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絶望の淵

「グラウ伯は何故私にとどめを刺さなかったんだろう。それに、ユージン王子をどうやって殺めるつもりかしら。エリカも……様子がおかしかった。いったい何があったというの……? あんなエリカは初めて見たわ。とにかくこんなところでこうしてはいられないのよ。なんとかしてここから抜け出さなきゃ……っ」


 息が出来るということは空気が通っている証拠だ。それ以上のことは何もわからない。だが、再び焦燥に駆られるまま壁を叩き始めたアディは、自分の名を呼ぶ声を聞いて大きく目を見開いた。濃い闇で何も見えないが関係ない。


「エリカ……っ! どこにいるのっ!? ここはどこっ? 私、閉じ込められてるのっ!」

「わたくしは傍にいるわ。可哀相に、声が嗄れているわ。大声を出さなくても大丈夫、聞こえているから」

「私はどうなってるの?」

「長持ちの中よ」


 やっぱり! 想像した通りだ。とりあえずもう一つの悪い想像が外れたことにホッとして大きく息をついたアディは、眉をひそめた。エリカの様子が相変わらずおかしい。会話は出来るが、こんな状況なのに淡々としすぎているのだ。

 その疑念は話していくうちに益々強まっていった。なんとかしてここから出なきゃ、と言ったアディにエリカは答えなかったのだ。


「エリカ、どうしたの? なんだか変よ?」

「……そうかしら。ねぇ、アディ。わたくし、忘れていたことを思い出したわ。聞いてくれる?」


 そんな場合ではないとは思ったが、エリカは囁くように話し始めた。


「今のあなたと同じように、わたくしも子供の頃、その中に閉じ込められたことがあってね」

「あの、ねぇエリカ。後で聞くわ。それよりユージン王子の命が危ないの。彼を助けなきゃ」

「聞いてよアディ。わたくしはもう少しで死ぬっていう時にやっと助け出されたのよ。見つけてくれたのがラングストンで、その時は意識を失っていて知らなかったのだけれど、後で彼に会わせてもらって恋に落ちたのね。命の恩人ですもの、当然だったのだわ。でもそのせいで彼は後に命を落とす運命を背負ってしまった」


 エリカを狙った暗殺事件で曽祖父が身代わりになった話は、以前聞いている。

 だがエリカは、わたくしが犯人から目を背けなければ彼は死なずにすんだのに、と続けたのだ。


「犯人が誰かわかってるのっ!? 処罰されたのっ?」


 てっきり黒幕は不明だと思っていたが、考えてみれば一国の王女を狙った重大事件なのだ。国を挙げて捜査されたに決まっている。

 勢い込んで尋ねたアディに、エリカは、処罰はされていないわ、と答えて低く笑った。


「されるわけがない。わたくしの死を願っていたのは―――わたくしの兄だったんですもの」


 思いもよらない言葉にアディは絶句した。そんな筈はない。エリカはいつもたった一人の兄にどれ程可愛がられ、大切にされていたかを自慢していたではないか。彼女が降嫁してからも王族としての待遇を特別に認め、度々王宮に呼ぶ程愛されていた筈だ。


「そうだったわね。でも本当なのよ」

「そんな―――」

「思い出した。何もかも。子供の頃、周囲に甘やかされ我が儘放題に過ごしていながら、いつも不安で他人に怯えていた気持ちも、この中でじわじわと死に近付いていた時の絶望も。死んだからって何故全てを忘れて今まで過ごしてこられたのかしら」


 自分を訝しむような呟きに、アディはかける言葉を失っていた。そんなことはありえない。エリカの思い違い、記憶の改ざんに決まっている。だが、そう思えば思う程、心のどこかにあった違和感が膨らんでいくのを感じていた。


 王女であるエリカが、この北の塔の内部に詳しいのはおかしいと思わなかったか。夫が亡くなってから王宮に全く足を向けなくなったのは不思議だと感じなかったか。何より、子供の姿で現れた彼女と、生前の狷介な曾祖母との間に、姿形だけではない違いを感じていたのではなかったか。


「ここは兄にしか教えていなかったわたくしの隠れ家だったの。誰に狙われているのかわからなかったんだもの。皆恐がって来ないから安心出来たのよ。でも殺されかけてからは来なくなったわ。意味がないから。まさか兄だったとはね」

「でも、どうして……」

「他の兄弟達が皆夭逝する中で、たった一人残った妹として可愛がってくれたのは全て演技だったんだわ。それを知ったのはラングストンが倒れた時よ。一報を受けて駆け付けてくれた兄が、無事なわたくしを見た瞬間の表情に、違和感を持ったわ。その時は小さな齟齬だったけれど、後に色々な断片を思い出していった」


 北の塔で襲われた時、背後から薬品を嗅がされた一瞬に、目に焼き付いた見慣れた指輪のことや、隣国の老いぼれ大公が亡くなっては王女など必要ないと書いてある偶然見た紙切れの筆跡。ラングストン伯爵に恋して寝付くまでになった妹を、父さえいなかったらもっと力のない貴族にやるか修道院に送り込みたかったと、誰かに吐き捨てる声。


 エリカの記憶の断片の数々は、線で繋げば疑いようのない事実を示していた。


「わたくしが狙われたのは、おそらく王女の利用価値を使おうとする勢力が台頭してきたとか、そんなくだらない理由だと思うわ。父が可愛がるわたくしを女王にするのではないか、という声が少数だけれどあったのは事実だから。そんなことはありえないのに」

「エリカ……」

「何故、こんな話をするのかと思っているでしょう、アディ?」

「それは―――だって、ここに来たせいで辛い過去を思い出してしまったからじゃない。私には何も出来ないのが歯痒いわ。あなたを抱き締めてあげたいのに」

「泣く必要はないのよ、アディ。あなたに出来ること、あるから」


 どこか虚ろな声でエリカは笑った。


「あなたはそこから出られないわ。無駄な足掻きはお止めなさい」

「無駄な、足掻きって―――」

「人は裏切る。笑顔の裏で何を考えているのか、わからないものなの。わたくしを殺したいと思った兄や、愛してもいないのに押し付けられた疫病神の王女の夫役を、死ぬまで演じきったラングストンや、肩書きだけに寄って来た多くの人々で、理解したのよ。生きていれば汚いことだらけ。アディ、こんな世界は生きていても意味がない」

「エリカっ? 何を言うのっ? 私まだ、死にたくなんかないわよっ!?」

「考えてもみなさい。あなたが愛したローディス・クライアは、愚かにも他の娘をあなたと間違えて靡いてしまったわ。ならば、切り換えてみる? でも、ドジャーやユージン王子が口説いてくるのも、あなたの家を見ているから。裏表のない信頼や愛情なんてこの世にはないのよ。この先の人生だって変わらないわ」


 説得するために声を強めることも、感情を見せることもない、単に事実を述べただけという口調だった。だが、それがかえってエリカの絶望の深さを表していた。


 アディは反論しようと口を開きかけたが、あなたが死ぬ時はわたくしが傍にいるから恐くはないでしょう? と遮られる。


「いやよ、ねぇエリカ、勝手に決めないで。私の人生は私のものだわ。そんなこと言わないで、なんとか助かる道を一緒に探してよ。ユージン王子に危険が迫ってるのよ」

「嫌よ。生きていたらあなたもいずれ、わたくしを裏切るのよ。……そんなのは嫌。あなたはわたくしの大好きなアディのままでいてちょうだい」


 それは、アディが生まれて初めて聞く、本物の憎悪をまとった声だった。もしエリカが短剣を手に取ることが出来たなら、今この瞬間にも刺し貫かれていたに違いない。

 グラウ伯すら生ぬるかったと感じる殺意、それを向けてきたのが誰よりも大切なエリカだということに、アディは凍り付く。


 大丈夫よ、わたくしのアディ、と今度は愛情の籠もった声で言われたが、アディには返す言葉が見つけられなかった。



  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇





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