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3-0.1 第零世界の筆記者の物語



ジ・アナザー・ワールド・ストーリー


第三章 神の余白


夜は、ただ暗いだけのものではない。

それは、世界がまだ書き終えていない部分の色だ。


都市セレ=ノクスの上空には、今日も人工星群が規則正しく浮かんでいた。誰もがそれを美しいと呼び、秩序の証と信じている。だが、エリオン・ヴェルザードにはわかっていた。あの光の配列には、一箇所だけ微かな綻びがある。肉眼では見えない。望遠観測にも映らない。けれど、夜空の深度を数式として読む者には、それは明白だった。


星列第七環。位相ずれ、零・〇〇〇一三。

誤差としてはあまりに小さい。

だが世界は、こういう小さな嘘から壊れ始める。


「また見つけたのか」


背後で声がした。

振り返らずとも誰かわかる。リュカだった。灰色の外套を羽織った彼は、屋上へ続く非常階段の影に半身を預け、いつものように無精にこちらを見ている。


「見つけたというより、向こうから滲んできた」

エリオンは夜空を見たまま答えた。

「継ぎ目が薄くなっている」


「継ぎ目、ね。お前がそう言う時は、ろくなことにならない」


「今まで一度でも、私の警告が外れたことがあったか」


「ないから困ってるんだよ」


リュカは短く息を吐いた。

軽口の形をしていても、その声には疲労があった。この数週間で都市の各所に発生した“観測欠落域”は、もはや隠しきれる段階を過ぎていた。通りを歩いていた人間が一秒ぶんだけ記録から抜け落ちる。監視カメラの映像で、建物の角だけが別の季節に入れ替わる。音楽堂の演奏が、一夜だけ存在しなかったことになる。新聞はそれらを機器故障だの集団錯覚だのと説明したが、誰も本気では信じていない。


世界の帳尻が合わなくなっていた。


エリオンはコートの内側から薄い金属板を取り出した。掌に収まるほどの、黒い鏡のような装置だった。表面には、数式とも楽譜ともつかない光の線が静かに流れている。


リュカの眉がわずかに寄る。

「それを使うのか」


「ああ」


「まだ完成してないだろ」


「完成したものしか使ってはいけないなら、人類は火すら持てなかった」


「便利だな、その理屈」


エリオンは答えず、装置に指を触れた。

光の線が一瞬だけ強く脈動し、屋上のコンクリートへ幾何学模様が投影される。円環、断線した軌道、三つの重なり合わない座標軸。まるで、この場所の上に別の場所が重ねて置かれたようだった。


第零写本接続式。

通称、アナザースクリプタ。

世界の表層に記された法則の下から、まだ確定していない“余白”を引きずり出すための装置である。


都市の風が止まった。


遠くで鳴っていた車の走行音が、糸を切られたように消える。

人工星群の明滅周期が半拍だけずれた。

夜空の黒が、黒であることをやめる。そこに現れたのは虚無ではない。むしろ逆だった。情報が濃すぎて、人間の眼には暗闇にしか見えない層。未記述の可能性が沈殿した、世界の下書きだった。


リュカが低く呟く。

「……何度見ても、気分のいい光景じゃないな」


「安心しろ。私も好きではない」


エリオンはその中心へ一歩踏み出した。投影された幾何の真ん中、断線した円環の欠け目に靴先を合わせる。すると足元の空間が、ごくわずかに“沈んだ”。


正確には沈んだのではない。

世界の厚みが、その一点だけ薄くなったのだ。


そこで初めて、声がした。


『なぜ、おまえはまたここへ来る』


男とも女ともつかぬ声だった。音ではなく、意味だけが直接頭の奥へ落ちてくる。リュカには聞こえていないらしい。彼は周囲を警戒するばかりで、エリオンのほうは見ていない。


『一度、世界を裂いた者が。まだ書き足りないのか』


エリオンの目がわずかに細くなる。

この声を、彼は知っていた。


忘れたことなど一度もない。


「私は裂くために来たんじゃない」

静かな声で、しかし刃のようにはっきりと言う。

「閉じられたままの頁を開きに来た」


闇の底で何かが嗤った。

いや、嗤いに似た波形が揺れた。


『嘘だな、第零世界の筆記者。おまえはいつも同じだ。救うと言いながら、結局は知ろうとする。取り戻すと言いながら、境界の向こうを見たいだけだ』


その言葉は正しかった。

だからこそ、侮辱より深く刺さる。


エリオンは一瞬だけ沈黙した。

脳裏に、あの日の光景が閃く。崩壊する観測塔。赤い警報。白い手。届かなかった一秒。

あの喪失以来、彼はずっと世界の継ぎ目を追い続けている。救うためか。証明するためか。取り戻すためか。あるいはただ、神の沈黙に耐えきれなかったからか。

そのどれも本当で、そのどれも完全ではない。


「……そうかもしれない」

エリオンは認めた。

「だが知ることと救うことは、必ずしも別じゃない。見なければ、どこも修復できない」


その瞬間、屋上の空間が裂けた。


裂け目は縦でも横でもなく、概念としての“こちら”と“向こう”の境界に生じた。夜景の一部が静かに剥がれ、その裏側から、まるで別の都市が覗く。そこには空中を逆さに流れる河があり、塔は地面ではなく星のほうへ根を張っていた。窓には火ではなく記憶が灯り、遠景には巨大な白い輪が半分だけ欠けたまま浮かんでいる。


リュカが息を呑んだ。

「なんだ……あれは」


「アナザーワールド」

エリオンは低く答えた。

「ただし完成した世界じゃない。こちらから見えているのは、貼り合わせに失敗した残余だ」


「残余で都市ひとつぶんあるのかよ」


「世界は神話より無駄が多い」


裂け目の向こうから、冷たい風が流れ込んでくる。

それは単なる温度差ではなかった。忘れたはずの記憶、ありえたかもしれない選択、言わなかった言葉。そのすべてが風の粒子になって混ざっているような感触だった。


リュカは一歩後ずさる。

「入る気か?」


「そうでなければ開く意味がない」


「意味なら他にもあるだろ。閉じるとか、封印するとか、見なかったことにするとか」


エリオンはそこで初めて微かに笑った。疲れていて、薄くて、それでも確かに人間の笑いだった。


「最後のは、お前にしては冴えない案だ」


「俺は案じゃなくて願望を言ったんだよ」


裂け目の向こうで、都市が呼吸するように脈動した。

塔のひとつ、その最上部に、白い人影が立っているのが見える。遠すぎて顔はわからない。だがエリオンの心臓はその瞬間、誤差のない衝撃で打った。


知っている。

ありえない。

だが知っている。


あの立ち方。

あの肩の線。

失われたはずの時間の、残酷なほど正確な輪郭。


「……ミレイア」


名を呼んだ瞬間、裂け目の向こうの影がゆっくりとこちらを向いた。


リュカが鋭く振り返る。

「誰だ?」


エリオンは答えなかった。

答えられなかった。

死者の名を口にすることは、時に祈りより危険だ。


影は何も言わない。

だがその沈黙は、明らかにこちらを認識していた。

次の瞬間、白い輪が空で回転し、都市全体が一枚の紙のように折れ始める。裂け目が急速に閉じようとしていた。


『選べ』


あの声が、再び頭の奥に落ちた。


『筆記者。

世界を守るなら、ここで閉じろ。

失われたものを追うなら、向こうへ行け。

両方は持てない』


屋上の幾何学模様が崩れ、金属板の表面に罅が走る。アナザースクリプタが限界を迎えていた。今ここで選ばなければ、裂け目は永久に閉じるかもしれない。


リュカが叫ぶ。

「エリオン!」


現実が彼を引く。

過去が彼を引く。

世界と喪失が、同じ一秒の中で互いに喉元を掴み合う。


そのときエリオンは、驚くほど静かに息を吸った。

そして、金属板を逆手に持ち直すと、裂け目の縁へ新しい式を書き込んだ。閉鎖式でも突入式でもない。二つの世界の境界に、第三の細い経路を無理やり刻むための、ほとんど狂気じみた接続式だった。


リュカが目を見開く。

「お前、何を書いてる……!」


「余白だ」


「は?」


「神が用意していないなら、こちらで作る」


光が走った。

裂け目は完全には閉じず、針のように細い一本の通路となって夜空へ刺さった。向こうの都市は消えたが、その位置だけは失われない。白い人影も、もう見えない。だが痕跡は残った。座標ではなく、傷として。


エリオンは手の中で砕けた装置を見下ろし、小さく呟いた。


「待っていろ」


誰に向けた言葉か、リュカには聞かないほうがいいとわかった。

彼はただ肩を落とし、屋上に腰を下ろす。


「……最悪だ」

そう言って、空を仰ぐ。

「なあ、筆記者」


「何だ」


「お前、ほんとに神に喧嘩売るつもりなんだな」


エリオンは細い通路の残光を見つめたまま答えた。


「違う」


そして一拍置いて、静かに言う。


「もう売っている最中だ」


その夜、都市セレ=ノクスの全観測記録に、説明不能の一行が刻まれた。


午前零時十三分、北棟上空にて未登録星路を確認。

分類不能。

記述者不明。


だが本当は、不明ではなかった。

それを書いたのは、世界の外へ伸びる余白に最初の一文を刻んだ男。

第零世界の筆記者。

神の沈黙に、創造で返答する者だった。



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