第103話 ベアトリスの婿
『フンボルト・イーリヤを婿として迎えよ』
ベアトリスは目の前の文字が信じられない。
なぜ? どうして?
しかし、いくら煩悶としたところでコロンナ侯爵の決定は下っている。
断を下す前であれば別であるが、この段階まで至ってしまうとベアトリスにはどうしようもなかった。
後は全てを捨てて国外に逃亡するしかない。
ロマンティックな想像ではあったが茨の道というのも生ぬるい困難な選択肢であった。
ベアトリスが現在所持している金額など逃亡生活をしていればあっという間に使い果たすだろう。
父の怒りも恐ろしい。
名誉のために刺客を送ってくる可能性もある。
いや、確実に送ってくると思われた。
それにブランドがトールハイムを離れて駆け落ちすることを了承するはずもなかった。
ベアトリスは唇を噛みしめる。
冷静になってみれば、コロンナ侯爵が平民との結婚を了承するはずがない。
いくら優秀でも最初から選択肢に入っていなかったのだ。
その点、フンボルトは末端とはいえ貴族階級に列している。
ブランドを超えないかもしれないが、それに劣らぬ能力を持つ男が居ればコロンナ侯爵がそちらを選ぶのは当然だった。
実はコロンナ侯爵はオラストン伯爵討伐戦の中で冷静に若い貴族たちを値踏みしていたが、これはという男が見つからずにいる。
そんな中、ベアトリスがブランドの活躍をアピールするために送った強化オーク退治の報告書の中にはフンボルトのことも書かれていた。
それ以前にダグラスを護送する際に襲撃犯を撃退したときもフンボルトは多くの敵を倒している。
それに対してブランドは多くの人間を捕縛していた。
衛士としてというならともかく戦士としてみればフンボルトの方が優秀という判断になる。
翌日、団長室に第2隊長を呼び出したベアトリスは極めて事務的に事実を告げた。
本来であれば職場ではなく官舎の方ですべき話題であったが、そういう配慮をする余裕を失っている。
「フンボルト隊長。貴公はコロンナ侯爵によって私の夫に選ばれた。以後よろしく頼む」
さすがに冷静沈着なフンボルトもこの発言は驚天動地の内容だった。
「だ、団長。何を仰っているのか意味が分かりません」
「貴公もイーリヤ男爵家の一員だろう。貴族社会のことは分かっているはずだ」
最初の衝撃から立ち直るとフンボルトは怜悧な頭脳で考える。
この結婚について実質的に拒否権はない。
直ちに世俗を捨てて神殿に属し信仰の日々に入るのが結婚を断る唯一の方法だった。
今までの努力をすべて捨て去ることになる。
それはあまりに虚しすぎた。
団長はそれに納得しているのですか、と問おうとして止める。
フンボルトに拒否権がないように、ベアトリスにも選択の自由はなかった。
代わりに口から出たのは平凡なセリフである。
「少し時間を頂けますか?」
「ああ。明日まで待とう。それ以上時間をかけて私を失望させないでくれ」
本人たちの意向を無視すれば、フンボルトのような三流貴族の三男坊にしては望外の抜擢であった。
ただ、ここですぐに応諾の返事をするのは下品とされている。
型としては1日置いて返事をするのがマナーであった。
ベアトリスの言葉は、どうせ自由はないのだからさっさと返事を寄こしなさい、という意味である。
もう、淡々と宿題を片付けることしかベアトリスの頭にはなかった。
フンボルトが表面上は喜色を浮かべて話を受ける返事をした日の午後には、ベアトリスの離任日が衛士団の掲示板に張り出される。
わずか10日後であった。
そして、離任日のことがトールハイムの人々の話題になり始めた頃には、都でベアトリスの婚約が発表されたとの噂がもたらされる。
話が決まれば時間を無駄にしないコロンナ侯爵であった。
当人に手紙を送りつつも既に発表済みという容赦の無さである。
周囲の祝福の声に礼儀を守って応えるベアトリスにかける慰めの言葉をフランセーヌは持ち合わせていない。
もう1人の従卒であるバッシュは侯爵の判断が下ったのならそれに従うまでとあっさり宗旨替えをしている。
フランセーヌはそこまできっぱりと割り切ることはできなかった。
1番身近でベアトリスが一喜一憂する様を見ている。
年も近いしその無念さはよく分かった。
かといって何ができるわけでもない。
ブランドが入院していなければ思い出作りに協力することもできただろう。
しかし、実際にはごく短時間の面会が許されているだけだった。
傷心のベアトリスを横目にオーギュストはご機嫌である。
最大の障害だったベアトリスがフンボルトを婿に迎えることとなった今、シャーリーが恋のレースに勝ち抜く可能性が一段と上がったと考えていた。
同じように活躍していたフンボルトがコロンナ家の令嬢を射止めたことに対しては、ブランドも虚心ではいられないはずである。
シャーリーの家は家格ではコロンナ家に劣るが、色々と面倒なことを押し付けてくる恐ろしい岳父はいない。
シャーリーの父は年を取りすっかり丸くなっていた。
様々なことを自分で決められる自由もある。
フンボルトは身も蓋もない言い方をすれば種馬だった。
いくらベアトリスが魅力的な女性であったとしても、早く子供を作れと急かされては情緒も何もあったものではない。
シャーリーと結婚する方がずっと伸び伸びとした人間らしい生活ができるはずである。
そして、待ちに待った知らせがもたらされた。
ベアトリスの後任にはトールハイムの町の希望を入れてブランドを昇任させるという公文書が届く。
一般に周知されるよりも早くそのことを知ったオーギュストは密かに祝杯を挙げた。
サレーノ家はコロンナ家ほどの名家ではないので騎士階級に匹敵する扱いとなれば身分差の問題も解消されたことになる。
顰蹙を買った昨年の騎士と衛士の結婚話は様々な事件のせいですっかり忘れ去られており、別の慶事で上書きするという目的は過去のものとなっていた。
ただ、それは脇においてもシャーリーの希望が叶うというのは年長の血縁者として喜ばしいことである。
まだ、身を固めるようにブランドを説得するという仕事は残っていたが、衛士団長を固辞するという点も崩せたのだから必ず道はあると考えていた。
ブランドが衛士団長になるという話が公表されるとトールハイムは熱狂に包まれる。
ベアトリスもだいぶ町の人々に受け入れられていたとはいえ、極言すれば余所者の短期滞在者であった。
結婚はめでたくはあるが、式が行われるのは遠い都でのことである。
ブランドがついに就くべき地位についたということの方がずっと重要であった。
そして、どこからともなく、ブランドも団長になることだし、いつまでも独り身なのはどうかという声が上がり始める。
公式な通達として団長への昇任は知らされたが、病床にあるブランドには町の人の声までは届かなかった。




