67. 蝮土の蔵開き〔硝石を作ろう〕
天文二十一年十二月十六日。
うぎゃ~っと、先頭にいたお市が短い悲鳴を挙げるとギャグ漫画の主人公のように横転した。
「グワァ、目が焼ける。喉が裂けそうなのじゃ。わやわはもう駄目じゃ」
お市は顔に手を当て、体を前後左右にうねうねジタバタさせて激しく悶えている。
もう駄目とか騒いでいるが、逆に大丈夫そうに見える。
心配なのはお栄である。
突っ込んだお市を止めようとしていたお栄もアンモニアガスを吸い込んで、喉の奥や肺がチクチクと焼ける激しい痛みから、膝を折って涙をボロボロと流しながら動けず、呼吸も苦しそうにしている。
俺の指示を守って後ろに留まっていた里は無事……と思っていたが、拡散したアンモニアガスを吸い込んでしまったらしい。
うぅぅ、喉を押さえて苦しみ出すと跪いて激しい嘔吐に見舞われた。
六人の生徒も次々と膝をつき、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。
どうしてこうなった?
師走はとても忙しい。
だが、十五日の前と後ろでは忙しさの意味が違った。
京の御所にたくさんの清酒を送ろうと思えば、最低でも半月掛かり、準備などに数ヶ月を要する。師走の前半は無事に発送を終えた報告や、来年の指示書や挨拶状で忙しかった。
十五日を過ぎると事務仕事はほとんど終わり、正月を迎える準備がはじまる。
皆の忙しさは変わらないが、俺はかなり手が空く。
手伝ってくれたお市らのお礼を兼ねて、“蝮土”の集積所へ、視察を兼ねたお出掛けに誘った。
今回の目玉は、織田弾正忠家の“秘中の秘である蝮土”と説明した。
お出掛けに誘ったとき、俺は以前に一緒にやった『窒素肥料からアンモニアを取り出す』理科の実験の例を出し、アンモニアガスの危険性をもう一度説明した。
一つ、むやみに近づかない。
二つ、口元に手ぬぐいを巻いておく。
三つ、注意を怠らず、目を離さない。
出発前にも注意した。
目的地は徒歩で三十分、長根村の東、八事の手前の表山の麓である。
天白川の河川工事を終えると、沼地を埋めて新田開発を進め、山沿いに沿って走っていた旧平針街道を廃して、まっすぐな平針街道を作り直した。
俺達は“肥溜め”を運ぶ荷馬車しか通らなくなった旧平針街道を歩いた。
「魯兄じゃとお出掛けは久しぶりなのじゃ」
「本当ですね。お出掛けは夏以来です」
「奉納試合を一緒に観戦しただろう」
「あれは現地で合流しました。一緒に観戦しただけです。帰りも別々でした」
「確かに……あれはお出掛けに入らないのか」
「兄上、今日は何を見学するのですか」
「秘中の秘と教えたはずだ」
「もちろん、蝮土ですよね?」
お市が「栗鼠なのじゃ」と走り出した。
うるさい侍女は城で待機を命じており、走り回るお市を叱る者はいない。
俺は一人残ったお市の侍女を見て呟いた。
「千雨はお市を止められないのか?」
「ふふふ、兄上様。千雨には無理ですよ。お市姉上は友達としか見ておりません」
「伊賀の忍び、護衛侍女で実力はお市より上のはずだぞ」
「気の弱い千雨が、お市姉上を叱るなどできません」
「そうか」
他の侍女らにも声が掛けたが、春の“蝮土の見学会”であまりの悪臭に卒倒者が続出した。
その記憶がアリアリと残っていたのか、丁寧に辞退者が続出した。
お栄が俺の手を取ってにっこり笑ってきた。
俺とお栄が話し込んでいると、先頭を走っていたお市が戻ってきた。
「お栄とばかり話すのは狡いのじゃ」
「別に、お栄とばかり話していないぞ」
「わらわとも話すのじゃ」
「あぁ、お市は何か聞きたいことがあるのか」
「この道の先に、魯兄じゃを待つ者がいたのじゃ」
「あぁ、それは一緒に見学する者だ」
中根北城の北側に中根学校が建っており、尾張中から優秀な者が集められ、織田家の最先端の技術と簿記などの技能を学んでいる。
そんな生徒の中でも、忠義心が高く、優秀で誰の息も掛かっていない者は特待生となる。
特待生らこそ、俺専用の右筆候補生であった。
その右筆候補生らを引き連れた鬼教官が待っていた。
「若様、お久しぶりでございます」
「久しぶりだな」
「魯兄じゃ、この者は誰かや」
「元黒鍬衆の十人頭の一人だ。助四郎だ」
「おぉ、黒鍬衆と言えば、最強の強者ではないかや。子供部屋で見かけぬが、一手どうだ」
「お市様の強さは聞いておりますが、今日は見学者を連れておりますので、またの機会にさせて頂きます」
助四郎の後ろに六人の若人がいた。
皆、俺を見ると、目をキラキラと輝かせていた。
あぁ、完全に洗脳されているな。
助四郎から訓示を頼まれたので適当に言ってみた。
「よいか、これから行く場所は、織田家の秘中の秘である。織田家が最強である為の重要な施設だ。其方らにここで見せる意義を考え、これから自らの訓示とせよ」
生徒らが「はい」と、気持ちいいくらいに声を揃えて返事を返してきた。
俺らは蔵群の最奥に入ってゆく。
「お市、手ぬぐいを口元に巻いておけ」
「まだ、大丈夫なのじゃ。なぁ、千雨……」
「はい、お市様」
「どうしてわらわより先に手ぬぐいを巻いているのじゃ」
「魯坊丸様が巻けと言えば、巻くのは当たり前ではありませんか」
「このくらいの悪臭はもう慣れたのじゃ」
「お市様も巻きましょう」
「仕方ないのじゃ」
お市は千雨に言われて、渋々で手ぬぐいを口元に巻いた。
助四郎はドンドンと前に進み、無数の蔵の最奥で立ち止まった。
「よし、皆もこちらに来い」
助四郎が生徒を呼び集めると、何故か、お市らもついて行く。
助四郎が扉の鍵に手を掛けた。
お市が興味深そうに、生徒の合間を抜けて先頭へ踊り出た。
「お市姉上」
「大丈夫じゃ、織田家の最強の秘密なのじゃ。お栄もしっかりと見るのじゃ」
「あまり前に出ては」
「一番先に見るのじゃ」
右筆候補生らは元服を済ませた若人であり、お市らより頭二つ分は背が高い。
お市はスルスルと前に進み、お栄はお市を止めようと続いた。
里は自分より大きな子の合間を抜けるのが怖かったようだ。
俺は“拙い”と思って、お市に声を掛けよと、一歩踏み出した。
千代女の手が俺の肩を押さえ、首を横に振った。
「若様、辛抱です。彼らの洗礼の邪魔となります」
「…………」
「お市様が死ぬ訳ではございません。これも良い教訓となります」
「そうだな」
俺は“ちぃっ”と少し舌を打った。
カチャと音と共に鍵が開き、その錠前を持って助四郎が横に移動する。
作業員が扉の両脇に立って、扉を一気に開いた。
春から秋まで、作業員は蔵を開けて、蔵の換気を行った後に、土を掘り返して酸素を供給する。
しかし、秋の収穫が始まると作業員も村の手伝いに赴き、蔵は閉め切った。
十月の中頃になると“伊吹おろし”が吹き、蔵の温度が下がると“硝化菌”と呼ばれるバクテリアの活動も落ちる。
翌年の田植え(陸田)に間に合うように、十二月中旬から三月下旬まで、“蝮土”は藁詰めされて運び出される。
二ヵ月半も締め切られた蔵には大量のアンモニアガスが充満していた。
扉が開くと、アンモニア臭が一気に吹き出した。
扉から三丈半(10.5m)も離れている俺にも、鼻が曲がるような悪臭と、喉が痛いような感覚が襲われた。
真正面で被ったお市は、目と喉に玉葱の切れ端を直接擦り付けたような痛みが走ったと思う。
想像しただけで痛そうだ。
お市の後ろだったお栄は直接に浴びていないが、回り込んだガスを吸い込んだ。
一番後ろの里は拡散したガスを吸い込んだ。
相変わらずな、酷い臭いだ。
俺は二度も経験しているので問題ないが、お市とお栄が悲惨なことになっている。
心臓が鷲掴みになったように痛かった。
さくらが軽口を叩いた。
「まるで、二年前の若様を見るようです」
「俺はそんな酷くなかったぞ」
「そうでございますか。楓に何度も忠告を受けたのに、扉が開く直前に前に出て、ガスを頭から浴びてのたうち回ったではありませんか」
「あぁ、あったな」
「さくらちゃん、楓ちゃん、懐かしむのは後です。お市様、お栄様、里様を助けに行きます」
「そうだった」
「さくらはお市様、紅葉は里様を、私はお栄様を助ける。千雨と護衛らは後だ」
俺の侍女らが皆の救出に向かった。
助四郎はのたうち回る生徒に「俺は硝酸ができる過程で、“あんもにあがす”が発生すると、授業で教えたぞ。そして、実験室で嗅いでもらった。あの時の注意点を忘れていたか。この愚か者らめ!」と罵倒している。
罵倒しながら、作業員に生徒を水場へ連れて行き、顔を洗わせるよう命じていた。
さくら達が綺麗な水を桶に注ぎ、何度もお市らの目や鼻を念入りに洗っていた。
しかし、何度洗っても取れた気がしないのだ。
自分も経験したので、その痛みが分かる。
全員、顔を洗わせ、少し離れた芝生の上に寝かせた。
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四分の一刻(30分)後、何度目かの水を飲ませると落ち着いてきた。
「酷い目にあったのじゃ」
「だから、扉の前に立つなと忠告したであろう」
「忘れておったのじゃ」
「お栄にも謝っておけ、お市を止めようとして、一緒にアンモニアガスをモロに被ってしまったぞ」
「ごめんなさいなのじゃ」
「私も迂闊だったのです。兄上様が扉の前に立つなと、言われていたのを忘れていました」
「あの生徒はどうしたのじゃ」
「顔を洗った後に、換気を手伝っている。人力の扇風機を回して、蔵の空気を入れ換えてから作業に掛かる」
「すぐに働いて大丈夫なのかや」
「大丈夫かどうか知らんが、鬼教官の助四郎が四分の一刻(30分)も休憩を許さん。辛かった分だけ、心に刻むと考えている奴だからな」
「苛烈なのじゃ」
「俺らも蔵の見学に行くぞ」
お市がはじめて凄く嫌そうな顔をした。
蔵に戻ると、窓をすべて開放し、扉の前で手動式の扇風機を回していた。
俺が戻ってくると助四郎が礼をした。
「妹殿を苦しめてしまい申し訳ございません」
「構わん。どんなことも経験は大切だ」
「わらわもあんな凄い“がす”ははじめてだったのじゃ」
「その危機感を忘れてはなりません。私や作業員が扉から離れたのを見れば、避ける時間はあったと覚えて下さい。」
「そう言われれば、そうじゃたな」
換気が終わると、猫車に土を積んで一番奥の建物に運んでゆく。
浅い浄化槽が階段のように重ね、その槽の上に土を盛ってゆき、最初の三百貫(1,125kg)を積み込む作業が半刻(1時間)で終わった。
助四郎と生徒らが集まってきた。
「若様、ここからは作業員に任せています」
「やってくれ」
「はじめろ」
最上段の桶の栓を取ると、トクトクと水が浄化槽へ流れ込む。
作業員が上段から浄化槽を棒でかき混ぜた。
最上段の底からポタポタと水が落ち出し、次の槽へゆっくりと水が流れ込む。
「魯兄じゃ、あれは何をやっておるのか」
「お市、蝮土の栄養が硝酸と教えたのを覚えているか」
「もちろん、覚えているのじゃ」
「三年寝かした土の中には、硝酸カルシウムが大量に入っており、硝酸カルシウムは水を含むとどうなる。お栄」
「水に溶ける性質があるので溶け出します」
お栄が正解を言い当てた。
二年前は百貫(375kg)の土で三年寝かせて試した。
約5%の硝石が取り出せた。
土100貫(375kg)× 5% = 硝石 5貫(約18.75kg)
俺は続けて里に聞いた。
「里、百貫の土から五貫の硝石が取れた。では、火薬は何キロできる」
「えっと……黒色火薬は、硝石八割、硫黄一割、木炭一割ですから…………六貫六十匁(約23kg)です」
俺が頷くと、後ろの生徒から「おぉぉぉ」というどよめきが起こった。
里が指を架空の算盤を弾いて計算した事を驚いたのか、火薬の配合を驚いたのはわからん。
両方かもしれん。
「お市、硝酸カルシウム水溶液はまだ、硝石になっておらん。どうすれば硝石になるか覚えているか」
「もちろんなのじゃ。わらわは理科の実験は大好きなのじゃ。屑の完全に乾かせ、燃やした白くなった灰を混ぜると、“硝石”(硝酸カリウム)と“ちょーく”(炭酸カルシウム)に分かれたのじゃ」
おぉぉぉ、また生徒が声を上げた。
理科の実験は学校でもやっているから知っているだろう。
だが、感心したのが、まだ幼いお市、お栄、里が自分らと同じくらいの知識を持っていることに驚いていたのだ。
そりゃ、そうだ。
学校の教材を俺が書いているが、それが理解できるかを、右筆見習いとお市らの反応を見て修正している。
教材の内容をお市らが知っていて当然なのだ。
「では、お栄。二十二坪の蔵には三千貫(約11トン)の土がある。この濾過式で採取すると、濃い硝酸カルシウム水溶液が回収できるが、回収率が七割五分(75%)に下がる。何キロの硝石が取れる」
「約四百二十キロです。百貫で鉄砲六千発でしたから、三千貫なら七割五分を見込んでも十三万五千発分(火薬約五二六キロ)になります」
「鉄砲の弾まで計算したのか」
「はい。でも、少し多すぎる気がします」
「お栄は鋭いな。だが、花火を打ち上げるには、まだ足りない」
「花火?」
「……花は土に咲くものでは?」
「だから驚くんだ」
俺は花火の説明をはじめた。
読んで字の如く、空に咲く火の花だ。
火薬を詰めた弾を、特殊な鉄の筒で打ち出す。
「地上から上空に二町(200m)ほど打ち上げる。一発に必要な火薬の量は百八十匁(700g)となる。この一つ蔵から約七百発を作れる」
「兄上様、空に花を咲かせてどうされるのですか」
「数千発の花火が夜空に一斉に咲くのだぞ、それは綺麗で、いつかお前らに見せてやりたい」
「兄上様」
「わらわも見てみたいのじゃ」
「わたしもです」
お市らは素直に喜んでくれた。
親父(信秀)や信光叔父上が賛同してくれればよかったが、戦国時代にそんな遊びを許してくれる訳もなかった。
「我が儘を親父が許してくれる訳がない。だから、花火の中身を少し変える。色の出る土から、鉄菱や陶器の破片に変えるとどうなる」
「どうなるのでしょうか?」
「角度を斜めに変えれば、三町(300m)から四町(400m)先の頭上で爆発させることができる。それを数千発浴びせてやる」
「数千発ですか」
「来年は三つ蔵から取り出せる。しかも那古野の“蝮土”の集積場所には十個の蔵が“特殊な蝮土”仕様だ。さらに、再来年から那古野東の集積所、津島の集積所から採取できる。三年後には圧倒的な火力を保持し、花火を楽しむ余裕もできているだろう」
俺は目を怪しく輝かせた。
俺が「想像してみろ、戦場で敵の頭上で鉄菱の雨が降る様を」と叫んだ。
千代女らは当然の顔で涼やかであり、鬼教官の助四郎だけがニヤニヤとしていた。
…………。
皆がしばらく絶句して、声も出せずに黙り込んだ。
両軍が三町から四町で対峙して睨み合う。
俺が「掛かれ」と叫んだ瞬間、自軍後方の鉄の筒から黒煙を上げ、数千発の火薬弾が敵の頭上に押し寄せて爆発する。
敵陣は壊滅する。
最早、戦なんて言わない。
お市は顔を高揚し、お栄は青ざめ、里は首を捻った。
六人の生徒の反応も様々だが、威力だけ伝わったようだ。
「まぁ、俺は夜空に咲く花火を見ながら、冷たいかき氷を頬張れれば、それだけで幸せだ」
「わらわもそれが最高なのじゃ」
「お市もそう思うか」
素直に喜んでくれたのはお市だけだった。




