73.衣食足りて礼節を知る
天文二十二年一月六日。
十二月の決算書の確認が午前で終わった。
忙しい最中、十一月と十二月に来年の年間計画を立て、決算見込みを終えているからだ。
年末は予定通りに進んだので、修正すべき所がほとんどない。
「終わったのじゃ」
「お市様、ご苦労様です。では、預からせて頂きます」
「はやく検算を行うのじゃ。それが最後なのじゃ」
「しばらくお待ち下さい」
俺の個人金庫と熱田酒造、津島酒造、中根薬家、中根織物、中根穀物、熱田木工、水飴屋、屋台屋、さくら窯、金山鉄鋼、荒尾造船、中根学校、神社・寺小屋の決算書がズラリと並び、その最後一枚の検算を終えたお市が文官に書類を渡し、再検算をお願いする。
これで問題なければ、十二月の決算は終わりだ。
俺の方も見るべき書類はほとんど終わった。
暇なお栄がすべて決算書を見直し、指を折りながら『そら算』をして呟いた。
「兄様は凄いですね」
「何が凄いのだ」
「兄様が個人的な事業だけ数万貫文も利益を上げております」
「赤字部門が大きいので一文も残っておらんぞ」
「はい、そのようです。ですが、すべての卸が熱田屋になっております。熱田屋は兄様のお爺様が取り仕切っており、兄様の店と言っても過言でありません」
「どうかな」
「そう考えると、兄様の利益は倍。いいえ、熱田屋は京や堺、大湊、神奈川湊、博多まで手を伸ばしております。そう言えば、熱田屋は銅山にも手を出しています」
「お栄……」
「熱田屋から熱田商人、津島商人に売られた酒だけでも、売上は十数万貫文、それを京などに持って行けば、三十万貫文、それ以上かも」
「お栄、それ以上はしゃべるな。それは他言無用だ。誰に聞かれても話すな。後ろの侍女らもだ」
お栄が鋭いことを言っていたので、俺は付き添いの侍女らにも釘を刺した。
その瞬間、和気藹々と楽しげにおしゃべりしていたお市とお栄の侍女らの首筋にクナイがキラリと光った。
友達のように接していた俺の護衛侍女が、突然に豹変して牙を剥く。
真っ青になった侍女が平伏した。
お市が「おぉ」と声を上げ、お栄が手で口元を押さえて驚きを隠した。
里と里の侍女が平然としているのは教育の差だろうか。
お栄も察したようで話題を変えてきた。
「兄様、兄様は子供部屋に多くの写本を保存しておりますが、どれが一番なのでしょうか」
「特に一番はない」
「では、『四書五経』と『武経七書』『十八史略』などのいずれに重きを置きますか」
「大した差はない。敢えていうならば、『管子』を重視する」
「管子でございますか」
「別に『衣食足りて礼節を知る』とか思っておらんが、衣・食・住が整わなければ、何も始まらんとも思っておる」
「衣・食・住」
「特に『住』には、土地を守るという意味が込められている。家を持ち、周囲に田畑を耕して、荒らされて意味がないからな」
「なるほど」
「国を富ますのは経済であり、物の価値を示す軽重が書かれている」
「武力より経済を重んじるのですね」
「腹が減っては戦はできぬ。武器なしでは戦うのも難しい。だが、銭が稼げば、どちらも揃えられる」
「銭が一番ですか」
「別にそう言っている訳ではない。例えば、甲斐という国は貧しい」
「甲斐は貧しいのですか」
「川が毎年のように氾濫して、田畑が思うように作れず、凶作が続き、人が飢えて死ぬ土地だ」
「嫁ぎたくない国です」
「ゆえに銭を稼ぐ方法が少ない。土地が貧しいから、他国から奪わねば生きられない。それほど厳しい国だった。そんな甲斐の者を周辺の国々も恐れた。強国に変えたのが、武田晴信(後の信玄)だ」
「武田晴信、甲斐の国主ですね」
「まず、周囲の者を襲って領地を広げ、米を手に入れるところから始めた。今は金山を開発し、河川工事をはじめ、治水に手を付けている」
「治水は織田家と同じです」
「織田家は海があり、湊があった。戦の合間に銭を稼ぎ、戦の準備ができた。運がよかったと思う」
「運でございますか」
「運だ。運が悪ければどうしようもない。運のない晴信は武力で運を広げた。巡ってきた運を生かすも殺すも器量次第だ。だから、学べ。巡ってきた運を生かせる知識を身に付けておけ」
「はい」
お栄は俺が思っていた以上に賢い妹らしい。
表帳簿の決算だけで、熱田屋の裏帳簿を推測してくるとは思わなかった。
熱田屋から出された但馬の銅山から上がる上納金から、熱田屋が但馬の銅山に出資していると想像を膨らませ、俺が積極的に銅山に関与していると考えているな。
冷や汗ものだ。末恐ろしい。
熱田屋と同じような商家を他国にいくつも持っていることを教え、三角交易の差配を任せれば、どんな結果を呼び込むか……駄目だ。駄目だ。
お栄にそれを任せると、お栄を他国に嫁がせられなくなる。
信長兄ぃや信勝兄上が嫁ぎ先を見つけても、断固として反対して家臣に嫁がせるしか道がなくなる。
才能を伸ばしてやりたいが、俺の手伝いはさせられない。
俺がじっとお栄を見ていると、お市が焼き餅を焼いた。
「お栄ばかりと話して狡いのじゃ。わらわともお話するのじゃ」
「そうだな。食事を取ってから『凧上げ』に行くか」
「おぉ、『凧上げ』なのじゃ」
「お市、それでよいか」
「凧上げなのじゃ」
「お市ちゃん、まず筆を片付けなきゃ」
「そうじゃ、お片付けなのじゃ」
忙しなく食事が運ばれ、たわいのない話をしながら食事を終えた。
本館を跨ぎ、渡り廊下を渡って東の子供部屋へ移動する。
子供部屋に入ると、騒がしい声が聞こえた。
大広間で相撲とは……外でやれよ。
「外は寒いだろう。服を着たままでは興がない」
三十郎兄ぃがそれらしい言い訳をするが、この子供部屋は俺の屋敷だ。
俺が畳や破損した障子を請求するというと、三十郎兄ぃの傅役塙小七郎が慌てた。
信長兄ぃに仕える塙直正の弟であり、武芸も達者らしい。
「お待ち下さい。魯坊丸様」
「なんだ」
「三十郎様は新しい刀を購入し、来月分の小遣いを前借りした状態でございます」
「俺が知るか。信勝兄上に請求書を送れば払ってくれるだろう」
「お待ち下さい。我らが叱られてしまいます。どうか、ご容赦を」
「請求は三ヵ月後にしてやる。倹約して残しておけよ」
「ありがとうございます」
「それと相撲を取りたいなら、外でやらせろ」
はぁっと側近らが頭を下げた。
三十郎兄ぃの側近らも大変だ。
そのやり取りを見ている三十郎兄ぃは平気な顔をしている。
「で、何の用だ」
「俺の屋敷にくるのに理由がいりますか」
「凧上げをするのじゃ」
お市が元気に声を上げた。
「凧上げか。ここでも凧上げができない訳ではないが、皆で上げるにはちと狭い。外で上げるというと、護衛が手配できぬから止めてくれと言われているのよ」
「そりゃ、そうでしょう」
「魯坊丸が出るなら、護衛は手配できるのだな」
「中根の甲賀衆に周辺を守らせます」
「大袈裟なことだな」
全然、大袈裟ではない。
凧上げは子供の遊びだが、周辺で凧上げを楽しむ子供はどこにもいない。
二、三年後は熱田中の子供らが凧上げを楽しみそうだが、今ではない。
「三十郎兄ぃ。この『凧上げ』は忍びが遠くの味方と連絡するために使う手段なのです。凧を上げれば、隣の山口勢は何があったのかと兵を寄こす危険もあるのです」
「本当か。俺を騙していないな」
「騙しておりません。実際、敵方がどう動くのかが推測できませんから、警備が手配できないと凧上げを実施できないのです」
「凧を上げても問題ないのか」
「実際、何度か試しに上げております。しかし、一斉にたくさんの凧が上がれば、敵方はどう思うでしょうね」
俺は意地悪そうな顔をして、山口教継が慌てる様を思い浮かべた。
くくく、笑いを堪える。
「悪い顔をしておるのぉ」
「慌てて調べると、“子供の遊び”と知って慌てる顔を思い浮かべました」
「敵を慌てさせて面白がるか」
「いいえ、誰が凧を一番高く上げるかを見て楽しむつもりです」
「よし、勝負だ。どちらが高く上げるかを競おう」
「俺は別に……」
「わらわも参戦するのじゃ」
「私も参戦します」
「あたしも」
他の兄妹も参戦を表明し、俄に盛り上がってきた。
そこに侍女の百合がやってきた。
「若様、平手政秀様が火急の用事でお越しになっております」
「平手様が」
「魯兄じゃ」
「すまん。少し用ができた」
俺は渡り廊下を戻って本館へ向かう。
その途中で百合に聞いた。
「話の内容はわかるか」
「熱田の紅葉より走り書きを預かっております」
「して」
「昨日、平手様は熱田神宮にお参りになり、千秋様と雑談されました。そこで上洛の準備を尋ねられました」
「特に問題ないな」
「千秋様もそう答えましたが、平手様が武家作法を誰が指導しているかとお尋ねになりました」
「武家作法?」
俺も完全に忘れていた。
京から来る方を出迎えていたので、作法を知っているつもりだった。
「千秋様は当然ですが答えられません。平手様は京の伊勢流を披露し、千秋様がご存じなかったことに首を横に振られたそうです」
「ちょっと待て。京と尾張では、作法がそんなに違うのか」
「違います。私が知っている作法は少しだけです。お教えできるほど知っておりません」
「千代は」
「同じだと思います」
「紅葉は」
知識量で一番は紅葉だ。
百合が首を振った。
紅葉は昼前に平手政秀の先触れが来たので、内容を確認するために熱田神宮へ向かった。
平手政秀が昨日、熱田神宮に参ったことを知っていたからだ。
何もわからないまま、平手政秀との会見に臨むのを避けたかったのだろう。
紅葉らしい気遣いだ。
走り書きを預け、武家作法、公家作法ができる人物を探しているそうだ。
紅葉の走り書きと、平手政秀の到着がほぼ同時だった。
「平手様は非常識です」
「信長兄ぃを傾き者にした張本人だからな」
「那古野で迎える来訪者が中止になったようで、急遽、こちらに来ることにしたようです」
「忙しい方だからな」
紅葉は武家作法、公家作法ができる人物を探している。
だが、信光叔父上とその側近、あとは斯波家の家臣くらいだろう。
こちらから足を運ぶのも、来て貰うのも難しい。
知らずに京に上がる手もある。
無知は恥ではない。
上洛してから学ぶという手もあるが、さっと行って、さっと帰ることができなくなる。
俺も危ない京に長居はしたくない。
それは平手政秀も同じだろう。
ぬかった。
完全に作法のことを忘れていた。
衣食足りて礼節を知る――などと偉そうに語っておいて、その礼節を俺自身が忘れていたとは。
教えて貰うしかないか。
俺が平手政秀から作法を学ぶことに集中すると、お市と三十郎兄ぃが待ちわびていることを忘れていた。




