に斃れたという知らせだったが、その急報はトバイアスの耳には届かなかった。




