第4話 天才との生活
アリーがこの地で暮らすようになってから、二年近くの月日が流れていた。
最初に異変らしきものを感じたのは、アリーが言葉を覚え始めた頃だった。
普通の赤ん坊がどのくらいで喋るものなのか、あたしは知らない。だから最初に「アレン」と呼ばれたときも、覚えが早い子だねえ、としか思わなかった。
ところが、一つ言葉を覚えると、次から次へと吸収していく。ギルバートが何気なく口にした単語まで拾い、意味を尋ね、一度説明すれば二度と聞かない。
一歳を過ぎる頃には、ヘレーネと普通に会話をするようになっていた。
一歳半になる頃には、短い足で家中を歩き回り、あたしやギルバートの後を追いかけてくる。
そして二歳になる頃には——絵本では物足りなくなっていた。
「ヘレーネ、その絵本はもう覚えた! 違うのがいい!」
「では、こちらはいかがでしょう?」
「それも覚えた!」
「姫様……。では、何をお読みになりたいのですか?」
「あれ!」
アリーが指差した先にあったのは、分厚い王国史だった。
ヘレーネは最初、「どうせ意味は分からないでしょうけれど、読み聞かせるだけなら」と思って読んでやっていたという。
ところが数日後。
「王国暦二百十四年、第三代国王エドガーは——」
読み聞かせが二周目になり、章の頭を読んだだけで続きをアリーがそらんじたらしい。
最初は偶然だと思ったようだが、次の章でも、その次の章でも同じだった。年号も、人名も、戦争の名称も、条約の内容まで間違えない。試しにわざと一文飛ばして読めば、「そこ、抜けてるよ?」と指摘されたという。
そこでようやく、ヘレーネは自分がとんでもない子供に歴史書を読み聞かせていたことに気づいたらしい。
そして今に至る。ヘレーネが青ざめた顔で、必死に説明しているが、何が悪いんだ?
「アレン様……姫様が歴史書を暗唱なさっているのですよ!?」
「ふーん、そうかい? よく覚えたねえ」
あたしがアリーの頭を撫でると、本人は嬉しそうにニコニコと笑顔を振りまいていた。
「師匠。姫様は二歳児です。伯爵夫人が驚いていらっしゃるのは当然でしょう……」
「お前さんだって、ここに来る前には勉強を終わらせていたのだろう? 大して変わらんだろう」
「僕は五歳でしたから! 彼女は半分も生きてないでしょう!?」
「……ギルバート様、それも普通ではない……こほん。素晴らしいことだと思いますわ」
「えっ? 王国史なんて、たかだか数千年の歴史ですよね? 本にして十冊程度ですから、丸暗記くらいできると思いますが」
首をこてんと傾けてヘレーネを見つめるギルバートに、彼女は頬を赤くしてもう一度「こほん」と咳払いをした。
「アレン様、座学の方は、もう教えることがなくなってしまいました」
本当なら、もう少し姫さんのそばに置いてやりたかった。アリーもヘレーネにはよく懐いている。
だが、伯爵夫人が二年も王都を離れていれば、それだけでも目立つ。ここまで何事もなかったからといって、側妃が諦めた保証はない。
アリーを守るなら、そろそろ潮時だろう。
「そうか。では少し早いが、そなたは城に帰るがいい。ずっとここにいては、ヘレーネとの繋がりから姫さんの居場所がバレかねないからな」
「確かにそうですわね。それに、そろそろ実技に入られるのでしょう? そうなれば、わたくしには何もできません。あとはお任せいたしますね」
「ええっ!? ヘレーネ様、本当に大丈夫だと思っていらっしゃるのですか……?」
「え? ええ。アレン様であれば、素晴らしい王女に育ててくださると信じています」
「いや、そういう意味ではなくてですね……!」
「ギルバート。何をぐずぐず言ってるんだい」
「師匠は黙っていてください!」
小言のうるさいギルバートを放置して、その日はヘレーネと最後のお喋りを夜中まで楽しんだのだった。
★★★
「アレン様、ギルバート様、アリア王女をよろしくお願いします」
深々と頭を下げたヘレーネは、今度はアリーに優しく声をかける。
「姫様。どうか、お健やかに」
「うん! ヘレーネも元気でね!」
アリーは別れの意味をどこまで理解しているのだろう。いつもの笑顔で手を振っていたが、ヘレーネの方は何度も振り返っていた。
二年間、母親代わりに世話をしてきたのだ。名残惜しくないはずがない。
やがて転移の光が消え、そこに残ったのは、あたしとギルバートとアリーの三人だけになった。
あたしはアリーに向き直り、声をかけた。
「さて、姫さん。そろそろ剣でも握ってみるかい」
「はいっ!」
「師匠ぉぉぉ!?」
相変わらず騒々しいギルバートと、穏やかな表情ながら莫大な魔力を持つ王女アリア。
ヘレーネという最後の良心がいなくなったこの日から、あたしたち三人の生活は、それまで以上に騒がしくなっていく。
——そしてその日、『最強の王女育成』が本格的に幕を開けたのだった。




