72.仕事はじめ
天文二十二年一月五日。
ゆさゆさ、ゆさゆさ、ゆさゆさ、何度か体を揺すぶられ、瞼がわずかに覚醒してきた。
耳に優しく囁く声が聞こえた。
「若様、朝でございます」
「朝でございます。起きて下さい」
「若様」
その声に子守唄のように安らぎを覚え、もう一度深い眠りに入りたい。
俺は「あと少し」と呟きながら、ゆっくりと体が沈んでゆく浮遊感を楽しんだ。
だが、次の瞬間。
首元に冷たいものを感じ、体がぶるぶるっと震え上がって目が覚めた。
ふふふ、その笑い声で起こしている者が知れた。
「千代女か」
「若様、ぐっすり眠られるのはよろしいのですが、私が刺客でしたら、気付かぬ内に死んでおります」
「千代女らを信じておる」
「ありがとうございます。ですが、もう少し警戒心を磨いて下さい」
千代女が濡れたタオルを首元から放した。
本来、俺を起こすのは、寝ずの番をするさくら、楓、紅葉の三人が交替で行っている。
彼女が起こしにくるのは、仕事始めなどの節目だけだ。
「楓、準備を」
千代女の命令に楓が「はい」と答えると、侍女らが起き上がった俺を着替えさせてくれた。
着替えさせながら楓が今日の予定を教えてくれる。
「若様。本日から朝の調練が再開されます」
「今日からか」
「弛んでいる気持ちを引き締める意味もあり、加藤様が率いる愚連隊の三人と甲賀衆の十人が、相手をしてくれるそうです」
うげぇ、加藤か。ありがた迷惑でしかない。
手加減こそしてくれるが、加藤は本気で俺を殺しにくる。
一瞬の油断が大怪我だ。
新年もハードな調練からはじまるのか。
ぐったりへにょんだ。
「楓、正月ボケでしくじるなよ」
「私は十分な休養を取りましたから大丈夫ですよ。それよりさくらが餅を食べ過ぎで動きが鈍っているかも知れません」
「止めてくれ。ありそうで怖い」
「調練のあとに食事となり、仕事はじめとなります。内容は主に十二月の決算を見て頂きます」
「それは一日か二日で終わるな」
「はい、その程度です。今のところ、他国に動きはございません」
「畿内は」
「紅葉が後で報告致します」
「畿内はあまり良くないか」
「紅葉の表情からですが、そんな気がします」
だろうな。
去年の秋頃から、公方様と三好長慶の関係は悪化し続けている。
改善する理由がない。
今朝の調練は中庭ではなく、加藤の希望で子供部屋がある広場で行われた。
広場に遮蔽物を置き、俺を連れた一行が端から端まで移動する。
最後まで護衛できれば、それで終わりとなる。
これまで何百回とやってきた訓練だ。
今回参加する愚連隊の二人は凄腕の忍びだが……大丈夫だろうか。
いいや、大丈夫だ。
千代女が指揮すれば、すぐに終わる。
まだ日は昇っておらず、四方に置かれた篝火の灯りのみを頼りに、調練がはじまった。
何見姉さんと乙子姉さんを外した二十四人の護衛侍女を千代女が率いて、俺を護衛する。
すぐに先鋒の甲賀衆三人が右の遮蔽物から飛び出してきた。
「さくら、制圧」
「はい」
「楓」
「左ですね」
「紅葉、気配を消してくる。気を付けよ」
「はい」
俺の後ろで紅葉が返事をした。
護衛侍女二十四人は三組に分けられ、さくら、楓、紅葉の三人が率いるが、今回は千代女の指揮下で動いていた。
加藤は当然として、愚連隊の二人も千代女を上回る実力を持ち、甲賀衆十人も強者揃いだ。
護衛侍女の数が倍でも油断はできない。
広場の半ばを過ぎたところで、甲賀衆三人を退場させた。
戦闘範囲も広がって、乱戦気味になってきたところで愚連隊の登場だった。
六人掛かりでも二人を止められない。
千代女が参戦して戦線を維持し、その間に俺は前へ進んだ。
護衛に入ったさくらが周囲の警戒を密にする。
周囲を巡る楓のハンドサインで『要警戒』と送ってきた。
加藤の位置がわからないのだ。
加藤はどこだ?
後ろの紅葉が激しく首を振って警戒を増したが……予想外のことが起こった。
突然、足元が噴き上がり、白い一閃が俺の顔を吹き飛ばした。
バシッ!!
気持ちよいほどの大きな音が顔面を捉え、その勢いで俺は吹き飛ばされた。
『土塊の術』
黒装束の加藤が小さく呟いた。
俺を殴ったのは『大阪名物ハリセン』だ。
痛くないはずのハリセンが滅茶苦茶に痛く、鼻から赤いものが落ちていた。
俺が討たれ、皆の動きが止まった。
「千代女、魯坊丸は死んでいたぞ。油断し過ぎだ」
「申し訳ございません」
「闇夜ならば、足元を疎かにするな」
それから広場の端に戻り、護衛任務の模擬戦は最初から再開された。
バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ!!
容赦ない加藤の猛攻がはじまった。
加藤のハリセンが護衛侍女を叩き付け、容赦ない退場劇がはじまった。
ハリセンで殴られた護衛侍女は死亡認定される。
鬼に金棒、加藤のハリセン。
「誰だ。ハリセンなんて作った奴は、俺だ」
刀を武器にすると、殺してしまうので加藤も遠慮していた。
ハリセンなら遠慮がいらない。
愚連隊の二人もハリセンを持ち出すと、もう手が付けられない。
圧倒的な実力さ。
俺も八回も殺され、一度も護衛を完遂させてくれなかった。
彼女らの心を折りにきたのだろう。
ハリセンで怪我をする者はいないが、彼女らの心の中はズタボロだ。
これまでの実績や、生き残ってきた自信を打ち砕いた。
「よいか、一人だけ抜けている者がいても、複数の実力者が襲ってくれば、どうなるかわかったであろう」
日が昇ってきたので、調練は終了した。
気が付けば、子供部屋の雨戸が開かれ、三十郎兄ぃらが観戦していた。
加藤が三十郎兄ぃに声を掛けた。
「三十郎様。おはようございます」
「加藤であったな。よい戦いを見せてもらった」
「あははは、大したことはございません。どうですか、三十郎様も調練に参加しませんか」
「其方が強いことは承知しておる」
「傅役様、護衛の方々も鍛えておく方がよろしいですぞ」
「確かに」
「そうですな。もしも誰か一人でも最後まで護衛の任務を完遂できた場合、某が持つ末関(美濃国関)は、『孫六兼元』の一刀を差し上げましょう。もちろん、お相手するのは我ら三人のみです」
「誠か」
「嘘を言ってどうします」
「やるぞ。九郎、喜蔵、彦七郎も手伝え。休む間を与えずに疲れさせるのだ」
三十郎兄ぃの策は悪くない。
それぞれの護衛を次々に当てて、三人を疲れさせようというのだろう。
だが、加藤ら三人はただ者ではない。
孫六兼元という餌を見せて、護衛側を挑ませるが、餌を渡す気などありもしない。
まさに見せ餌だ。
俺は三十郎兄ぃに挨拶だけを済ませると部屋に戻った。
「おはようなのじゃ」
俺が食事を終えた頃、元気な声でお市がやってきた。
後ろからお栄と里も部屋に入ってきた。
那古野や末森ほど家格が高くなると、正月の訪問者も多くて忙しい。元旦から三日までは近隣の家臣たち、それ以降は遠方の家臣や従っている国人衆がやってくる。
他国の使者という場合もある。
大体、十五日頃まで正月参賀が続くのだ。
子供の習い事や訓練なども中止され、三十郎兄ぃらは忙しない末森を避けて、のんびりできる中根南城の子供部屋で泊まると決めた。
三日に一度は通ってくるから、遠慮がなくなっている。
軒下を貸して母屋を乗っ取られた気分だが、喧嘩するより恩を売っておくことにした。
俺は敵が多いから餌付けできるならやっておく。
一方、お市とお栄はお泊まりを禁止されており、末森から通うしかなかった。
「今日から仕事はじめだ。遊ぶ暇はないぞ」
「お手伝いするのじゃ」
「お兄様、何か手伝えることがございますか」
「里も手伝う」
「では、この書類のツルカメ算をやってくれ」
「任せるのじゃ」
「今日は無理だが、明日の午前で終わったら、昼から凧揚げでもするか」
「凧揚げをするのじゃ」
「正月前に造った奴ですね」
「やりたいです」
「では、頑張ってくれ」
お市らは侍女の部屋にある机を借りて決算書類の検算をはじめた。
俺は決算から確認する。
また、一年がはじまったとしみじみに思った。




