閑話(75).京に行くのじゃ
天文二十二年一月八日夕方。
楽しい凧上げが終わり、夕餉を頂いてから末森城へ帰城する。
魯坊丸兄様が那古野に登城するのは十六日と聞いている。
いつもの月なら七日頃から登城して、那古野の手伝いをしているが、十五日まで信長兄上も訪ねてくる方々の正月挨拶を受けねばならない。
忙し過ぎて、魯坊丸兄様の相手もできない。
それは末森の信勝兄上も同じであり、私達も十五日までは習い事が中止されている。
そのお陰で毎日のように中根南城に通えていた。
三十郎兄上など帰るのも面倒と言って、中根南城の子供部屋に泊まり込んでいる。
私もそうしたいが、お市姉上が通いなので合わせた。
土田御前様が何日も泊まることをお許しにならないからだ。
今朝は、おねしょ騒ぎで閉じ籠もったお市姉上を連れ出すのに大変だった。
でも、今はお市姉上も上機嫌だ。
「お栄、凧上げは楽しかったのう」
「はい、またやりたいです」
「一番高く飛ばしたのはわらわなのじゃ」
「三十郎兄上も高くまで上げていたので、私には判断がつきません」
「わらわの方が高かったのじゃ」
「そうかも知れません」
「またやりたいのじゃ」
「でも、警護の方が大変なのでいつでもはできません」
「特訓じゃ。末森の鍛錬場ほどの広さがあれば、特訓できるのではないかや」
「そうですね。お許しが出るかどうか……」
そう言いながら言葉を濁した。
紅葉さんから聞いた話では、凧は遠くの味方に合図を送る為に上げられる。
末森で凧が上がれば、何事かと周辺の家臣達が集まってきそうだ。
騒ぎを起こしたという咎で、私とお市姉上は信勝兄上に呼び出されるかも知れない。
中根では、魯坊丸兄様が配慮を忘れないので問題ない。
でも、末森で凧を上げるのは難しい気がした。
「それよりお市姉上。紅葉さんに聞いたのですが、大きな凧を作り、人を乗せて飛ばす忍術があるそうです」
「なんじゃと」
「敵の頭上から火の玉を落とす忍術だそうです。実際にやった人は知らないそうですが」
「なるほどのぉ。大きな凧を作れば人が乗れるのか」
「空を飛べるかも知れません」
「凄いのじゃ」
「ですが、魯坊丸兄様はすでに空を飛ぶ『飛び魚』(ハンググライダー)を作っておられます」
「そうじゃ、飛び魚に乗らねばならんのじゃ」
お市姉上の興味が凧から『飛び魚』に変わった。
あの飛び魚は魯坊丸兄様が考えた三角の凧に似た乗物だ。
井戸田の渡しの脇に置かれた大きな大弩から発射され、海面に沿って熱田まで飛んでゆく。
上昇気流を掴めば、空まで高く登れるそうだ。
でも、確か……楓さんがこう言った。
「お栄様。決して空高く昇ろうと考えてはいけません。飛び魚はいつ壊れるかわからない危険な乗物なのです」
「危険なのですか」
「さくらの馬鹿など、うっかり空に舞い上がって、海に落ちて死にかけております。若様は竹竿を改良して、壊れない飛び魚を作るおつもりです」
「凄いですね」
「凄くないです。下が見えない滝に落ちるようなものです」
「楓さんは高い所が嫌いなのですか。よく屋根瓦で昼寝をしておられますが」
「高いところは好きです。でも、高いところから飛び降りるのは嫌です。滝つぼに落ち、浮上しようとしても、全然上がれない無力感は最悪です」
「そうなのですか」
「飛び魚も一緒です。高く舞い上がるほど、落ちたときが恐ろしいのです。海に沈むと這い上がろうと思っても、どうにもならなくなります。滝つぼも暗かったですが、海の底はもっと暗いでしょう。這い上がろうとしても沈んでゆくのです」
「怖いですね」
「そう、恐ろしいのです」
楓さんは飛び魚の訓練が嫌いと言い放った。
お市姉上は飛び魚に乗りたいようです。でも、私は絶対にやりたくありません。
私は飛び魚を見るだけで十分です。
魯坊丸兄様はいずれ『飛び魚』に乗せてやると約束していますが、冬は海も冷たいので温かくなる夏頃でしょうか。
お市姉上は楽しそうに何かを想像しています。
ひらりひらりと体を揺らし、空を飛んでいる自分を想像しているのでしょうか。
千雨さんが「お市様、馬の上で暴れるのは危のうございます」と声を掛けます。
馬の上でも逆立ちできるので、お市姉上は落ちる姿が想像できません。
私は馬から落ちないように、鞍の前にある突起をしっかりと握り締めています。
山崎川に架かる落合橋を渡り、山崎川を右手に眺めながら馬を歩かせます。
ときどき川名から海岸まで荷を運ぶ舟とすれ違います。
「お栄、さっきから何を見ているのじゃ」
「舟を眺めておりました」
「舟か」
「川名まで舟で荷を運び、そこから末森まで馬で運んでおります。その帰りの舟ですね」
「お栄は物知りなのじゃ」
「落合橋の近くにある田辺湊で荷を積み変えるのです」
「何故なのじゃ」
「山崎川は大きな舟が遡れません。ですから、荷を大きな舟から小さな舟に積み変えるのです」
「なるほどのぉ」
「荷は、遠く堺や博多、琉球から送られてきます」
「そうなのか」
「遠い場所です。凄いですね」
「遠い場所かや……そうじゃ、わらわも遠い場所の京の都に行くのじゃ」
京の都……そう言えば、魯坊丸兄様は京に上洛すると聞いていました。
お市姉上は魯坊丸兄様と平手殿から駄目と言われたような。
でも、お市姉上は京に行くつもりです。
「お市姉上、連れて行って貰えるのですか」
「よく考えれば、誰かに頼む必要などないのじゃ。魯兄じゃも言っておった。津島から舟で遡り、そこから美濃路を進み、淡海の海を舟で渡れば、楽に京に行けるのじゃ」
「確かに、魯坊丸兄様からそう聞きましたが、勝手に行けば叱られます」
「叱られるのか」
「叱られます。絶対に駄目です」
「お栄は反対なのかや」
「魯坊丸兄様が駄目というなら駄目です。危険なのです。私も反対します」
「なら、どうすれば良いのじゃ」
「う~~~ん、そうですね。信勝兄上の許可を貰うか……」
「無理じゃ。頭の固い信勝兄じゃに頼んでも、絶対に反対されるだけなのじゃ」
「では、信長兄上はどうでしょうか。許可が頂ければ、それ相応の護衛を付けて貰えると思います」
「おぉ、それは名案なのじゃ。信兄じゃはわらわに甘々なのじゃ。絶対に許可が貰えるのじゃ。流石、お栄なのじゃ」
「信長兄上が駄目なら諦めて下さいね」
「それは嫌じゃ。わらわは絶対に京に行くのじゃ」
お市姉上の決意は固いようだ。
無理に京に上がろうとすれば、護衛の千雨らが止めてくれるでしょう。
私はお市姉上の行動力を甘く見ていました。




