59.雪斎の一手
天文二十一年十一月
駿河、今川-義元様の屋敷の北西、賤機山の麓にある臨済寺の主は太原-雪斎様である。
その部屋の襖を開けて、私(伊賀の棟梁藤林-長門守)は雪斎様に参上を告げた。
「長門守、お呼びにより参上致しました」
「入れ」
「はあ」
廊下で一礼して、静かに襖を開けた。
部屋中に高く積まれた書のほとんどは軍略書や軍略図であり、僧とは思えぬ部屋である。
だが、ただの僧ではない。
幼少の義元様の養育係として付き添い、今は懐刀として今川全軍の指揮を預かる。
義元様が誰よりも信用する僧侶である。
この本堂(方丈)内の奥の間が雪斎様の書庫であり、政務室となっていた。
雪斎様の座られている机の前に腰掛けた。
手紙から目を離されると、鋭い眼光で私を見られた。
私はすべてを見通すこの方が恐ろしい。
「で、首尾はどうであった」
「伊賀の里から織田家に間者を送るのは困難という返事が届きました」
「そうか、やはり難しいか」
「申し訳ございません」
伊賀の藤林家が織田弾正忠家に間者を送るのは不可能だ。
織田弾正忠家も警戒している。
しかし、このような時の為に各地に子飼いを抱えており、彼らを送ることは難しくない。
だが、本家は断ってきた。
本家の頭領である私の命令を拒絶した。
由々しき事態であるが、咎めのために伊賀へ戻っている暇もなかった
「新たな報告は入っておらぬか」
「はい、飛鳥井-雅春卿が尾張に入った以上の情報は入っておりません」
「飛鳥井卿は信秀が持っていた“三河守”を信勝に、“尾張守”を信長に、官位を授ける為に尾張に入った。ここまではわかる。だが、魯坊丸に典薬頭は意味がわからん」
「義元様は“三河守”を奪えなかったことに激怒されております」
「まぁ、そうであろうな」
織田-信秀は西三河を治めたときに、朝廷に願い出て“三河守”を頂いた。
だが、それは昔の話となった。
すでに駿河今川家は三河全域を治めており、“三河守”を持つのに相応しいのは義元様である。
朝廷は今川家の面目より織田家を優先された。
義元様が怒られるのは当然であった。
「魯坊丸に典薬頭か。ここにきて急に勢力を伸ばしたな」
「熱田明神の生まれ変わりと民衆から支持を得ていますが、千秋家の傀儡に過ぎません。しかし、信秀亡きあと、その旗頭に熱田衆が結集し、津島衆が賛同したことで第三の勢力となっております。しかし、信長と対立するほどの力はございません」
「だが、これで一目置かねばならなくなった」
「どちらも守りが固いままです」
「手が出せぬことが厄介だな」
「尾張には、食客三千人が魯坊丸を守っております」
「信秀の置き土産か。『尾張の虎』め、死んでなお忌々しい」
一昨年、私は今川-義元様から魯坊丸の暗殺を命じられた。
熱田が酒を帝に献上して勢いを増してきたので、その代表となった熱田明神の首を狩ってこいと言われたのだ。しかし、甲賀の望月衆の手によって阻まれた。
失敗を報告すると、義元様は魯坊丸に賞金を掛け、賞金稼ぎを利用する一手を打たれた。
これを防ぐことはできないという見事な一手であったが、織田-信秀はそれにも備えていた。
唐〔古代中華〕の宰相だった孟嘗君は食客三千人を側に置いたと伝わる。
その食客三千人を模倣して、魯坊丸の食客を多く招いていた。
その中には、腕自慢の剣士、刺客、泥棒など多岐に渡ったが、その中の手練れが魯坊丸へ向けた刺客を始末していた。
魯坊丸という“蚊遣香”に集まる刺客を狙った『独立愚連隊』と呼ばれる刺客を狙う一団を生み出してしまった。
厄介な連中だ。
信秀が亡くなっても、熱田の西加藤家の客将として居座っていた。
迂闊に手を出せば、こちらの被害が甚大になる。
「信秀が雇った伊賀者は、そのまま各所で召し抱えられました。那古野の信長、末森の信勝、守山の信光、勝幡の信実、熱田の魯坊丸をそれぞれが主を守っており、容易に手出しできません」
「戦のドサクサでなければ、襲えぬか」
「御意」
まったく襲えぬ訳ではない。
連れてきた藤林の忍び三百人が総掛かりで相手をすれば……私の脳裡にそんな誘惑が走る。
だが、どれだけの犠牲を払っても、義元様はおそらく「そうか、よくやった」の一言で終わる。
家臣の犠牲と褒美の割が合わない。
義元様にとって伊賀者は消耗品でしかない。
雪斎様は手を叩くと、「入れ」と命じられた。
反対側の障子が開き、男が入ってきた。
「お初にお目に掛かります。飛騨国司姉小路-済継様のご子息高綱の家臣向牛丸-与十郎と申します」
「藤林-長門守でござる」
服はすり切れ、ボロの姿をしてなお、眼光だけが鋭かった。
私の脳裡に姉小路-済継は飛騨の城を落とされて逃亡したという記憶を拾い出した。
加えて、向牛丸家は飛騨の西忍衆の頭領であり、西忍衆は三木軍に攻められ、村ごと壊滅させられたと風の噂で聞いていたのを思い出した。
滅んだ飛騨の残党か……憐れだな。
「長門守、新たに雇うのではない。そう警戒するな。姉小路家が今川家を頼って来られた。お助けするのは当然ではないか」
「そうでございましたか」
「与十郎殿、同盟の武田家にもこちらから話を付けよう」
同盟国の武田-晴信〔後の信玄〕は信濃まで進出している。
信濃から山を隔てれば、飛騨となる。
武田家の助力を得れば、姉小路家の復興も不可能ではない。
「だが、一つ。こちらの頼みを聞いて貰いたい」
「可能ならば」
「尾張では“馬くらべ”が流行っておる。飛騨や信濃ではよい馬が手に入ると聞く。其方が持つ手練れ数人に、馬を持たせ、平手-政秀、林-秀貞、岡本-定季の三名を葬って頂きたい」
「その三名のみでしょうか」
「もし、織田-信長、織田-信光、織田-魯坊丸の一人でも暗殺に成功すれば、数千貫の援助を保証致しましょう」
雪斎様の合図で金の入った小袋五つが前金として支払われた。
与十郎が気前の良さに驚いた。
その前金だけ貰って、どこかに消えても十分な成果と言える。
だが、その金払いの良さが次の期待を呼ぶ。
成果を上げれば、姉小路家の復興も現実に近づくと……。
憐れな。
これが今川家のやり方なのだ。
「長門守、与十郎殿の家臣を巧く導いて尾張へ入れろ」
「畏まりました。こちらが持つ地形、顔、人脈をお教え致します」
「では、任せた」
雪斎様は恐ろしい方だ。
織田家は人材を欲しており、容易に仕官できる。
だが、伊賀者には厳しい。
最初の振り分けをするのが、織田家が雇った伊賀者であり、伊賀の内情を知る者が多いからだ。
ゆえに、他の国の忍びの方が仕官し易い。
仕官できても信長や魯坊丸に近づくとなると、厳しい目に晒される。
私も近づけば、生きて帰れる保証はない。
そこで雪斎様は、二人を囲む重要人物を狙わうのか。
織田家の知恵袋、平手-政秀。
信秀の右腕だった、林-秀貞。
魯坊丸を操る黒幕、岡本-定季。
狙いが絶妙と思えた。
これは奇襲であり、馬を使って仕官する手は一度しか使えん。
そこに飛騨の生き残りを使うか。
しかも姉小路家に仕えていた者と言えば、信用を得やすい。
調べても裏が取れる。
飛騨の姉小路家に連なる者が刺客とは考えない。
偽りではないゆえ、真実を餌にした策だからこそ、防ぎようがない。
このお方だけは敵に回したくないものだ。




