名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
黄なる面 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
仲睦まじく連れ添っていた妻が、大金を持ち出し、夜な夜な不審な家へ通い始めた。夫を阻むのは、暗がりから覗く生気のない「黄なる面」と、決して踏み込まぬよう泣きすがる妻の姿。相談を受けた中宮・彰子は、恐喝の匂いが立ち込める宇治の闇夜へと乗り出していく。しかし、黄なる面の下から現れたのは、彰子の完璧な推理すら覆す予期せぬ「真実」だった――。"石の中宮"が唯一予想を外し、生涯胸に刻むこととなる異色の平安宮廷ミステリー。
わたくしはこれまで、中宮彰子さまの見事なご推理を、いくつも筆に記してきました。――いずれも人の知恵の及ぶ極みと申してよい出来事です。
けれど今から記す一件は、少々趣が違います。
なぜならこの事件では、彰子さまは最後まで、いつものようにはお勝ちにならなかったからです。
もちろん、真相には近づいておられました。けれど、もっとも大事な一点で、彰子さまは人の心を推し量りすぎました。
いえ、違うかもしれません。むしろ、わたくしたちの住むこの都の常識が、あまりにも狭く、人を傷つけるものであったため、どれほど聡い人でも、ついそちらへ引かれてしまった――そう言うべきなのでしょう。
この一件の終わりに、彰子さまは静かに笑って、わたくしへこう仰せになりました。
「衛門。もしわたくしが、また自分の推理に酔っているように見えたら、その時は“宇治の黄なる面”と、そっと耳打ちしなさい」
その言葉を、わたくしは忘れません。
それは、春まだ浅きころのことでした。庭の梅はほころび始めていましたが、風にはなお冬の冷たさが残っていました。
その日、彰子さまは珍しく御殿の気詰まりを離れ、わたくしとともに御所の東の御庭をしばらく歩いておられました。
歩くといっても、彰子様は運動のために歩かれることはあまりありません。ただ思案が行き詰まった時、あるいは人の顔色や気配ではなく、もっと静かなものを見たい時に、ひとりでなく誰かを連れて、ゆるゆると歩まれます。
その日はわたくしも特に語るべき話題がなく、ただ、白砂の明るさと、空の薄青さとを眺めながら、二人してものも言わずに過ごしました。
やがて御殿へ戻ると、控えていた女房が申しました。
「ただいま、中宮さまにぜひ御意見を伺いたいと仰せの殿方がお見えになりましたが、しばらく待たれたのち、いったんお帰りになりました」
彰子さまはわずかに眉を上げられました。
「待たせすぎましたか」
「半刻ばかりかと。ひどく落ち着かぬご様子で、廊の端まで行っては戻り、何度も足を止めておられました」
「置いていったものは?」
「これを」
女房が差し出したのは、一本の古びた扇でした。彰子さまはそれを受け取り、光の下で静かに眺められました。
骨はよく使い込まれ、地紙の端もわずかに擦り切れている。でも要には補修の跡があり、それも決して粗末ではなく、精巧な細工で丁寧に留め直してありました。
「大切にしている品ですね」
と、わたくし。
「ええ。新しいものを買うより、わざわざ直して使っています」
「身分の高い方でしょうか」
「それなりに暮らし向きがよく、けれど贅沢に散財する質ではない。それから――」
彰子さまは扇の親骨へ目を細められた。
「歯が丈夫で、左利きです」
「左利き?」
「扇を開くとき、左の親指をかける位置の漆がかすかに擦れて薄くなっています。右手で扱えば逆になるはずです」
わたくしは、いつものことながら感嘆しました。このような細かなものから、持ち主の体つきや癖まで見て取ってしまう。
「では、その方は」
「体格もよいでしょう。苛立つと、扇の端を強く噛む癖があります」
ちょうどその時、外からあわただしい足音がしました。女房がもう一度顔を出しました。
「先ほどの殿方が、やはりどうしてもと仰せで、戻って来られました」
「お通ししなさい」
やがて現れた男を見て、わたくしは、扇から読み取った像とほとんど違わぬのに驚きました。
背の高い、がっしりした三十過ぎの男でした。顔立ちは整っていますが、その日ばかりは青ざめ、疲れ切っていました。二、三日ほとんど眠っていない者の顔です。衣はよいものだでしたが、着崩れ、心の内が乱れていることをそのまま表していました。
男は几帳の外に額づき、名を名乗りました。
「藤原実景と申します。中宮さま、どうかお助けください。私には、もはやどうしてよいか分からぬのです」
彰子さまは、いつもどおり急かさぬ声で言われた。
「まず落ち着きなさい。眠っていませんね」
実景ははっと顔を上げました。
「……はい」
「二晩ほど」
「なぜ、お分かりに」
「顔色と、目の下の影と、言葉の切れ具合です。労苦より、心労の方が人を早く蝕みます」
その一言で、男は張り詰めていた糸が少し緩んだようでした。でも、次に口を開いた時、その声はひどく苦しそうでした。
「私は……妻のことで参りました」
こうした相談は、宮中にあっても珍しくありません。けれど、多くは嫉妬、浮気、財産争い、あるいは親族同士の面目に関わることです。ところが実景の顔には、怒りと同じほどの痛みがありました。
「妻は、私を愛しております」
と彼は言った。
「このことに疑いはありません。私はそれを知っておりますし、感じてもおります。しかし――それでも、妻には私に隠していることがあります。そしてその秘密が、ここ数日のうちに、急に私たちのあいだへ深い溝を作ってしまったのです」
彰子さまは答えられない。ただ沈黙を与え、それによって相手に話させる。わたくしはいつも、その見事さに感心します。
実景は少し呼吸を整えてから、語り始めました。
「私の妻の名は、絹江と申します。今の私と連れ添って三年、これまで、夫婦のあいだに争いらしい争いは一つもありませんでした。妻はもともと未亡人でした。若い頃、父の任に従って筑紫へ下り、あちらである男と結婚したのです」
「筑紫で」
とわたくしは思わず繰り返しました。
筑紫は、異国の船も着き、京とは違う空気の流れる地です。商人、通詞、役人、僧、さまざまな者が出入りし、ときに唐や新羅ゆかりの人々の噂も耳にしました。
「前の夫は、大宰府に出入りする文書役のような務めをしていたと聞きました。しかし病で早く亡くなった。その後、妻は都へ戻り、伯母のもとで暮らしておりました。そこで私は妻に出会ったのです」
「お子は」
と彰子さま。実景は首を振った。
「亡き夫とのあいだにひとりあったと聞きましたが、幼くして病死したと。証も見ました。前の夫の死を記した書付も、子を亡くしたことも、確かに記されていました」
「なるほど」
「妻には、前の夫が残した田地がありました。それを私と婚した時、ほとんど私の管理に任せるようにいたしました。私はあまり好まなかったのですが、妻が『夫婦であるなら同じこと』と申しましたゆえ……」
この辺りまでは、どこにでもありそうな話です。でも実景は、ぐっと声を低めました。
「ひと月半ほど前のことです。妻が私のもとへ来て、少なからぬ財が要ると言い出しました」
「理由は」
「申さぬのです。ただ、あとで必ず話す、と。私は少し迷いましたが、これまで一度もそうした頼みをしたことのない人ゆえ、渡しました」
彰子さまは扇の骨を指先でひとつ鳴らされた。これもまた、話の綻びを見つけた時の癖です。
「そして、事はその後ですね」
「はい。私どもは、宇治へ下る途中の里に小さな別邸を持っております。普段はそこで過ごすことも多いのですが、家の近く、畑と空地を隔てた先に、長らく空いていた小さな家があるのです。何月も誰も住まぬままでしたが、つい先日、誰かが入ったらしく。荷車が入り、多くの葛籠が運び込まれておりました」
「それだけなら、よくあることです」
「ええ。私もそのはずでした。ですが、何気なくその家の様子をうかがった時、薄暗い格子の奥から――顔が、こちらを見ていたのです」
その時のことを思い出したのか、実景の顔がかすかに引きつった。
「どのような顔でした」
と、彰子さま。
「はっきりとは申せませぬ。離れておりましたので。ですが……あれは、ぞっとする顔でした。白いのでもなく、ただ青いのでもなく、黄ばんだ蝋のような色で、ぴくりとも動かぬ。生きた人の顔とは思えぬほど、こわばっていたのです」
わたくしも、話を聞きながら背筋が寒くなりました。
「近寄って確かめましたか」
「はい。ですが私が歩み寄ると、その顔はすっと暗がりへ消えました。気味が悪くなり、家の者に会っておこうと思って戸を叩くと、出てきたのは、背の高い痩せた、無愛想な年かさの女です。こちらが隣人として挨拶し、何か入用ならと申しても、まるで追い返すような返事をしたのみでした」
「奥方には話しましたか」
「家が埋まったことだけは話しました。けれど、例の顔のことは申さずにおきました。妻は神経の細い人です。よけいな不安を抱かせたくなかったのです」
実景はそこで大きく息をつきました。
「ところが、その夜です」
このくだりは、実景の口から語られるほどに、生々しいものでした。
「私は普段、夜はよく眠る方です。ですが、その晩に限って、どういうわけか寝つきが浅かったのですが。ふと気づくと、妻が起き上がり、衣を重ね、外へ出る支度をしていたのです」
わたくしは思わず身を乗り出しました。
「夜半に?」
「はい。灯を隠すように持ち、そっと、私が眠っているかを確かめながら」
「その顔つきは」
「見たこともないほど蒼白でした。怯えているようで、しかし、何かを決心した者の顔でもありました。やがて妻は部屋を出て行き、ほどなく、表の戸のきしむ音がしました。」
「追いかけはしなかったのですか」
「その時は、あまりにも突然で、ただ呆然としてしまいました。やがて数刻ほどして戻って来たので、私は問いただしました。すると妻は『気分が悪くなって、夜気に当たりたかったのだ』と……。ですが、あれは嘘です。私は、これまでの暮らしの中で、妻が私に嘘をついた顔を初めて見ました」
その時の苦しみが、今もそのまま男を絞めているのが、ありありと分かりました。
「翌日、私は別邸の近くを歩きました。すると、あの新しく入った家から――妻が出てきたのです」
わたくしは思わず「えっ」と声を漏らしてしまいましたが、実景は気にもとめず続けました。
「妻は私を見るなり、ひどく驚きました。それから、慌てて取り繕い、『新しく来た人に、何か手助けできぬかと顔を出しただけ』と言いました。私は昨夜ここへ来たのだろう、と問いました。でも妻は否定しました。
それでも私が、家の中へ入って真相を確かめようとすると、妻は取り乱して私にすがりつき、どうか入らぬでくれ、今ここへ入れば取り返しのつかぬことになる、と泣きながら止めたのです」
彰子さまは静かに尋ねられた。
「そのとき、奥方は何か条件を出しましたか」
「ええ。『もう二度とここへは来ない。だから今だけは信じて』と。私は……結局、その場は折れました」
「ですが、まだ終わらなかった」
「はい」
男の手が膝の上で、固く握られた。
「二日後、私は都へ出るふりをして、早く戻りました。すると、女房が妙に慌てていました。妻は気晴らしに庭へ下りたと言います。不審に思って縁へ出て、透垣越しに外を見遣った時、見えたのです。
その女房が、隣家とのあいだの草地を駆け抜け、まっすぐ、例の家へ走っていくのが」
ここで、わたくしも事情を悟りました。妻はその家におり、夫が戻れば知らせよと言いつけてあったのです。
「私は怒りのあまり、そのまま例の家へ踏み込みました。しかし、表の部屋にも奥の間にも、人はひとりもおりません。ただ、きれいに整えられた一室の文机の上に――」
実景は歯を食いしばるようにして言った。
「――私の妻の似絵が置かれていたのです。それも、ごく最近描かせたばかりのものが」
わたくしは息をのみました。これは、いよいよただなりません。
「妻はすぐ追いついてきて、必ず事情を話すから、今は何も聞かないでくれと言いました。私は、あそこに誰がいるのか、なぜ妻の似絵が置かれているのか話さぬ限り、もう夫婦ではいられぬと申して、その場を去りました。以来、私は妻とまともに口をきいておりません」
語り終えた男は、ひどく疲れた顔で項垂れました。
「どうか、お教えください。私は一体、何を信じ、どう振る舞えばよいのでしょう」
実景の話が終わると、しばらく部屋は静まり返った。庭から、風に揺れる枝の音だけが聞こえます。
やがて彰子さまが、静かに言われました。
「まず確かめたいことがあります。その家は、今も人が住んでいるように見えますか」
「今日の夕刻には、もう一度見てみようと思っております」
「よろしい。もしまだ人の気配があるなら、決して独りで踏み込まず、すぐ使いを寄越しなさい。わたくしと衛門が参ります」
実景は深く頭を下げた。
「ありがたく存じます」
男が退出した後、わたくしは待ちかねて尋ねました。
「姫様、いかがお考えですか」
彰子さまは、少しばかり疲れたように目を伏せられた。それは、推理が難しい時というより、あまりに筋が通りすぎて、かえって不快な時のお顔です。
「衛門、これは、たぶん脅しです」
「脅し……」
「絹江は前夫の死後、都へ戻り、新しい名で生き直した。けれど、過去を知る者がどこかで彼女を見つけた」
「前の夫の関係者、でしょうか」
「そう考えるのが自然です。たとえば前夫が死んでおらず、生きていた。あるいは、その周囲にいた女や親族が、彼女の居場所を知った」
「それで財を」
「ええ。一月前のまとまった金が、まずその口止め料だったのでしょう」
わたくしはうなずいた。たしかに、それなら辻褄が合います。
「では、あの黄なる顔は」
「病人か、あるいは異様な容貌の者を、わざと見せて怖がらせているのかもしれません。人は、正体の分からぬ顔を最も恐れますから」
「似絵は、脅す者が妻を縛るための印……」
「そう。“お前が今どこでどうしているか知っている”と示すために、絹江から取り上げた、あるいは持ち出させたのです」
「では、家にいたのは前夫」
「その可能性は高い」
「死んだはずの前夫が」
「死んだとされたのは、病や火事の混乱の中です。証文など、いくらでも作れます」
わたくしは唸りました。どれももっともらしい。いえ、もっともらしすぎるくらいです。
「それに、奥方がご主人を入れまいと必死になるのは」
「今の夫にとって耐えがたい真実を見せたくなかったからでしょう。恥、あるいは恐れ。それらが混じっているのです」
彰子さまはそこで一息置かれた。
「ただし」
「ただし?」
「わたくしはまだ、その“真実”が何であるか断じません。勝手に決めるのは危うい。でも、筋だけで言えば、そうなります」
それから、ふっと口もとをゆるめられた。
「いずれにせよ、今夜のうちに動きがあるでしょう。人は秘密を抱えたまま、長くじっとしていられません」
思ったより早く、知らせは来ました。夕餉を終えたころ、実景からの急ぎの文が届いたのです。
例の家に、なお人の気配あり。黄なる顔、ふたたび窓に見ゆ。約せられしごとく、おいでを待つ。
彰子さまは文を読み終えると、すぐに立たれました。
「参りましょう、衛門」
夜の道を行くのは楽ではありません。それでも、事件が動く時の彰子様は、一刻も無駄にされません。
通常、中宮のお出ましともなれば牛車を仕立てるのがしきたりですが、鈍重な牛の歩みでは宇治まで到底間に合いません。あのお方は迷うことなく、屈強な者たちに担がせて駆け通せる手輿をお命じになりました。
もちろん、夜の闇へ女の身ふたつで乗り出すわけではありません。御輿の前後には、弓矢と白刃を佩いた重武装の随身や近衛の武官たちが、足音をも殺してぴたりと付き従っています。数は少なくとも、いざとなれば一帯の賊を瞬時に制圧できる、恐るべき精鋭の陣でした。
輿丁たちに夜道を急がせ、宇治の別邸近くへたどり着くと、そこからは実景の案内です。暗闇の中、鋭い目つきの護衛たちに周囲を固めさせながら、私たちは細い道を歩きました。
空は雲に覆われ、月も見えません。風は冷たく、木々の梢がざわざわと鳴っていました。実景は道すがら、ひどく張りつめていました。その歩調の速さだけで、心の乱れが分かります。
「あそこです」
やがて彼が指さした先に、小さな家の奥まった部屋の格子だけ、明るく灯っているのが見えました。その向こうに、一瞬、影が動きます。
「今のが……」
「ええ。あの顔です」
実景の声はかすれていました。家の前へ出ると、戸はきっちりとは閉まっておらず、中から細い光が漏れていました。
けれど、わたくしたちが近づいた瞬間、戸口に一人の女が立ちました。それは絹江でした。顔は真っ青で、両手を胸の前で組み合わせています。向こうの灯を背にしているせいで、その姿がまるで影絵のように見えました。
「どうか、おやめください」
彼女は、ほとんど泣くような声で言いました。
「お願いです。今ここへ入ってしまえば、あとで必ず後悔なさいます」
「もう遅い」
実景は厳しく言った。
「私は充分すぎるほど待った。今夜こそ、すべてを知る」
「お願い……」
「どいてくれ」
実景が進もうとすると、絹江は一瞬、なおも止めようとした。その切羽詰まった様子に、わたくしでさえ胸が痛みました。彼女は悪事を隠す者の顔ではなく、大切な何かを奪われまいとする者の顔をしていたからです。
けれど男の方は、もはや引き返せぬところまで来ていました。彼は妻を脇へ押しのけ、戸を開いて中へ入った。わたくしたちも続きます。
家の中はしんとしていました。小さな鍋の匂い、炭火の気配、そして、人の住む温もりはあるのに、妙なほど静かでした。
手前の部屋には誰もいません。実景はそのまま、明かりの漏れる奥の間へと足を踏み入れていきました。わたくしも心臓が喉に上がる思いで後を追います。
明かりのついた部屋の戸を押し開けた時――
そこにいたのは、小柄な子供でした。部屋は、実景の話どおり、ひどく小綺麗に整えられていました。
机に灯が二つ、厨子棚にも灯があり、異様なほど明るい。その中央近く、低い机にもたれるようにして、小さな童女が座っていました。
赤い小袖。長めの袖に手先を隠し、童女には不自然なほど深く頭巾を被っていました。
そして――その顔。わたくしは思わず息を呑みました。それは、まさに実景の語ったとおりの、黄ばんで動かぬ顔でした。蝋を塗った面のように、表情がなく、目も口も不自然で、生きている子供の顔とは思えません。
実景も立ち尽くしました。
「これは……何だ」
と、彼が喉を絞るようにして言った、その時。彰子さまは、一歩進まれました。彰子様は、こういう時、誰より恐れず、誰よりもまず“作られた不自然”を疑います。
「衛門、灯をもう少しこちらへ」
わたくしが灯を寄せると、彰子さまは童女のそばへ屈みこみ、その耳のあたりへ静かに手をかけられた。
すると次の瞬間――その黄なる顔が、するりと一枚、剥がれたのです。下から現れたのは、波打つような赤茶色の髪をした、小さな女の子の顔でした。
不自然なほど彫りの深い顔立ち。そして、硝子のように透き通った、青く澄んだ色の瞳。
驚きといたずらの入り混じった表情で、白い歯を見せて、ぽかんとしています。わたくしはあまりのことに、その場で声も出ませんでした。
その容貌は、愛らしくもありましたが、古い物語に語られる「鬼」や「異形」を思わせるほど、都の人々の顔立ちからは遠くかけ離れていたからです。
実景も凍りついたようでした。その時、絹江が部屋へ駆け込んできました。その後ろには、実景の話に出た例の痩せた年かさの女もいます。
絹江は子供をかばうように抱き寄せると、震える声で言いました。
「もう、隠せません。……この子は、わたくしの娘です」
部屋の空気が、しんと止まりました。
「娘……」
と実景。
「亡くなったと聞いていた子か」
「ええ」
絹江は、子を抱いたまま膝をつきました。
「死んだのではありません。生きておりました。生きて……あちらで育てられていたのです」
彼女は懐から、小さな箱を取り出しました。中には、一人の男の似絵がありました。整った顔立ちの、物静かな眼をした男です。でも、その彫りの深さ、高い鼻筋、うっすらと波打つ髪の具合は、都で見慣れたものとはまるで違っていました。
大宰府に出入りする唐や新羅の船――さらにその西、遥か遠い砂漠の国から渡ってきたという「胡人」の血を引く者なのでしょう。
子の赤茶色の髪と透き通るような瞳は、この父の血を、より濃く受け継いだのに違いありません。
「この方が、前の夫――季信さまです」
絹江は言いました。
「大宰府で文書と通詞の仕事をなさっておりました。父はこの婚姻に強く反対しました。けれど、わたくしはこの方を愛しておりました。この方も、わたくしを」
その声には、今も消えぬ敬愛があった。
「けれど、流行り病で、この方は亡くなりました。娘はかろうじて助かりましたが、病み上がりで弱く、すぐに長旅へ連れ帰ることができませんでした。そこで、わたくしがかつて世話になった乳母に預け、都へ戻ったのです」
彼女は痩せた女を振り返った。その女は目を伏せて一礼した。
「この者が、その乳母にございます。わたくしは……はじめ、娘をいずれ引き取るつもりでした。けれど時が経ち、都で暮らすうち、あなたと出会ってしまった」
絹江は、実景を見た。その目には、恥も、怯えも、愛情も、すべてが一度にありました。
「あなたに、娘のことを話そうと、何度も思いました。けれど……この子を見た時、あなたがどう思うか、世の人が何と言うか、それを考えるたび、口がすくんでしまったのです」
そのとき、童女が母の袖を引きました。
「母さま……」
あどけない声である。絹江はその髪を撫でた。
「この子は、るりと申します」
実景は、まだ何も言えずにいました。それも当然です。謀り事、脅し、裏切り、死んだ前夫の亡霊――そのようなものを覚悟してここへ来た男の前に、今、ただ一人の子供が座っているのだから。
その後の話は、絹江の口から、途切れ途切れに語られました。
前夫の死後、娘るりは病が重く、海を越えて都へ連れてくることができなかったこと。やむなく乳母へ託し、自分だけが戻ったこと。その後、都で実景と出会い、愛し合うようになったが、子のことを話す勇気を失ってしまったこと。
「あなたは、優しい人です。けれど優しいからこそ、わたくしは恐ろしかった。あなたが“かわいそうだ”と思って受け入れてくださっても、それは夫婦のあいだに、ずっと痛みとして残るのではないかと……」
実景はまだ黙っている。絹江は続けました。
「都は狭いところです。人は、血筋や色や生まれについて、あまりに容易く噂を立てます。この子の顔を見て、あなたの家に泥を塗るようなことになったら――そう思うと、言えませんでした」
「それで財を」
と、わたくしは呟いた。
「はい。乳母とこの子を、しばらく近くへ呼び寄せるために。一目でいい、会いたかったのです。三年も、ただ文でしか娘のことを知らずにおりましたから」
絹江はるりの頬へ手を当てた。その仕草を見れば、母が子を愛していることは疑いようもありませんでした。
「けれど、あなたには言えず……。黄なる面をつけさせ、手袋をはめさせ、昼だけは外から見えぬようにしておりました。ただ、あなたや里の人に、この子のことを知られたくなかったから」
「なぜ、もっと早く」
実景が、ようやく声を出した。だがその声に怒りはなく、ただ深い疲れがあった。
「なぜ、私に言わなかった」
「怖かったのです」
絹江は答えました。
「この子を捨てたと思われることも。あなたを欺いたと思われることも。そして何より、もしあなたが、この子を見て心のどこかで後ずさりなさったら……わたくしは二人とも失うと思ったのです」
その言葉に、部屋の誰もすぐには口を開けなかった。
彰子さまでさえ、そのときは何も言われなかった。ただ、るりの顔をじっと見つめておられた。
わたくしには、そのお目が、子の容貌そのものではなく、そこへ投げつけられる世間の眼差しを見ているように思われた。
最も長い沈黙ののち、動いたのは実景でした。
彼はゆっくりと、るりの前へ歩み寄った。子は少し身をすくめたが、逃げなかった。母の裾を握ったまま、まっすぐ実景を見ている。
実景は、しばらくその顔を見下ろしていた。それから、おそるおそるというより、むしろ大切な壊れ物に触れるような手つきで、るりを抱き上げました。
るりは一瞬目を丸くし、それから小さな声で笑った。その笑い声が、張りつめていた空気をゆるめました。
実景は、子を抱いたまま、もう片方の手を絹江へ差し出しました。
「帰ろう」
ただ、それだけでした。絹江は信じられぬような顔をしました。
「……よいのですか」
「よくはない」
実景は正直に言った。
「私は苦しかった。疑い、怒り、お前を責めた。だが――」
彼はるりを見ました。それから絹江を。
「私は、お前が思っていたほど狭い男ではない……と、自分でそうありたい。話すべきことは、帰ってから話そう。この子も、いっしょに」
絹江の目から、堰を切ったように涙がこぼれた。彼女は何度も頭を下げようとしたが、実景はそれを止めました。
「もうよい。ただ、次は隠さずにいてくれ」
「はい……はい」
その場にいた乳母女も袖で目元を押さえていました。わたくしまで、胸の奥が熱くなるのを抑えきれませんでした。
るりはといえば、抱かれたまま実景の冠紐をいじっています。子供というものは、ときに大人の深刻さを、いともたやすく越えてしまいます。
その家を辞して、夜道を戻るあいだ、彰子さまはひどく静かでした。わたくしもまた、胸の中に残るものが多すぎて、すぐには何も言えませんでした。
ようやく御所へ戻り、湯を一口飲んだのち、わたくしは恐る恐る口を開いた。
「姫様」
「何です」
「今夜のこと……」
「ええ」
「わたくしども、すっかり違えておりましたね」
彰子さまは、少しだけ笑われた。自嘲でもあり、どこか安堵にも似た笑いでした。
「そうですね。わたくしは、もっと醜い筋を想定していました」
「脅しも、亡霊も、前夫の生存も、すべて外れました」
「ただひとつだけ当たっていたのは、奥方が秘密のために苦しんでいた、という点でしょう」
「ですが、その秘密の形を、わたくしたちは決めつけてしまった」
「ええ」
彰子さまは、灯の火を見つめながら言われた。
「衛門。人は、分からぬことに出会うと、たいてい自分のよく知る不幸の型へ、無理に押し込めようとします。脅迫、情事、死んだはずの前夫――そうしたものは、都によくある。だから、そちらへ引かれた」
「けれど本当は、ただ母が子を隠していた」
「“ただ”と言ってはいけません」
その声は柔らかかったが、たしなめるようでもありました。
「絹江にとっては、それが人生のすべてを左右するほど重かった。子を愛していながら、世の目を恐れ、夫を失うことを恐れ、沈黙を重ねた。それは、他人から見れば愚かでも、本人にとっては、毎日少しずつ胸を削る苦しみだったでしょう」
わたくしは深くうなずきました。
「都では、違う血、違う肌、違う来歴を、すぐ異形として扱います」
「ええ。そして、わたくしもまた、その“都の目”を少し借りてしまったのです」
それは、彰子さまとしては珍しいほど率直な反省でした。
翌日、実景から改めて文が届いた。
絹江とるり、そして乳母をそのまま自邸へ迎え入れたこと。夜を徹して語り合い、今後は何も隠さぬと誓い合ったこと。もちろん、親族や里人への説明にはなお骨が折れるであろうが、まずは家の中でこの子を守ると決めたこと。そして、昨夜の助力への礼。
その文を読んだ時、彰子さまは静かに言われた。
「よい男ですね」
「はい。怒りの中でも、最後に人を捨てなかった」
「だから絹江も、なおいっそう恐れたのでしょう」
わたくしはしばらく考え、それから尋ねました。
「姫様は、最初にるりの顔を見た時、どう思われましたか」
「仮面だと思いました」
「すぐに?」
「ええ。怖がらせるには、あまりに“作った不自然”でした。けれど、その下にあの子がいるとは、直前まで思っていませんでした」
「あのような異国の血を色濃く残す子が、都で生きるのは……」
「楽ではないでしょう」
彰子さまはそう言って、少し遠くを見るような目をされた。
「けれど、どんな姿形に生まれようと、子は子です。るりが人に恥じる必要はどこにもありません」
「はい」
「恥じるとすれば、子を見目や血筋で測る大人のほうです」
その言葉が、わたくしの胸に深く残りました。
それから数日後、わたくしがこの一件の記録をまとめていると、彰子さまが後ろから覗き込まれた。
「どう書いていますか」
「まだ、筋を整えているところにございます」
「そう。ならば、最後にひとつ加えておきなさい」
「何をでございましょう」
彰子さまは、少しおかしそうに言われた。
「もし今後、わたくしがまた自分の推理に酔って、事件を早く片づけようとしすぎたら、あなたは遠慮なく、こう囁きなさい」
「こう?」
「宇治の黄なる面、と」
わたくしは思わず笑ってしまいました。
「そのように申しても、叱られませんか」
「たぶん少しはむっとします」
「やはり」
「けれど、その方がよい。賢さというものは、ときどき自分の誤りを思い出させる札を、懐に入れておくべきです」
その言い方が妙に可笑しく、また同時に、いかにも彰子さまらしかった。
この事件には、血も刃もなかった。死人も出なかった。謎としては、もっと大きく華々しいものが、世にはいくらでもあるでしょう。
けれど、わたくしにとって、この「黄なる面」の一件は忘れがたいのです。それは、人の秘密の正体が、必ずしも悪ではないと教えてくれたからです。
時に秘密は、罪を隠すためではなく、愛するものを守りたいがための臆病から生まれます。もちろん、絹江のしたことは、夫に対して正しかったとは言えません。隠し事は、愛の名のもとにも、やはり人を傷つけます。
けれど、それでもなお、その根にあったのが母の愛であったことは、せめてもの救いでした。そして何より、この一件は、彰子さまほどの人でさえ、人の心を早く型にはめてしまう危うさから無縁ではないことを示したのです。
彰子さまはそれを、少しも取り繕わず、自らの教訓として受け取られました。
だからこそ、わたくしはなおいっそう、彰子さまを敬うのです。決して誤らぬ人だからではない。誤りを知った時に、それを正しく恥じ、次へ活かせる人だからです。
宇治の里の小さな家で、黄なる面を剥がされたるりは、あどけなく笑っていました。その笑顔こそ、あの夜における唯一の完全な真実であったかもしれません。
そしてもし今後、わたくしがまた人の噂や世の偏見に引きずられそうになった時は、わたくし自身もまた、この言葉を胸のうちで繰り返そうと思います。
宇治の黄なる面。
それは、見かけの不気味さの下に、ただ小さな子の顔があったことを思い出させる、静かな戒めなのです。
〜出典〜
The yellow face(黄色い顔)
作:Arthur Conan Doyle 訳:三上 於菟吉
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/43028_15653.html
〜舞台背景〜
「黄色い顔」は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち15番目に発表された作品である。イギリスの『ストランド・マガジン』1893年2月号、アメリカの『ハーパーズ・ウィークリー』1893年2月11日号に発表。
殺人や犯罪が起きない異色作であり、人間の温かい愛情を描いた物語として知られています。
また、ホームズ留守中に依頼に来た来客が置き忘れた忘れ物を仔細に観察して、持ち主の体格や利き腕・性格・服装(の程度)などの特徴を述べ、その直後に戻ってきた来客が事実その通りであったためにワトスンを驚嘆させたエピソードはホームズの推理手法をうかがい知る一端となっていますが、『ドラえもん』のエピソードの一つ(てんとう虫コミックス第3巻に収録)である「シャーロックホームズセット」ではこの持ち主当てがオマージュされているそうです。




