77.魯坊丸の師匠達。
天文二十二年一月二十日夜〔魯坊丸の自室〕
平手政秀が目を覚まし、信長兄ぃを呼んだという報告書を見ると、その報告書をぐしゃぐしゃに握り潰して床に叩き付けた。
「馬鹿野郎、そんな面倒なことをするなら死んでくれた方がマシだ」
「若様、落ち着いて下さい」
「千代も読んだであろう」
「はい、目を通させて頂きました」
「ロクでもないことを言いやがった」
「若様は表に立つことを避けておられます。若輩者の若様が表に立てば、それだけで不要な諍いに繋がります」
「それもあるが、面倒事を背負うのが厄介だ。会いたくもない連中に割く時間が惜しい。名誉と権威が欲しいならば、それを欲する者に与えればいい」
「若様は猿使いの如く為政者を操るのですね」
「人聞きの悪いことを言うな。間違わないように助けるだけだ」
信長兄ぃは民の暮らしを守りながら尾張を治めたい。
俺は平穏な尾張で好きなことをして暮らしたい。
利害が一致しており、俺と信長兄ぃが対立する理由はない。
政秀は俺を表に出したがった。
目を覚ました政秀は信長兄ぃを密かに呼んでとんでもないことを言った。
平手屋敷を訪ねた信長兄ぃが政秀の手を取ると、弱々しい声で「殿ぉ~」と呼んだらしい。
「爺ぃ、よう目を覚ました」
「殿……よく、お聞き下さい」
「何だ」
「爺めは……死んだことに、なさいませ」
「何故だ。生きておるではないか」
「某が死ねば……自らの策が巧く嵌ったと、義元は油断します。殿が欲しがっておられる……時間が稼げます」
「爺ぃは儂をもう助けてくれぬのか」
「爺めは……年を取り過ぎました。魯坊丸様と……交替すべきでございます」
「悪童より爺ぃがよいのだ」
「無理を……申しますな」
政秀は苦しそうに息を吐いた。
信長兄ぃが心配して声を掛けようとすると、政秀は弱々しく首を振った。
「魯坊丸様を……脇に添えて、織田家を盤石になさいませ。無事に清須を取れば……今川勢も恐ろしくございません」
「儂は爺ぃの助けが欲しいのだ」
「もちろん……お助け致します。ですから、某の葬儀を……魯坊丸様にさせ、某が担ってきた……殿の補佐役を継がせるのでございます」
「まだ、元服もしておらん」
「元服しておらずとも……もうすぐに従五位下でございます。ひとまず同朋衆という名目として……側に置きなされ」
「嫌じゃ」
「どうしても……嫌と申しますならば……自ら腹を切って、お願いせねばなりませんぞ」
「どうしてそうなる」
政秀は返事をせず、荒い息を繰り返した。
信長兄ぃがその手を強く握ると、政秀は再び口を開いた。
「魯坊丸様を……大事になさいませ。評定にも……某の代わりに参加させ、魯坊丸様の意見を……お聞き下さい。決して……逃がしてはなりません」
「爺ぃ、もうよい。休め」
「某が……腹を切りますか」
「わかった。そのようにする」
「お願い……致します。宜しく……たのみ……」
政秀は言いたいことを言い終えると、そのまま気を失ったらしい。
報告書の内容を思い出して、やるせない気持ちがこみあげてきた。
どうして俺が政秀の葬儀を取り仕切るんだ。
「俺はいつから政秀の弟子になったんだ。覚えがないぞ」
「若様が堺の商人とのやり取りを失敗し、その尻を政秀殿が拭きました。それ以来、堺の商人と公家の方々の間では、若様は政秀殿の秘蔵っ子という扱いになっております」
「あぁ、そうだったな。ずいぶんと昔の話だ」
だから、師匠の葬儀を執り行って、そのまま那古野で政秀の席に俺が座るのか。
面倒臭い。
癇癪持ちの信長兄ぃを宥めるとか、罰ゲームだろう。
そんな損な役目は、信長兄ぃ大好きな連中が子守りをすればよい。
「子守りならば、帰蝶義姉上や(岩室)長門守を鍛えればよい」
「そうでございますね」
「俺は自分のことで精一杯だ。まだまだやるべきことが多すぎる。何と言っても人材を揃えないと何も進まない」
「若様が難しいことばかり要求されるからです」
「鉄砲の量産くらいで泣き言を言ってもらっては困る。まだ、その先に雷管を装備したマスケット銃を作り、さらに発展させた機関銃くらいは製造したい」
「それだけではございません。エンジンという動力もまだ手付かずです」
「鉄砲と造船を急ぐのは安全を確保する為だ。最終的にグライダーにエンジンを乗せたいと思っている」
「まったく技術力が足りておりません」
「だから、忙しいと言っている」
千代女がまったくという顔で溜息を吐いた。
多くの武将は名誉栄達を望み、一国一城の主を目指すが、俺はそんなものに興味がない。
好きなものを作りたいだけだ。
空飛ぶグライダーと、七つの海を巡る帆船の模型を造らせた。
空を飛ぶ?
七つの海を渡る?
織田家でなければ、俺こそ『うつけ者』だ。
幸い、親父(織田信秀)が俺以上のうつけ者だったので好き勝手させてもらえた。
まっとうな親ならば、三歳の童子に三千貫文(三億六千万円相当)を預けない。
親父の無茶で俺は資金を手に入れた。
本当に俺は運がよかった。
だが、力が手に入ってくると、誰もが一国一城の主を目指していると思うらしい。
俺は信長兄ぃの後釜とか狙っていないぞ。
実に面倒臭い。
「政秀はそんな俺が恐ろしいのか」
「そうかも知れません」
俺と千代女が真剣に悩んでいると、「おほほほ」と笑い出したのが師匠岡本定季であった。
俺に侍としての心得を教え、戦のいろはと人の使い方を教えてくれた。
「政秀様は、別に魯坊丸様を恐れておりません」
「ならば……」
「そう言えば、定季殿は平手殿とよくお会いになっておられました」
「そうなのか」
「魯坊丸様が熱田神宮に行っている間は、某も暇になりますからな」
師匠は政秀と時間が合うと、何度も会っていたそうだ。
そんな話は聞いていない。
「政秀様からは、魯坊丸様の人となりをよく尋ねられました。そして、魯坊丸様に教えておいて欲しいことを頼まれたものです」
「師匠と政秀の二人で俺の教育方針を決めていたのか」
「そんな感じでございますな」
「それならば、今更、俺を信長兄ぃに付ける意味はないだろう」
「いいえ、魯坊丸様が信長様の信任を得ていると、他の者に見せ付けないと、織田家の家中が割れ、敵にそこを突かれると危惧されておりました」
信長兄ぃからの信任だと……また面倒なことを言い出していた。
「難しく考えることはございません。普段通りに那古野の評定で好き勝手に振る舞えばよろしいのです」
「好き勝手にしたことなどないぞ」
「おほほほ、魯坊丸様が進めば、他の者が勝手についてきます。面倒でしょうが、美濃斎藤家の取次役を引き受けなされ」
「師匠……他人事だと思って簡単に言ってくれるな」
「他人事ではございません。魯坊丸様が留守になれば、その負担はすべて中根南城にいる者に掛かってきます。ですが、それがまた人を育てるきっかけとなります。某も微力ながら、手伝わせて頂きます」
確かに。
俺が美濃や京に出掛ければ、留守中の仕事を任せねばならない。
不測の事態を考え、担当する者は前もって備えねばならず、咄嗟の判断も自分ですることになる。
人を育てるきっかけになるか。
「それと、信長様を手なずける手腕を学ぶよい機会になるのではございませんか」
「平手の葬儀を取り仕切れというか」
「政秀様をどこで匿うかも決めねばなりません。何度も使いを送るのは不自然でございましょう」
「政秀は最初から死ぬ気だったのか」
「はい。今川義元を油断させ、魯坊丸様が欲している時間を一月でも稼ぐ。老い先短い身の命など惜しくないと申されておりました」
「買いかぶり過ぎだ。それに老人の余生を買う趣味もない」
師匠がにやりと笑った。
政秀の策に乗るならば、大人しく尾張でドタバタ劇を演じているべきだろう。
俺が政秀の後釜として入り、那古野の古参家臣と衝突する。
今川の間者には、そう見えるだろう。
慎重な義元は、その混乱が本物か確かめるために数ヶ月を要する。
「師匠。俺が大人しく人の策を借りると思っているのですか」
「某も必要ないと申しておきました」
「千代。以前の準備は進んでいるか」
「今川勢の目と耳を潰す策でございますか」
「そうだ」
「急ぎ、準備をさせております」
「準備が整い次第、加藤を呼んでくれ」
「畏まりました」
「さくら、甲賀衆から十人ほど手足になる者を選んできてくれ」
「畏まりました」
「楓、間者に気づかれぬよう、平手屋敷の周辺の警備を厚くしろ。ただし、表向きは政秀が死にかけている。それを隠そうとしているように見せろ」
「はい」
「紅葉、平手の爺さんの葬儀をどこでやるのがよいかを調べてくれ」
「すぐに取り掛かります」
「師匠、これでよろしいか」
「お手並み、拝見させて頂きます」
「城を留守にする日も多くなり、忙しくなりますよ」
「覚悟しております」
まったく、俺の知らないところで話を進めてくれる。
老人らは巧妙過ぎる。
平手の爺さんも元気になったら、こき使ってやる。




