第32章
静寂。
誰も動かなかった。
月森の戦士たち三人は、目の前の男から目を離せず、その場に凍り付いたように立ち尽くしていた。
信じられないという思い、困惑、そして衝撃。あらゆる感情が一度に押し寄せてくるようだった。
「……どうして?」
最初に声を上げたのはジンだった。その言葉は、か細い囁きにも似ていた。
「……どうして生きているんだ?」彼は刀を握る手に力を込めた。「お前は死んだはずだ……十年前に」
シンジは、まるで亡霊でも見るかのような眼差しでダイゴを見つめた。
「……ありえない」年輪を刻んだ彼の声が震える。「俺たちは、あの悲劇を目の当たりにしたんだ」
彼は眉間に深い皺を寄せた。「それなのに……なぜお前がここに立っている?」
ヒロの表情が徐々に険しく変わっていく。他の二人とは違い、彼の驚きは疑念へと変わっていた。
「……そんなことはどうでもいい」彼は刀を構え、その切っ先を真っ直ぐにダイゴへと向けた。「俺が知りたいのは……なぜお前が『黒月』側にいるのか、ということだ」
彼の声が広間に響き渡る。「十年前にあの虐殺を生き延びながら……なぜ月森に戻らなかった?」
彼は奥歯を噛み締めた。「お前は俺たちを見捨てたんだ」
ダイゴはため息をついた。「……質問は一つずつにしてくれ」
彼は少し面倒そうに首筋をさすった。「お前ら、質問が多すぎるんだよ」
彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。「……イズミみたいにな」
ジンの瞳が鋭く細められた。「……イズミ?」彼の声色が瞬時に鋭さを帯びる。「彼女はどこだ?」
ダイゴは笑みを浮かべたまま言った。「落ち着け」
彼はゆっくりと鞘から刀を抜いた。真紅の炎が、まるで生きている蛇のように刀身に絡みつく。
「あの女なら、お前らの仲間と遊んでいるだろうよ」彼は炎を纏った刀を何気ない仕草で肩に預けた。「だが、今はそんなことはどうでもいい」
「意味がわからない!」ヒロの叫びが広間に響き渡った。
怒りと信じられないという思いが入り混じり、彼の瞳は揺れていた。「なぜだ? なぜクロツキに味方する? 月森を襲ったじゃないか!」
荒くなる息遣い。「俺たちの故郷も……長老たちも……子供たちも……みんな」
拳を強く握りしめ、指の関節が白くなる。「お前は俺たち全員を裏切ったんだ。自分の手で村を滅ぼしかけた」
声が震えた。「それに、あの技は……」彼はダイゴの刀身を包む、真紅と黒が混じり合った炎を見つめた。
「俺たちの神聖な『炎刃流』を汚した。先祖が託してくれたものを……こんなものに変えてしまったんだ」
再び静寂が訪れた。
シンジがゆっくりと前に出た。その表情には、もはや怒りはなかった。
ただ、悲しみだけが浮かんでいた。
「……ダイゴ」穏やかな声だった。「……なぜだ?」
老人の顔に、痛ましげな笑みが浮かんだ。
「ケンタロウは、決してこんなことを望んではいなかったはずだ――」
「……やめろ」ダイゴの声が、刃のように広間を切り裂いた。その表情から温もりが消え失せる。
真紅の瞳が冷たく変わった。「……その名を口にするな」
その口調には、ただ侮蔑だけが滲んでいた。「俺はもう、あの男とは何の関係もない」
彼はゆっくりと顎を上げた。真紅の瞳で目の前の三人を値踏みするように見渡し、嘲るような笑みを浮かべる。
「俺が認めるのは……」落ち着いた声だった。「……俺の祖父だけだ」
笑みが深まった。
「雷禅様だ」
その名が広間に響き渡った。
シンジは目を見開いた。「……ライゼン……」かろうじて漏れたその声には、驚きが滲んでいた。「あの女の言葉は、嘘じゃなかったんだな……」
やがて、事の真相が彼の脳裏に浮かび上がった。
「……まさか」
ヒロの冷静さが崩れ去った。
「正気かよ!?」彼の怒声が広間に轟く。「お前にはまだ、妹がいるってことを忘れたのか!?」
荒い息遣いでヒロは続けた。「アヤカは、自分が月見一族の最後の生き残りだと信じていたんだぞ!」
彼は剣を握る手に力を込めた。「お前のことを悼み、祖父であるケンタロウのことも悼んでいた! 愛する者たちが皆いなくなったと思い込み、その重荷を背負い続けてきたんだ!」
感情に震える声でヒロは叫ぶ。「何年も自分を責め続けて……その間ずっと……お前は生きていたんだな!」
ダイゴの表情は微塵も変わらなかった。「ライゼン様こそ……俺が必要とした唯一の祖父だ」
再び笑みが浮かぶ。「俺に真実を教えてくれたのは、あの方だ」彼はゆっくりと両腕を広げた。「お前たちは俺を見ていた……だが、誰一人として、本当の俺の姿を見ようとはしなかった」
その瞳に陰りが差す。「あの惨めな村に、俺の居場所なんてなかった。だから……出て行ったんだ。そして、もっと偉大なものを見つけた」
微かな笑い声が漏れる。「黒月。そこが俺の真の故郷であり、真の家族だ」
ヒロの拳が震えた。「……お前だったのか」抑えきれない怒りが声に混じる。「やっぱり、お前だったんだな」
彼は、ダイゴの刃を包み込む深紅と漆黒の炎を見つめた。
「俺たちの『炎刃流』を奴らに教え込み……あんな歪んだ姿に変えたのは、お前だったんだ」
ダイゴは肩をすくめた。「それくらい、見れば分かるだろう」
口元に不敵な笑みが浮かぶ。「誰かが教えてやらなきゃならなかったんだよ」
笑みがさらに深まる。「もっとも、ライゼン様がそれを、はるかに美しいものへと昇華させてくださったがな」
「この裏切り者め!」ジンの激昂した咆哮が広間を揺るがした。彼は腰の刀を閃かせ、一気に踏み込んだ。
彼が一歩踏み出そうとしたその時、力強い腕がその行く手を阻んだ。
「……だめだ」シンジが彼の前に立ちはだかる。その視線はダイゴから外れることはなかった。「行ってはならん」
「でも……じいちゃん!」ジンの声が裏返る。全身が怒りで震えていた。
二人の前で――ダイゴの静かな笑い声が広間に響き渡る。
「その通りだ」彼は両腕を大きく広げた。まるで過去の記憶を誇らしげに迎え入れるかのように。
「俺だったんだよ!」その笑みは、常軌を逸した歪んだものへと変わる。「何もかも、俺がやった。十年前、クロツキをツキモリへと導いたのは俺だ!」
彼は自らの胸を指先で叩く。「そして今夜……」その深紅の瞳が、狂信的な歓喜に輝く。「俺が奴らを呼び戻したのさ」
再び笑い声が響く。「お前たちの顔を見るほど、愉快なことはなかったよ。恐怖、絶望、そして……希望の欠片もないその表情がな」
彼は深く息を吸い込み、その記憶を味わうかのように呟く。「俺の価値を認めようともしなかった連中が……いつか俺の前で震え上がる日が来るとはな」
静寂が訪れる。
ジンの全身が震えていた。拳をあまりに強く握りしめたせいで、指の関節が白く浮き出ている。
「……お前……」彼は歯ぎしりをした。
彼が動くより早く、ヒロが静かにその横を通り過ぎていく。その手には刀が握られたままだが、切っ先は下を向いていた。
「ツキシロの長老」ヒロの声は落ち着いていた。「ジン。奴の相手は俺に任せてくれ」
「ヒロ……」シンジの表情に、心配の色が浮かぶ。
「いやだ!」ジンは即座に反論した。「俺も戦う!」
怒りに満ちた視線は、ダイゴに向けられたままだ。「あの裏切り者に、すべての罪を償わせなきゃいけないんだ!」
「ああ、そうなる」ヒロの答えに迷いはなかった。
彼は一度も振り返ることなく言った。
「だが、お前の戦うべき場所は別にある」
広間に突風が吹き抜ける。ヒロの刀身に、深紅の炎がゆっくりと絡みついていく。
その瞳は、揺るぎない決意に燃えていた。
「『火の翼』だ」彼は刀の柄を強く握り直す。「お前がそれを取り戻さなきゃならない。この事態を終わらせるための、唯一の希望なんだから」
ジンはその場に立ち尽くしたまま、奥歯を強く噛み締めていた。
やがてゆっくりと……震えていた拳の力が抜けていく。
「……わかった」彼は力強く頷いた。「あいつを頼む」
ヒロの口元に、微かな笑みが浮かぶ。「……任せておけ」
ジンはシンジの方を向いた。「じいちゃん。行くぞ」
シンジは最後にヒロを一瞥し、頷いた。
「……気をつけてな」二人は迷宮の奥へと駆け出した。
ダイゴは舌打ちをする。「逃がすかよ」
彼が刀を横薙ぎに振るうと、深紅と漆黒が混じり合う猛火の奔流が、二人を追って放たれた。
その攻撃が届く直前――
――ゴォォォッ!!
深紅の炎の波が、正面からそれを迎撃した。激しく衝突した炎は爆発し、燃え盛る火の粉の嵐となって空間全体を照らし出した。
ヒロはゆっくりと刀を下ろす。その視線は、決してダイゴから外れない。
「……俺を抜けるとは思わないことだ」
ダイゴは溜息をつく。「……しつこいね」彼は何気ない様子で、右へと回り込み始めた。
「なあ……」不敵な笑みが彼の顔に広がる。「俺を相手にここに残ったのは、間違いだったぜ」
ヒロもまた、相手の動きに合わせて一歩ずつ位置を変えていく。
「……いや」その声はあくまで冷静だった。「必然だった」
彼の眼差しが鋭さを増す。「月森での決着はついていない」彼は構えをとった。「あの時は、手加減していたんだ」
刀を包む深紅の炎が、さらに激しく燃え上がる。
「だが今回は……」彼の瞳がダイゴを射抜く。「……容赦はしない」
ダイゴの笑みが深まった。彼の刀身から黒い炎が噴き上がり、まるで生きている業火のように渦巻く。
言葉もなく、彼は姿を消した。その瞬間、ヒロもまた前方へと踏み込んだ。
――ガキンッ!!
二人の剣が、広間の中心で激突した。
衝突点から深紅と黒の炎が爆発的に広がり、その猛烈な衝撃波が周囲の壁を揺るがし、燃える火の粉を空中に撒き散らした。
………………
入り組んだ回廊をジンとシンジが駆け抜けるにつれ、鋼がぶつかり合う耳をつんざくような音や炎の轟音は、次第に背後へと遠ざかっていった。
二人は何も語らなかった。
その間に流れる沈黙は、彼らが後にした戦いよりもはるかに重く感じられた。
ジンは視線を前方に向けたまま、固く奥歯を噛み締めていた。
体の脇で握りしめた指先が、わななきと震える。どれほど振り払おうとしても……ダイゴの顔が脳裏から離れない。
生きていたのか……あれから長い年月が経ったというのに……。
クロツキの傍らに立つダイゴの姿が、思考の中で何度も繰り返される。
胸が締め付けられるような思いだった。
ツキモリに生まれ……聖なる「炎刃流」を受け継いだ者が……なぜ、その流派を滅ぼす張本人となってしまったのか。
不意に、温かな手がそっと彼の前腕に触れた。
ジンは瞬きをし、視線を落としてから隣にいる人物の方を向いた。
シンジがその視線を受け止める。数々の出来事を経てもなお……老人の瞳は揺るぎない光を湛えていた。
確固たる意志を宿して。
「それはお前が背負うべき荷物じゃない、ジン」彼の声は穏やかだった。「最初から、そうだったんだ」
ジンの唇がわずかに開く。「……祖父は……俺たちを裏切ったんだ」
彼は視線を落とした。「……彼は、皆を裏切った」
走りながら、シンジの視線は前を向いた。
「わかっている」彼はきっぱりと答えた。「だが、憎しみというものは、どんなに優れた剣士の目さえも曇らせてしまうものだ」
石造りの通路に、二人の足音が規則正しく響く。
しばしの間、二人は言葉を発しなかった。
シンジが沈黙を破った。「よく聞け、ジン。俺たちの務めは過去を追うことじゃない。未来を守ることだ」
彼は刀の柄を強く握りしめた。「道を見失う者はいつだっている。信念を捨てる者もな。だが、彼らの選択に心を毒されてしまえば……俺たちもまた、彼らと同じ道を歩み始めたことになる」
ジンは視線を落とした。「……あれだけのことをしたのに?」
シンジは小さく頷いた。「ダイゴは、その罪を償うことになる」
その声に揺らぎはなかった。「だが、正義と復讐は別物だ。怒りを満たすためだけに戦う瞬間……お前の刃は、守るためのものではなくなる」
彼の深紅の瞳が、前方の回廊に向けられた。「破壊するためのものになってしまうんだ」
ジンは黙ったまま、その言葉を静かに噛みしめていた。やがて、彼は口を開いた。
「……だから……俺は、前に進まなきゃいけないんだな」
シンジの年輪を刻んだ顔に、かすかな笑みが浮かんだ。「その通りだ。『火の翼』。俺たちを待つ人々、今この瞬間も命を懸けている仲間たち……そこにお前の心はあるべきなんだ」
彼は横目でジンを見た。「昨日の重荷は置いていけ。明日に生きる理由を与えるような男になるんだ」
ジンの目がわずかに見開かれた。胸を押しつぶしていた重みが、少しだけ軽くなった気がした。
彼はゆっくりと、深く息を吸い込んだ。「……そうだな」その声はもう震えていなかった。「怒りに道を決めさせたりはしない。でも……」
シンジは頷いた。「わかっている」彼は力強く答えた。 「だが、ダイゴはとうの昔に決断を下していた。どれほど辛かろうと、俺たちは何が本当に大切なのかを見失うわけにはいかない」
ジンは一瞬、視線を落とした。「……わかってる」彼は刀を握る手に力を込めた。「……それでも、心配なんだ」
シンジは彼をちらりと見た。「……ヒロのことか?」
ジンは頷いた。「あいつはダイゴと一対一で戦うために、あそこに残ったんだ」
彼の眉間に皺が寄る。「さっき聞いた話もそうだし……ダイゴが変わり果てた姿を目の当たりにした後じゃ……」
声のトーンが低くなる。「……もし、ヒロが奴を倒せなかったら?」
シンジの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。「ヒロはお前が思っている以上に強い男だ」
走りながら、彼は前を見据えたまま言った。「あの少年が立派な戦士へと成長していく姿を、俺はずっと見てきた。あいつも俺たちと同じように、月守の希望を背負っているんだ」
シンジの表情は穏やかだが、確信に満ちていた。「仲間を信じろ、ジン。あらゆる戦場の重荷を一人で背負い込もうとすれば、目の前にいる相手さえ見失ってしまうぞ」
彼の眼差しが鋭さを増す。「ヒロはお前に『火の翼』を託した。その信頼に応えるんだ」
老人の言葉を胸に刻み、ジンは前を向いた。「……そうだな」
力強く頷き、彼は再び前を見据えて走り続けた。
…………..
「ハハハ!」ダイゴの笑い声が広間に響き渡り、彼の剣がヒロの剣と幾度となく激突する。
――カィィィン!
ぶつかり合うたびに黒と深紅の火花が弾け、石の床に散らばっていく。
「素晴らしい!」ダイゴの笑みが深まる。「実にいい!」
ヒロは奥歯を噛み締め、迫りくる斬撃を身をかわして避けると、再び前へと踏み込んだ。
『炎刃流奥義……!』
彼の刀身に深紅の炎が咲き誇る。
『弐ノ型――熾火跳躍歩!』
ヒロは素早いジグザグの動きで姿を消し、その挙動はますます捉えがたいものとなる。
不意にダイゴの側面に現れ、刀を振り上げた。
――カィィィン!!
ダイゴは難なく自身の剣でその一撃を受け止める。衝撃と共に火花が飛び散った。
「弱いな!」手首を乱暴にひねり、ダイゴはヒロの剣を弾き飛ばすと、彼を後方へと突き放した。
ヒロは石の床を滑りながらも、素早く体勢を立て直した。
................
美空と彩花は肩で息をしながら並んで立っていた。疲労が重くのしかかり、その動きを鈍らせ始めていた。
汗が彼女たちの頬を伝い落ちる。対する紅は、涼しい顔でそこに立っていた。
退屈そうに溜息をつくと、彼女のポニーテールが背後でふわりと揺れた。
「やっぱりね」彼女は片手でゆっくりと剣を回した。「最初から、あなたたちに大した実力なんてなかったのよ」
手首をわずかに動かすと――
シャキィン!
その刀が変形した。刀身が分かれ、無数の鋭利な刃が並ぶ、黒い扇状の武器へと姿を変えたのだ。
彩花は目を見開いた。「嘘でしょ!?」彼女は握りしめていた二本の短刀に力を込めた。
美空はその変形した武器を見つめ、頬を伝う汗を拭った。
「ただでさえ異常に強いのに……」彼女は目を細めた。「……剣の形まで変わるなんて」
彼女は鼻から息を吐き出した。「厄介なことになったわね」
紅は冷ややかに鼻で笑うと、一気に踏み込んだ。
黒い扇が猛烈な速さで薙ぎ払われる。
ゴォォォッ!!
その表面から数十もの鋭い刃が飛び出し、少女たちに向かって殺到した。
……………..
「ああっ……!」背中で固く縛られたまま、影王の剣撃を受けてよろめき、アヤネは苦痛に顔を歪めた。
「炎刃流奥義――第十一の型!」
深紅と漆黒が混じり合う炎が刀身から噴き出し、彼女に向かって突き放たれる。
「火蓮華!」
炎の奔流が、その茶髪の少女へと押し寄せる。アヤネは身をひねり、紙一重でその攻撃を回避した。辛うじて体勢を立て直した瞬間、再び影王が彼女の横に現れた。
「ハハハ! いつまでも避け続けられると思うなよ!」彼は嘲笑いながら、容赦なく攻め立てる。
アヤネは攻撃をかわし続けたが、その動きは次第に必死さを増していった。
もう……もたない! 後方へ宙返りしながら、彼女はそう思った。
「ハッ! 捉えた!」影王が剣を横薙ぎに振るう。だがアヤネはとっさに足を折りたたみ、後方へと宙返りした。
すべてがスローモーションのように感じられた。刃の下を通り抜ける際、アヤネは縛られた手首を横にひねった。
シュンッ!
カゲオの剣が、ロープを鮮やかに断ち切った。彼は小さく舌打ちをし、深紅の瞳を細めた。
アヤネは軽やかに着地すると、即座に自由になった両手を前に出した。きつく縛られていたせいで薄く赤らんだ手首を、彼女はさするようにしてさすった。
指を何度か動かしてほぐした後、彼女は静かに息を吐き、目を細めてカゲオを見据えた。
「ようやく……まともに戦えるわね」
カゲオは不敵な笑みを深め、その刀身から再び黒い炎を激しく噴き上がらせた。
「素手で俺に勝てると思ってるのかよ!?」
そう嘲笑うと、彼は一直線に彼女へと突進した。
「うおっ!」
近くでリクヤが叫び声を上げ、テツヤに向かって脚を振り抜いた。
だがテツヤは身をかわすだけで、その雑な攻撃を難なくやり過ごした。深紅の瞳をわずかに細め、彼は指先で槍を軽やかに回す。
「炎刃流奥義……」
槍の穂先に、深紅と黒が混じり合う炎が噴き出した。
「参ノ型――焦熱線!」
彼が槍を横薙ぎに振るうと、灼熱の炎の波がリクヤに向かって押し寄せた。
「ぐあぁっ!」
リクヤは辛うじて攻撃を防いだものの、その衝撃で後方へと吹き飛ばされた。
ドォン!
近くの石壁に激突し、周囲に土煙が舞い上がる。
「リクヤ!」
アヤネが驚愕の声を上げた。
彼女の意識がほんの一瞬、そちらへ向いた。カゲオはその隙を見逃さなかった。
彼は瞬時に彼女の側へと肉薄する。「俺から目を逸らすなよ、役立たずのガキが!」
炎を纏った刀が彼女に向かって振り下ろされる。
アヤネは反射的に両腕を交差させ、防御の構えをとった。
「ぐっ!」
強烈な衝撃を受け、彼女は猛烈な勢いで後方へと弾き飛ばされた。
数本の石柱を突き破り、その先にある壁に激しく叩きつけられる。
ガシャーン!
石塊や砕けた木片が床に降り注ぎ、部屋中に凄まじい土煙が立ち込めた。
「アヤネ!」
リクヤの叫びが部屋に響き渡る。土煙がゆっくりと晴れていく中、彼は恐怖に目を見開いた。
煙の向こう、瓦礫に埋もれるようにしてアヤネが倒れていた。動かなくなった彼女の身体の周囲には、砕けた石や折れた梁が散乱していた。
「嘘だろ……」リクヤの声が震えた。
すぐ近くで、崩れた壁の別の場所に叩きつけられていたイズミが身じろぎをした。彼女は小さく呻き、首を振ってゆっくりと意識を取り戻していく。
霞んでいた視界が次第に鮮明になり、やがて彼女の目が見開かれた。
アヤネは瓦礫の下で動かずに横たわっていた。リクヤは数メートル離れた場所に倒れ伏したままだ。
イズミの表情が絶望に染まる。「嘘だろ……」その声は、かろうじて聞き取れるほどの囁きだった。
カゲオはアヤネが倒れている場所から数メートルの位置に着地した。舞い上がる塵の中で、彼の深紅の瞳が怪しく光る。
「これほど弱いとはな!」彼は笑い声を上げ、嘲るように首を傾げた。「俺の攻撃をかわすどころか、かすりもしなかったじゃないか」
彼の笑みは、より邪悪なものへと歪んでいく。「それに今じゃ、瓦礫の下敷きになって身動き一つ取れない」
彼は炎を纏った剣を肩に担ぎ上げた。「『外の連中』なんて、大したことないな!」
彼の残忍な笑い声が、その空間に響き渡った。
リクヤの肩が震える。彼の顔は、前髪の影に隠れたままだ。
…………。
シグレが放つ炎の刃が容赦なく降り注ぐ中、サヤカとシズカは薙刀を回転させ、次々と飛来する攻撃を弾き飛ばしていく。
「危ない!」シズカが叫んだ。死角からさらに数本の炎の刃が迫るのを見て、彼女はとっさにサヤカを突き飛ばした。
「うっ!」刃の一つがシズカを直撃し、その衝撃で彼女は後方へと吹き飛ばされた。
彼女は近くの壁に激突し、その衝撃で背後の石壁が激しく揺れた。
「シズカ!」サヤカは恐怖に声を震わせながら、姉妹のもとへと駆け寄った。
シグレはただ不敵な笑みを浮かべた。彼女が片手を上げると、炎の刃がまるで意志に従うかのように周囲に浮遊する。
指先をわずかに動かすと、そのうちの数本が上空へと放たれた。刃は姉妹の頭上の岩を直撃し、石の支柱に亀裂を走らせる。
サヤカは動きを止め、目を見開いて上を見上げた。
損傷した岩が崩れ始める。
「サヤカ――!」
姉妹が反応するよりも早く、崩落した瓦礫が激しく降り注ぎ、二人は砕けた石の山の下へと埋もれていった。時雨は離れた場所からその様子を眺め、静かに、満足げな笑い声を漏らした。
...............
イサムの剣と打ち合うたび、ミツルはよろめきながら後退させられた。衝撃が腕を伝うたびに地面をさらに押し戻され、最後の一撃でついに足元を崩されて倒れ込んだ。
「ぐっ!」瓦礫の中に叩きつけられ、砕けた石の上を転がってようやく止まった。
頭を持ち上げようとする彼の周囲には、岩の破片が散らばっていた。
イサムは悠然と歩み寄り、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、剣先を彼に向けた。
「さて、どっちが『か弱いお姫様』かしらね?」
…………
ヒカルは浅いクレーターの中で意識を失い、動かずに横たわっていた。数メートル離れた場所に立つゲンシロウは、砕けた地面を冷静にまたぎながら、彼を振り返った。
「ふん。もう終わりか?」嘲るような笑みが口元に浮かぶ。「もっと粘るかと思っていたんだがな。あの生意気な口をきく割には」
深紅の瞳が軽蔑の色を帯びて細められる。「俺には到底及ばないってことだ」
彼は意識を失った少年に背を向けた。「ただの、取るに足らないガキだな」
…………
カズキは片膝をつき、荒い息を吐いていた。口元からは血がゆっくりと滲み出ている。片手で傷ついた壁を支え、もう一方の手で鎖分銅を固く握りしめていた。
向かい側では、カイトが鎖付きの刃を両手で軽々と回しており、回転するたびに空を切る音が響いていた。
自信に満ちた笑みを浮かべ、彼はカズキを見下ろしていた。
…………
「くそっ!」レンマが毒づく。メイは彼の攻撃をすり抜けると、優雅な身のこなしで後方へと宙返りした。
彼女の足が軽やかに地面に着く。だが、態勢を立て直す間もなく、レンマが突如として彼女の横に現れた。
炎を纏った刃が空を切り裂く。メイは間一髪で両の掌を掲げ、それを防いだ。
衝撃で後退させられたが、刃の切っ先がかすめ、彼女の右の手首を切り裂いた。
「あっ!」彼女は片目を閉じ、痛みに顔を歪めながら、とっさに腕を引いた。
肌に細い血の筋が走る。
メイはその傷をしばし見つめ、ゆっくりと視線を上げた。
レンマは彼女に剣先を向けた。先ほどまでの苛立ちは消え失せ、満足げな笑みを浮かべていた。 「ようやく一撃、お前に当てることができたな」刃に炎が激しく渦巻く中、彼の瞳が鋭く光った。
「心配するな」男は笑みを深めた。「その綺麗な体に、もっとたくさんの傷を刻んでやるからよ」
………………
「死ね! 死ねよ、うっとうしいガキが!」雷牙の怒号が広間に響き渡る。幾度となく振り下ろされる剣の一撃ごとに、ライトは後退を余儀なくされた。
ライトは必死に攻撃を防ぐが、その凄まじい衝撃に押され、ひび割れた地面の上を後ずさりさせられる。
くそっ! 左のこめかみから一筋の血が流れ落ち、彼は奥歯を噛み締めた。こいつ、次元が違う……!
雷牙の拳が、不意にライトの顔面めがけて放たれた。
ライトは辛うじて身をよじり、頬をかすめる拳をかわしながら横へとよろめく。口元から唾液が糸を引く中、彼は後方へ滑るように体勢を崩したが、すぐに踏みとどまった。
彼の視線が、近くにある瓦礫の山へと走る。
何もない。葵の姿はどこにもなかった。
こいつ、俺相手にはあの娘ほど容赦してなかったな……。胸が締め付けられる。あの致命的な一撃……彼女はまだ、あの瓦礫の下にいるんだ。
剣を握る指に力がこもる。まだ立ち上がれないのか……。悔しさに歯を剥き出し、彼は顎を震わせた。頼むぜ、青髪! 一撃くらいじゃ、そう簡単にはやられないはずだろ!
その瞳に、決意の炎が宿る。お前はもっと強いはずだ!
雷牙は彼を見下ろし、不敵な笑みを浮かべた。「持てる力のすべてを、俺にぶつけてきたようだな」
男はゆっくりと身を起こす。影の落ちた眉の下で、深紅の瞳が怪しく光った。
「その通りだ、ガキ」笑みがさらに深まる。「あっちの連れもいい戦いぶりだったが、お前もすぐに彼女のところへ送ってやるよ」
ライトの表情が険しくなる。彼は腰を落とし、剣を握り直した。
「それじゃ、決着をつけようか!」雷牙は笑みを広げながら、一気に踏み込んだ。「よくここまで持ちこたえたもんだ!」
鋼と鋼が激突する。ライトは身を反らせ、苦悶の叫びを上げながら剣を振り上げ、残る力のすべてを込めてそれを振り下ろした。
だが、雷牙はすでに笑っていた。素早い動作で、彼はライトの剣を弾き飛ばした。ガキンッ!
その衝撃で武器を弾き飛ばされたライトは、手から離れた剣が空中で回転しながら、背後数メートルの地点に落ちていくのを呆然と見つめた。
ライトは動きを止めた。まさか……! 信じられないものを見るように、彼は目を見開く。振り下ろしの最中に……俺の剣を叩き落とすなんて!
雷牙の刃が、瞬時に彼へと迫った。
すべてがスローモーションのように感じられた。
ライトの瞳孔が収縮する。「もう終わりだ……!」彼は避けられない結末を覚悟した。
「さらばだ、よそ者め!」
雷牙は咆哮し、ライトの胴体目掛けて剣を突き出した。
その瞬間――
シュッ!
地面に血が飛び散った。だが、それはライトの血ではなかった。
二人の戦士は動きを止めた。雷牙は目を見開き、ライトもまた同様だった。
深紅の飛沫が、一瞬だけ空中に留まった。
「ぐっ! 何だと……!?」雷牙は負傷した腕を押さえながら、よろめいて後ずさった。それでも、剣を握る手は緩んでいなかった。
彼の視線がゆっくりと攻撃の発生源へと移る。ライトもまた、その視線を追った。
そこ、二人の間には、青紫色の光を微かに帯びた剣が立っていた。
二人は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと視線を上へと向けた。
葵が背を向けて立っていた。数秒間、彼女は微動だにしなかった。
やがて、彼女はゆっくりと振り返った。
ライトは息を呑んだ。
葵の表情が変わっていた。以前、彼女の顔を覆っていた疲労や脆さは消え失せていた。
その面差しには警戒心が宿り、より鋭く、より毅然としたものになっていた。
彼女の立ち姿には、周囲の混沌など何の意味も持たないかのような、見慣れない静けさが漂っていた。
ライトは驚きに唇を開いたまま、彼女を見つめた。
葵……。彼の視線は彼女の顔から剣へと移った。彼女は、雷牙が攻撃を仕掛けている最中にその腕を斬りつけたのだ……。
彼の呼吸が落ち着いていく。彼女は本当に、雷牙の動きを止めたのだ。
その時、彼はあることに気づいた。彼女の呼吸だ。以前とは違っていた。より深く、より制御され、不気味なほどに穏やかだった。
彼はさらに目を見開いた。彼女の呼吸……。視線は再び彼女の顔へと戻る。その瞳、そして剣にも……。
彼は、彼女の淡いラベンダー色の瞳を見つめた。その中にはいくつもの輪が浮かび上がり、不気味な輝きを放っていた。
ライトは息を呑んだ。そして視線を彼女の持つ刀へと落とす。
薄暗い光の下で鈍く輝くその刃には、紛れもない青紫色の光沢が宿っていた。
彼女に何が起きたんだ……?
ライガの背筋を冷や汗が伝う。彼は本能的に、警戒しながら一歩後ずさった。
深紅の瞳は葵を捉えたまま動かない。「な、なんだこのガキは……!?」彼の視線が、彼女の背後にある瓦礫へとちらりと走る。ついさっきまで、彼女はその下敷きになっていたはずではなかったか?
剣を握る指に力がこもる。どうして彼女がここに立っているんだ!?
だが、彼を最も恐れさせたのはそこではなかった。彼女の纏う新たな雰囲気を探るように、彼の目はゆっくりと細められる。
それよりも……一体、彼女に何が起きたんだ? こめかみをまた一筋の汗が伝い落ちる。彼女は変わってしまった……
喉が引きつる。警戒しろと、全身の本能が警鐘を鳴らしていた。
俺の体のあらゆる細胞が……。彼女から視線を外さないまま、彼は思う。髪の先一本に至るまで……
握る手にさらに力がこもる。……この少女が危険だと告げている。
彼は思わず唾を飲み込んだ。戦いが始まって以来初めて、ライガの自信に満ちた表情から余裕が完全に消え失せていた。
一体……何者なんだ、この少女は……?
……………..
「もう心配することはないな」カゲオは片手を腰に当て、得意げな笑みを浮かべて言った。「このガキを始末して、キヨサダの小僧を片付ければ、すべて決着だ」
テツヤが彼に視線を向ける。「なら、さっさと終わらせよう」
カゲオは頷いた。「ああ」
だが、二人が動くよりも早く、かすかな唸り声が彼らの耳に届いた。
二人の男が振り返る。リクヤはまだ地面に倒れ伏し、うなだれたままだった。
「てめえら、本当に勝ったとでも思ってんのか?」彼は呟いた。
ゆっくりと顔を上げる。その茶色の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「彼女を甘く見るな。アヤネはそう簡単にはやられねえ!」
カゲオは鼻で笑った。「ふん。お前、あの娘を随分と信用してるんだな」
彼はリクヤから視線を外さぬまま、片手で無造作に瓦礫の山を指し示した。「見ろよ。哀れなもんだ、立ち上がることさえできやしない」
その薄笑いが、残酷に歪む。「意識を失っているか……」言葉を切り、「……あるいは、いっそ死んでいるか、だな」
テツヤが無言で歩み寄った。彼は槍を掲げると、その石突をリクヤの背中に力任せに叩きつけた。
ドスッ!
「ぐあっ!」リクヤの口から鋭い悲鳴が漏れ、その体は床へと崩れ落ちた。
「リクヤ!」イズミが叫び、脇腹を押さえて顔をしかめる。
カゲオが彼女に視線を走らせ、笑みを深めた。「ああ、心配するな。お前の相手もしてやるよ」
彼はゆっくりと彼女の方へ向き直る。「それが終わったら外へ出て、残りの『よそ者』どもを皆殺しにして……」
深紅の瞳が怪しく光る。「……そして、ツキモリも完全に消し去ってやる!」
彼が一歩踏み出した、その時だった。微かな音が彼らの耳に届いた。
小さく、うめくような声。
カゲオは動きを止めた。驚きに目を見開く。
ゆっくりと、音のした方へ振り返る。
瓦礫が動いた。砕けた石の下から、小さな手が伸びてくる。
続いて、もう片方の手も。
アヤネがゆっくりと這い出てくる。スカートの裾は破れ、煤と埃にまみれていた。シャツの左袖は引き裂かれて負傷した腕が露わになり、もう片方の腕からも血が滴り落ちている。
体は傷だらけで、服もボロボロだ。
それでも、彼女は立っていた。
うつむいたままの彼女の顔には、茶色い前髪が深い影を落としている。
カゲオは呆然と見つめた。「は……?」思わずそんな声が漏れる。
待てよ……彼の瞳が揺れる。これは一体……?
信じられないものを見るように彼女を見つめる。彼女は……無事なのか?
彼の表情は、驚きから純粋な困惑へと変わっていく。
いや。彼は目を見開いた。ただ無事なだけじゃない……。傷ついた彼女の体を視線がなぞる。一体どうやって立っているんだ?!彼は彼女の背後にある、巨大な瓦礫の山へと視線を走らせた。あれほどの目に遭って……。彼の表情が険しくなる。あんな状況から生還できる者などいるはずがない――ましてや、再び立ち上がるなど!
彼の視線は、彼女の不自然に曲がった腕へと向けられた。あの腕だ……。彼は息を呑んだ。本来なら、激痛に悶えているはずの状況だ。
彼の目が細められる。あれほどの衝撃を受けたのだ、まともに動かせるはずがない!
アヤネは沈黙を保ったまま、ゆっくりと、その曲がった左腕を持ち上げた。
カゲオの目が見開かれる。「何……?」
彼女の腕が動いた。躊躇いもなく。震えもなく。
ただ――
バキッ。
骨が正しい位置へと戻る音が響く。アヤネが腕を回し、強引に本来の形へと戻していくにつれ、さらに鋭い音が続いた。
ゴキッ……ゴキッ。
カゲオとテツヤは、思わず身をすくめた。
テツヤは呆気にとられ、口を半開きにする。今の音は一体……?!
アヤネは指を曲げ伸ばしした。一度、二度。そして何事もなかったかのように、腕を自然に下ろした。
カゲオは立ち尽くしたまま、彼女から目を離せなかった。
あの動き……。彼の表情に、警戒の色が浮かぶ。不自然だ。
彼は目を細める。今の、腕を元に戻したあの動作……。
まるで何でもないことのように。彼はゆっくりと、剣を握る手に力を込めた。
不意に、リクヤが低く笑い声を漏らした。
テツヤが彼を見下ろすと、リクヤは自信ありげな笑みを浮かべていた。
「言っただろ、彼女を甘く見るなと」彼はアヤネの方へ視線をやった。「アヤネの体は、お前が思っているほど『普通』じゃないんだ」
その瞬間、アヤネの指が強く握りしめられ、拳が作られた。
肩がすっと伸び、立ち姿が一変する。ポニーテールを束ねていた小さなリボンが、ついに解け落ちた。
長い茶色の髪がさらりと流れ落ち、腰のあたりまで垂れ下がる。
ゆっくりと彼らの方へ振り返るその背中で、髪がふわりと揺れた。
彼女の瞳が彼らを――とりわけカゲオを――射抜くように捉えた。
彼はたじろいだ。初めて、その不敵な笑みが消え失せる。
ターコイズブルーの瞳には、これまで彼女に見せたことのないような激しい色が宿っていた。
怒り。決意。そしてその奥底に潜む、もっと不穏な何か。
カゲオは本能的に、剣を握る手に力を込めた。
陸也の不敵な笑みが深まった。「その驚異的な柔軟性ゆえに……」
彼は黒月の二人の戦士の方へ視線を向けた。「……彼女は『曲芸の白鳥』と呼ばれている」
「アヤネ……」泉は呟き、親友の突然の変貌に目を見開いた。
影男はアヤネを見つめ続けた。思わず鼻で笑ってしまったが、周囲の空気はすでに一変していた。
柔軟な動きができるから、何だというんだ? 彼は剣の柄を強く握りしめた。それだけで、俺のような戦士に敵うわけがない。
「いやはや……見事なものだ」影男は深紅の瞳を細め、彼女を値踏みするように見た。「だが……」
再び不敵な笑みを浮かべる。「……それでも、お前は俺より弱い」彼は剣を掲げ、彼女に向かって突進した。「武器さえ持っていないじゃないか!」
彼の声が広間に轟く。「武器がなけりゃ、俺を倒す望みなんて皆無だ!」
猛々しい咆哮と共に、影男は剣を振り下ろした。
だが、アヤネは身をひねった。
信じられないほど滑らかな動きで刃の下をくぐり抜け、上体を後ろに反らせて、彼の視界から完全に消え失せたのだ。
「なっ……!?」影男はかろうじてその動きを捉えた。
その瞬間――
「ぐっ……!」
ドォン!
アヤネの膝が彼の顔面に直撃した。その衝撃で影男は後方へと吹き飛ばされた。
彼は折れた木の梁を突き破り、土煙と砕け散った破片の向こうへと消えていった。
哲也は目を見開いた。地面に倒れたままの陸也は、ゆっくりと笑みを深めていく。
影男は瓦礫の中から姿を現し、鼻の下の血を拭いながら、怒りに顔を歪めた。
「てめぇ……!」彼は一歩前に踏み出した。
そして、止まった。
彼の視線がアヤネと交差する。
彼女のターコイズブルーの瞳に宿る激しい光に、彼は言葉を失った。
その表情に恐れはない。迷いもない。ただ冷徹で、一点に集中した怒りだけがあった。
影男は本能的に、静かに一歩後ずさりした。
何なんだ、これは……? 彼は剣を握る手に力を込めた。この冷酷さは……
背筋を悪寒が走る。この威圧的な気配…… 彼の瞳が揺れた。以前の彼女は、こんなんじゃなかったはずだ。
彼は信じられないものを見る目で彼女を見つめた。彼女は……突然、変わってしまったのだ。
アヤネは身を低くし、構えをとった。その体は微動だにしない。
そして、彼女は姿を消した。
カゲオは目を見開いた。「どこだ――!?」
不意に、頭上に気配が現れた。
アヤネが空中から舞い降りてくる。体を斜めに傾け、片脚を彼の顔面へと突き出していた。
「上か!」カゲオは即座に剣を掲げた。剣身から黒い炎が噴き上がり、彼はそれを上空へと突き上げる。
だが、炎が彼女に届く寸前、アヤネは再び姿を消した。
カゲオの瞳が収縮する。「何――!?」
彼女は彼のすぐ横に現れていた。
速すぎる!
彼女の脚が、鋭い一撃となって彼の胴体を捉えた。
ドォン!
衝撃でカゲオの体は「く」の字に折れ曲がり、そのまま横へと吹き飛ばされた。
彼はさらに何本もの木の梁を突き破り、それらを粉砕しながら、土煙を巻き上げて転がった。
テツヤは本能的にリクヤから身を引いた。その意識は完全に、目の前で繰り広げられる戦いに奪われていた。
彼は信じられない思いで、その破壊の跡を見つめた。「冗談だろ……?」と彼は呟く。
その瞬間、リクヤが動いた。彼はテツヤの足元を狙って、鋭い足払いを見舞った。
「なっ――!?」バランスを崩したテツヤは、仰向けに地面へと叩きつけられた。
態勢を立て直す間もなく、リクヤは跳躍して脚を抱え込むように曲げると、縛られた手首をその脚の下にくぐらせ、両手を体の前方へと回した。
テツヤの槍が、すぐ手の届く位置に転がっていた。
リクヤが上に向かって蹴り上げる。槍は空中で回転しながら舞い上がった。
槍が落下してくるのに合わせ、リクヤは縛られた手首を掲げた。
シュッ!
槍の穂先が、ロープを鮮やかに断ち切った。
ついにリクヤの手が自由になった。槍がカランと音を立てて地面に落ちる。
「クソガキが!」テツヤが毒づいた。
彼は即座に槍を拾い上げると、リクヤの脚を狙って横薙ぎに振るった。
陸也は跳躍し、その刃を間一髪でかわした。
数メートル先へ着地すると、即座に重心を低く構える。
鉄也は立ち上がり、指先で槍をゆっくりと回した。
その視線は陸也を捉えて離さない。「その足を切り落としてやる」
陸也の頬を、一筋の汗が伝い落ちた。
彼は拳を握り締め、身構える。「やらせるかよ」
……………
雷牙は葵を見つめ続けていた。彼女の変貌ぶりに、恐怖と信じられないという思いが入り混じった表情を浮かべたまま。
「そ、そんな急な変化で、俺がビビるとでも思ったか!?」彼は唸るように言った。負傷した手で剣を強く握り締め、無理に強気な声を絞り出しているのは明らかだった。
「一撃で仕留めてやる!」怒りに満ちて、彼の深紅の瞳が見開かれる。「たとえお前が千回進化を遂げたとしてもな!」
猛々しい咆哮と共に、雷牙は彼女に向かって突進した。
「危ない!」ライトが叫んだ。
だが、雷牙が剣を振り上げるよりも早く――
シュッ!
「ぐっ!」雷牙の体が大きく揺れた。口元から血を散らし、彼は片手で脇腹を押さえながら、不意に前屈みになった。
新たな傷口から、細い血の筋がゆっくりと滲み出てくる。
一瞬、ライトも雷牙も、何が起きたのか理解できていない様子だった。
葵は数歩離れた場所に立ち、剣を体の脇に少し下げていた。
その表情は穏やかなままだった。淡い紫色の瞳は輝きを放ち、雷牙を射抜くように見つめている。その眼差しには、彼には到底理解しきれないほどの強烈な力が宿っていた。
ライトは呆気にとられ、口を半開きにした。一体、何が起きたんだ……?
彼の視線が雷牙へと移る。ついさっきまで、雷牙は葵に向かって真っ直ぐ突進していたのに……。再び葵に目を戻す。……次の瞬間には、もう傷を負っていたのだ。
葵は動いたようにも見えなかった。ライトは彼女の輝く瞳を見つめた。淡い紫色の虹彩の中に浮かぶ微かな輪が、見る者を惹きつけて離さないような、催眠術めいた強さで揺らめいているのを目にした。
彼女は、変わった。
雷牙は警戒しながら後ずさりした。荒くなる呼吸。
まずい。彼は葵から目を離さなかった。彼女は本当に、何らかの変化を遂げたのだ。
彼には、それがはっきりと感じ取れた。彼女から何かが放たれていた。
単なる強さではない。もっと根源的な何か。
肌の下を這い回るような、息が詰まるほどの気配。
彼女の気配……。彼は奥歯を噛み締めた。殺意が溢れ出している。
背筋を冷たい戦慄が走る。彼女は危険だ……。
彼は剣を握る手に力を込めた。危険だ!
「うっとうしい……」
ライトが彼の方へと視線を向ける。
ライガは肩を震わせながら、うなだれるように頭を垂れた。
「うっとうしい……」
不意に、彼の瞳が見開かれた。紅蓮色の虹彩が消え失せ、不気味な白へと変わる。
額に青筋が浮かび上がった。
「うっとうしい! うっとうしい! ああ、うっとうしい!!」
言葉を重ねるごとに声は高まり、やがて苛立ちは激昂した叫びとなって爆発した。
突如、彼の剣から紅黒い炎が噴き出した。
「自分が強いとでも思ってんのか!?」 炎が彼の周囲で荒々しく渦巻く。「ぶっ殺してやる!!」
ライガが剣を振るう。紅黒い炎の弧が、あらゆる方向へと部屋を切り裂いていった。
アオイとライトは即座に散開する。炎は周囲の壁に激突した。
ドォォン! ドォォン!
部屋が激しく揺れ、石塊や折れた木材の梁が頭上から降り注ぐ。
「うわっ!」 ライトは炎の弧を身を屈めてかわしながら声を上げた。
さらに別の炎が彼に向かって走る。彼は辛うじて両手を掲げ、それを防いだ。
「ぐっ……!」 衝撃で体が後方へと押しやられる。
その直後、アオイが彼の目の前に着地した。
彼女は迷いなく剣を薙ぎ払い、迫りくる炎の数々が二人に届く前に切り裂いていった。
……………
ガキンッ!
クレナイが扇を振り下ろすと、その鋭利な縁がミソラの剣と激しく擦れ合った。
衝突の衝撃に身を預けるように体重をかけ、クレナイは筋肉を軋ませながら相手をねじ伏せようとする。
だが、ミソラはあくまで冷静だった。その表情は微塵も変わらない。
クレナイは目を細めた。なぜだ……? 彼女は歯を食いしばり、その茶髪の少女を見下ろした。
私が圧倒しているはずなのに。彼女は握る手に力を込める。この力比べで勝てるはずがないのに……それなのになぜ、あんなに落ち着いていられるんだ!?
苛立ちに顎に力が入る。「その態度は何だ!?」 彼女は吐き捨てるように言った。「自分が今、どんな状況に置かれているか分かってるのか!?」
美空は動じなかった。「そうね……」彼女の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。「……でも、私には背中を預けられる相手がいることも分かっているわ」
紅の瞳がわずかに見開かれた。相手……?
不意に、彼女の傍らに何者かの気配が現れた。
シュッ!
紅は反射的に身を翻した。刃が顔の横をかすめていく。
「ぐっ!」右の頬に細い切り傷が走り、彼女はたじろいだ。
一筋の血が、肌を伝って流れ落ちる。
「貴様……!」紅は身を翻し、扇を振るった。だが、彩華はすでに動いていた。
彼女は後方へ身を翻してその一撃を優雅にかわすと、美空の隣に着地した。
紅は彼女を睨みつけた。「生意気な小娘が!」扇を握る指に力がこもる。「ただじゃおかないよ!」
彩華は不敵に笑った。「まだ気づかないの?」
「何だと!?」紅の深紅の瞳が細められる。
「私たち二人を同時に倒すなんて、無理よ」彩華が刃を構える。「無能だなんて言っておきながら、私たちを倒すのに随分と時間がかかっているじゃない」
美空は片手を腰に当て、余裕の態度を見せた。「従順な犬みたいに主人の後を追いかけてばかりいる人らしい言葉ね」
紅は動きを止めた。目を見開く。周囲の空気が重く沈んでいくようだ。
その深紅の瞳が、怒りで白く輝いた。
「貴様ら……」
扇を握る手に力が入り、指の関節が白くなる。やがて、瞳の色が深紅へと戻った。
彼女の武器から、突如として黒い炎が噴き出した。
炎は大きさを増していく。さらに大きく。やがて、扇全体を完全に包み込んだ。
「炎刃流奥義……」
室内の温度が急激に上昇する。美空と彩華は即座に武器を握り直した。
紅の表情が、怒りに満ちた笑みへと歪む。
「第十四型――『炎の抱擁』!」
彼女が扇を前方に振るう。
黒い炎の巨大な奔流が二人の少女に向かって炸裂し、瞬く間にその間の空間を飲み込んだ。
「ああああっ!」
室内が激しく揺れる。炎が周囲の石や木の梁を呑み込み、戦場全体に煙が立ち込めた。紅は武器を下ろしながら、荒い息をつき、わずかに足元をよろめかせた。
彼女はこめかみに浮かんだ汗を拭った。その深紅の瞳は、前方の炎に包まれた空間をしっかりと見据えたままだった。
彼女の唇に、満足げな笑みがゆっくりと浮かんだ。「これで、あんたたち負け犬も黙るはずよ」
彼女は背を向けた。だが、そこで足を止める。
目を見開く。「何……?」ゆっくりと振り返る。
笑みは消え失せていた。消えゆく炎の中に、二つの人影が立っていた。
無傷のまま。
最前列には美空が立ち、刃を構えて防御の姿勢をとっていた。その傍らには彩花が立ち、二本の刃を胸の前で交差させていた。
紅の瞳が揺れる。息が詰まる。
「ありえない……」
…………
雷牙は荒い息を吐き、胸を上下させながら前方を見つめていた。
土煙がゆっくりと晴れていく。
彼の目が見開かれる。
葵と雷人は、まだ立っていた。二人とも、傷一つ負っていなかった。
雷牙の呼吸が乱れる。「そんな……馬鹿な……」彼は震えた。
…………
広間の向こう側、クレーターの中でヒカルは意識を失ったまま倒れていた。
源四郎は彼に背を向けた。「ふん。期待外れだったな」
歩き出そうとする。
その時、不意に何者かの手が彼の足首を掴んだ。
源四郎の目が見開かれる。「何だと――!?」
ヒカルの目がカッと見開かれた。「捕まえた」
彼が強く引く。
源四郎はバランスを崩し、仰向けに倒れ込んだ。「このガキが――!」
立て直す間もなく、ヒカルはクレーターから飛び出し、後方へ宙返りして軽やかに着地した。
彼は意識を失ったふりをしていたのだ。
源四郎も後方へ身を翻して数メートル先へ着地したが、その目は信じられないものを見るように見開かれたままだった。
「ありえない! そんなはずはない!」
ヒカルはしっかりと立ち、その顔に決意に満ちた笑みを浮かべた。
口の端と左のこめかみから血が伝い落ちていたが、彼の琥珀色の瞳は決意を宿して輝いていた。
.....................
満は瓦礫の中で片膝をついたまま、荒い息を吐きながら勇を見つめていた。
全身を駆け巡る痛みを、もはや無視することは難しくなっていた。
腕は震え、膝には力が入らない。それでも、指先はしっかりと武器を握りしめていた。
勇は不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと彼に歩み寄る。「まだ立とうってのか?」
満は口元の血を拭った。「ああ」
彼は無理やり体を起こした。「まだ終わっちゃいないからな」
勇は苛立たしげに舌打ちをし、目を細めた。
……………
時雨は鼻で笑い、まるで戦いがすでに決着したかのように背を向けた。
だがその時、かすかな地響きのような音が彼女の注意を引いた。
彼女はゆっくりと振り返る。
背後の瓦礫の山が動き始めた。石塊が転がり落ち、瓦礫が崩れ去っていく中、そこには並んで立つサヤカとシズカの姿があった。
多少の擦り傷や軽い打撲こそあれ、姉妹はしっかりと立っていた。
時雨は信じられないものを見るように目を見開いた。「まさか……!」
………….
一樹は鎖分銅を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
海人の瞳が悔しさに揺れる。「クソガキが……!」
…………
紅の視線が、背後の猛火へと向いた。「さっきまでそこにいたはずだろ! どうやって……!?」
言い終わるか終わらないかのうちに、低い笑い声が耳に届いた。紅は即座に二人の方へと視線を戻す。
彼女の表情から自信が消え、代わりに恐怖と困惑が入り混じった色が浮かんだ。
「その攻撃なら見たことがあるわ」と、彩花が冷静に告げた。「侵攻の際、清華寺でジン相手に使った技よね。覚えてる?」
紅は目を細めた。
「でも、それ以上に重要なのは……」と、美空が言葉を継ぎ、ゆっくりと刃を下ろした。「その技には限界があるってこと」
紅は身を硬くした。
美空の青灰色の瞳が鋭く光り、彼女は続けた。「『第十四の型』を使ったとき、あることに気づいたのよ」
彼女の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。「ちょうど三十秒間、アドレナリンの分泌が途切れるのよ」
紅の表情が強張る。
美空が言葉を継いだ。「『第十』を超える形態は、体に甚大な負荷をかけるって、ジンが言ってたわ」
彩花は笑みを絶やさぬまま、人差し指を一本立てた。「特に、あんたは月代の血筋じゃないんだから」
彼女の瞳が鋭さを帯びる。「その影響は、あんたの場合、より顕著に出るはずよ」
紅は反射的に一歩後ずさった。彩花と美空がゆっくりと歩み寄ってくるのを見て、その瞳は揺れ動く。
「わざと神経を逆撫でしたのよ。その技を使わせるためにね」と美空は言った。
自信を湛えた灰青色の瞳が光る。「さあ……」彼女は武器を握り直した。「……今度は私たちの番よ」
紅は奥歯を噛み締め、その顔には苛立ちが広がっていった。




