75.平手の死、魯坊丸の恨み節
天文二十二年一月八日
平手政秀が暗殺者に襲われ、生死を彷徨っていた。
眠っている平手政秀の手を取って、信長兄ぃはずっと呼び掛けている。
最悪だ。
織田家の弱点に気付いたのが遅すぎた。
「若様、申し訳ございません」
「千代、気にするな。俺の失策であり、千代の失敗ではない。すでに敵が入り込んでいる可能性を考慮するべきであった」
「あの間者がこちらの動きを探る目的で入っていたのでしょう」
「慶次郎が気付かなければ、もっとも嫌な時期に暗殺されていた。むしろ、最悪を避けられたと考えよう」
「はい。敵の狙いは完全に潰えました。いえ、潰えさせます」
甲賀や伊賀でない、こちらの網に掛からない間者か。
千代女らによる、甲賀衆と伊賀衆の誇りを懸けた鼠狩りがはじまりそうだ。
俺は信長兄ぃを置いて席を立った。
政秀は血が流れ過ぎた。
脈が弱々しく、生きているのが不思議なくらいだと医者が言っている。
今夜が山だそうだ。
玄関を出ると、天空の境界から朱色が薄れ、闇に侵食される逢魔が時を迎えていた。
護衛に失敗した前田慶次郎と滝川資清が俺の後ろを付いてきている。
まずは、那古野で帰蝶義姉上に報告だ。
「朝は天国へ登る思いで山に登り、今は地獄に向かう気分だ」
「すまねぇな」
「申し訳ございません」
「慶次郎、資清、二人はよくやった。特に責める気はない」
「もう一呼吸早く気付いていれば」
「毒を持参しながら、まだ使っていなかった。お前等が気付かなければ、確実に殺されていた」
俺は朝から鉄作りの視察に赴き、山を降りてきたところで信長兄ぃに呼び出された。
那古野でお市が京に連れて行けと直談判したらしく、京への同行を断ったら、お市に嫌われたと信長兄ぃから苦情を言われた。
なんて下らないことで呼び出されたと怒っていた馬鹿なやり取りが夢のようだ。
信長兄ぃの弱点は、外交をすべて平手政秀に頼っていた。
「平手政秀という柱を失ったのは痛いな」
「はい、まだ死んでおりませんが、仮に助かっても一月、二月で回復は見込めん」
「信長兄ぃと斎藤利政殿の会見があり、その後に俺の上洛がある。早急に世代交代を進めねばならない」
「その間は、若様が信長様を支えるしかありません」
「義元め、いらんことをする」
犯人が義元という証拠はないが、得をするのは義元のみだ。
他を疑う材料もない。
「千代、取次の後継者は誰がよいと思う」
「一番は若様しかおられません」
「俺以外だ」
「では、美濃方面は取次代堀田正貞でしょう」
「そうだな」
「古参ですと、林秀貞殿、内藤勝介殿、佐久間信盛殿となります」
「秀貞殿は那古野で睨みを利かせてもらわねばならん。内藤殿に難しい外交は無理だ。信盛殿に至っては論外だ」
「すでに斎藤利政殿の手の平で転がされております。若様が尻拭いをすることになりそうです」
「迷惑な話だ」
佐久間信盛は美濃の使者に俺が選ばれたことに反対し、自ら使者を買って出てくれた。
俺を取次役にしたい平手と対立した。
そこで信盛に一度失敗させ、俺を正式に表舞台へ引き出そうと画策した。
信盛が外交に成功すれば、俺のデビューが遠のく。
俺は美濃に派遣した伊賀者に支援を命じ、信盛を脇から支えさせたが、信盛が阿呆過ぎた。
警告を聞き入れず、百戦錬磨の蝮殿(斎藤利政)に骨抜きにされた。
尾張と美濃を結ぶ河川整備を引き受けたと聞いている。
湊の整備費を織田家のみで負担できるか。
信盛が帰国すれば、信長兄ぃに叱られるだろう。
政秀が尻拭きをする予定だったが、俺にお鉢が回ってきそうだ。
「次に候補ですが、平手様の三男平手汎秀殿、村井貞勝殿、丹羽長秀殿、島田秀満殿、織田重政殿、塙直政殿、青山吉次殿となります」
「臨時の取次を任せられるか」
「皆若く、実績がございません。一先ずは、織田秀敏様、牧長義様、林通忠殿にやって貰うのが最善かと」
「そうなるな」
織田秀敏は祖父信定の兄に当たり、俺の大叔父となる。
織田弾正忠家の長老だ。
長く岩倉に居を構えていたので、織田伊勢守家に睨みが利く。
近場の外交を頼むことにしよう。
牧長義は、尾張守護斯波義統の弟の息子であり、立派な斯波分家となる。
親父(信秀)も丁寧に扱った。
家格が高いので取次役に問題ない。
林通忠は秀貞の叔父であり、秀貞の推薦で俺の上洛に随行することが決まっている。
「京の臨時の取次は林通忠殿にするか」
「それが宜しいかと」
「なぁ、魯坊丸。臨時と言っても、実際は魯坊丸が仕切るのだろう」
「そうなりますね」
「元服もしていないのにできるのか」
「慶次郎、若様は従五位下典薬頭を頂きます。以降、帝に拝謁できる者は、信長様、信勝様、若様の三人のみです。官位を頂いた後ならば問題なく、取次役になれます」
「なるほどね」
「俺はなりたくないがな」
「では、他の者に実績を積ませ、引き継がせるしかございません」
千代女の言う通りだ。
これまでの取次は守護である斯波家が取り仕切っていた。
親父の顔は朝廷にも利いたが、織田弾正忠家は奉行に過ぎない。
帝や公方様に面会する予定もなく、平手政秀が一手に引き受けていても問題なかった。
だが、その為に後継者が育っていない。
尾張の守護代となる信長兄ぃの名代は公方様に拝謁する。
さらに公家と酒で取引をしているので、殿上へ上がれる家来も必要だ……顔を繋いで実績を積ませるしかないか。
「魯坊丸が官位か。偉くなるんだな」
「慶次郎、若様に許されているかと言って、外では『様』を付けなさい」
「わかった。魯坊丸様ね」
「若様は従五位下典薬頭を頂きます。帝への拝謁を許される身となれば、織田家の取次役として不足はございません」
「でもよ。魯坊丸様がそんな偉い人のところに行きたいかね」
行きたくない。慶次郎の言う通りだ。
面倒な式典も全部キャンセルして、信長兄ぃに押し付け、俺は城でゴロゴロしていたい。
那古野の手伝いも断りたいくらいだ。
でも、誰も後継が育つのを待ってくれない。
待てよ。
確か……裏技として、公家や幕臣を雇って取次役にする手があった筈だ。
「千代、財政が困窮する公家と幕臣を調べておけ」
「どうされるのですか」
「俺の家臣として召し抱え、京での取次役を任せる。忠誠心は期待していない。首根っこを押さえられる者ならば、誰でもよい」
「間諜として利用されるのですね。承知しました。調べさせておきます」
在京する者を雇い、織田家の取次役にする。
その取次役に平手汎秀らをセットにして配置すれば、俺が京へ上洛する回数を減らせる。
那古野に戻ると、林秀貞が出迎えてくれ、帰蝶義姉上の部屋に通された。
秀貞が俺に状況を聞いてきたが、他に聞かれたくないので首を横に振るに留めた。
部屋に入ると、帰蝶義姉上が「人払いは済ませております」と言った。
秀貞も俺の横に付き、俺が座るのを待つと、帰蝶義姉上は間髪を入れずに聞いてきた。
「魯坊丸、どうかお答え下さい。平手様は助かったのでしょうか」
「一命を取り留めたが、まだ予断を許しません」
「そうですか」
「魯坊丸様。政秀は一先ず助かったということですな」
「はい、助かりました。が、今夜が山となりましょう」
そこから俺がこれまでの経緯を説明し、医者の見立てを言った。
聞き終わった二人の顔は暗かった。
帰蝶義姉上が秀貞に尋ねた。
「もしもの場合、殿は大丈夫でしょうか。平手様は殿の心の支えでした」
「さぁ~、某にはわかりかねます」
「秀貞殿は、私より殿の性格をご存じではないのでしょうか」
「知っておるがゆえに想像が付きません。弔い合戦をすると言い出しても不思議ではない」
「弔いとなると、今川ですか」
「そうなりますな」
今川を攻めるだと……それは止めてくれ。
だが、政秀が亡くなった場合はあり得る。
信長兄ぃの暴走だ。
攻めるのが鳴海城ならよいが、三河まで侵攻し、今川の本隊を誘い出すとなると大事になる。
そんな面倒なことをして貰いたくないが、信長兄ぃならやりかねない。
考えろ。
信長兄ぃも納得するような手を考えるんだ。
「尾張内で今川に与する者を一斉に摘発し、処断するくらいで収められませんか」
「殿がそれで納得するでしょうか?」
「どうであろうな?」
駄目らしい。
「ならば、平手殿を狙った今川の間者を根絶やしにするのはどうでしょうか」
「それは良いかも知れません」
「今川義元殿の目と耳を奪うのですな」
「はい」
二人が頷いたので、俺は千代女の方へ顔を向けた。
「千代、できるか」
「はい、可能です。但し、遠江東部、駿河への奇襲は考え直して下さい」
「難しいか」
「伊賀の藤林家も手練れを配置しており、こちらの犠牲も大きくなります」
「藤林か」
「特に、手力の小猿、栢ノ木の孫太夫、鍵屋の勘兵衛、墓守の伝七は強敵と聞いております」
「異名付きか」
藤林長門守は伊賀北部を抑える棟梁の一人であり、今川義元に仕えている。
しかし、仕えているのは藤林長門守のみだ。
その配下に、藤林四天王のような強敵が控えているのか。
深入りすれば、こちらも手痛い反撃を受ける。
「若様、南伊勢にある今川の拠点を殲滅するのはどうでしょうか」
「伊勢にも今川の拠点があるのか」
「今川は織田家より先に南伊勢を抑える気かも知れません」
「なるほど、悪くないな」
俺が千代女の話に頷くと、帰蝶義姉上と秀貞が首を傾げた。
「魯坊丸、今川が尾張より先に伊勢を狙うのですか」
「南伊勢の争いに介入し、今川の影響力を南伊勢まで広げ、伊勢湾を封鎖する気なのです」
「魯坊丸様。南伊勢はそれほど重要なのですか」
「今の織田家は海を止められると干上がります。堺から川を上って、京や大和に荷を運んでいます。また、堺は西国へ運ぶ拠点となっています」
「酒のことですな。しかし、酒は陸路でも運んでおったのでは」
「運べる量がまったく違います。陸路は朝廷へ献上する御神酒のみです。一般の酒を陸路で運ぶと高く付きます」
「なるほど」
「さらに言えば、琉球交易の富も海から入ってきます。海を抑えられると、熱田と津島が干上がってしまうでしょう」
「干上がるのか。熱田と津島が……」
「南伊勢を取られる訳にゆきません」
俺も南伊勢の動乱に影から介入している。
今川の思惑通りにさせる気はない。
先日、伊勢国司北畠晴具の嫡男具教と好を結べたのがデカい。
否、織田家と今川家の双方から懐に手が伸びてきたので確かめにきたのか。
「北畠家が織田家との同盟を望んでおります」
「そうなのですか」
「誠か」
「こちらから使者を送れば、容易にまとめることができるでしょう」
「殿に提案しておきます」
「お願いします」
「六角家から話が来ておる。すべてと結べば、強固な同盟関係が築ける」
南伊勢を取られる訳に行かない。
今川の間者は排除だ。
「では、平手様が亡くなった場合は、今川義元の目と耳を奪うということで話を進めたいと思います」
「承知しました」
「信長様への説得は某が致しましょう」
「お願いします」
義元がこちらの弱点を突くなら、こちらも義元の弱点を突く。
だが、義元は忍びを道具のように扱う。
道具に被害が出ても義元は怒ることはないが、道具の方はどうだろうな。
自分は道具と割り切るだろうか?
そんな訳がない。
優勢の間は従っていても、一度劣勢になれば、すべてがひっくり返る。
その一手だ。
いいか、義元。
平手政秀は信長兄ぃの弱点ではあるが、俺の弱点じゃない。
俺の隠れ蓑だ。
ゴロゴロして引き籠もりたい俺を忙しくしたことを後悔させてやる。
「魯坊丸、悪い顔をしていますよ」
「頼もしいではありませんか」
「そうでしょうか」
「流石、平手政秀だ。立派な後継者を残してくれた」
好きに言っていろ。
まぁ、平手の爺さんが助かっても仕返しだけはきっちりとするけどね。




