第3話 眠れぬ姫と魔力
翌日、近くの川辺まで散歩しているヘレーネと、腕の中でキャッキャと喜んでいる姫を見かけた。
岩肌ばかりのこの辺りでは珍しく、川沿いには柔らかな草が生えている。陽の光を反射してきらきらと輝く水面を眺めながら、アリーはしきりに小さな手を伸ばしていた。
長閑な風景だと思って岩山の上から眺めていたが、どうやらヘレーネは困っているらしい。楽しそうな姫とは対照的に、眉を八の字にして何度もその顔を覗き込んでいる。
気になったあたしは風魔法を纏い、岩場を蹴った。
ふわりと風に乗り、そのまま彼女たちの近くへ降り立つ。
「どうした、ヘレーネ。困っていることがあるなら力になるぞ」
「アレン様! ありがとうございます。それが……姫様がお昼寝をまったくなさらないのです。まだ乳飲み子でいらっしゃるので、三時間に一度はお休みになられるはずなのですが……」
言われてアリーを見るが、眠そうな様子など欠片もない。
むしろ突然現れたあたしを見つけて、ますます嬉しそうに手足をばたつかせている。
「そうなのか? どれ、診てみようか」
「……大賢者様は、診察もできるのですか?」
「ん? ああ、あたし自身が罹ったことのある病気や、ギルバートが罹った際に観察したものなら治療までできる。薬も作れるから安心すると良い」
「まあ……」
ヘレーネは驚いたまま瞬きを繰り返している。
何をそんなに驚くことがあるのか分からず、あたしは彼女から視線を外して赤ん坊へ手をかざした。
身体の中を流れる魔力を探る。
熱もない。呼吸にも問題はなく、顔色も良い。何より本人がこれだけ上機嫌なのだから、体調不良ではなさそうだ。
その代わり——。
「凄い魔力量だな」
思わず口元が緩んだ。
小さな身体の中を巡っているとは思えないほど、濃密な魔力が満ちている。
「これでは寝る必要がないのだろう。……そうだな、ついでだ。姫様の魔力を吸い出して、眠りやすくしてやろう」
そう言って、あたしが赤ん坊の身体の上へ手をかざした、その時だった。
「師匠! また外でそんなことを……。治療や訓練は、座って落ち着いた状態でなさってくださいと、何度も申し上げて——」
背後から聞き慣れた声が飛んでくる。
振り返らなくても分かる。
どうせギルバートが、眉間に皺を寄せながらこちらへ歩いて来ているのだろう。
「あー、分かった分かった。移動してからやる。皆まで言うな。ヘレーネ、アリーのベッドがある部屋へ行こうか」
「……かしこまりました」
ヘレーネはギルバートを見て、「くすっ」と小さく笑った。
まったく。
ギルバートは昔から小姑のように口うるさい。
あたしが何か始めようとするたびに、危ないだの、座れだの、準備をしろだのと細かいことばかり言うのだ。
もっとも、こいつが言わなければ、あたしはその辺の岩の上でも平気で始めてしまうのだが。
家へ戻ると、ヘレーネはアリーを寝室へ連れて行った。
窓から柔らかな陽が差し込む部屋には、ギルバートが用意した小さなベッドが置かれている。
「こちらに寝かせてよろしいでしょうか?」
「ああ、ぐずらないなら寝かせてくれた方がやりやすい。ヘレーネの魔力まで抜き出してしまっては面倒だからな」
その言葉に、アリーを寝かせようとしていたヘレーネの手がぴたりと止まった。
「お、お待ちください、アレン様! 魔力を抜き取る……のですか?」
「ああ、そうさ。魔力は使えば使うほどに強くなるのは知っているだろう?」
「はい」
「魔力を使う体力がない場合、魔力を抜くことで鍛えることもできるのだが、その応用だな」
「……鍛えるために魔力を抜くなんて、初めて聞きました」
当然だろう。
あたし以外が下手に真似すれば、危険極まりない方法なのだから。
すると、それまで黙っていたギルバートがため息交じりに口を挟んだ。
「伯爵夫人、その鍛錬方法を使えるのは師匠だけです。やり過ぎると魔力が枯渇してしまうので、最悪の場合は死に至ります。ですから、発表していないのです」
「そ、そんな危険なことを姫様になさろうとおっしゃるのですか!?」
ヘレーネは反射的にアリーを抱き寄せた。
まあ、そうなるだろうねえ。
説明もせずに『魔力を抜く』などと言えば、乳飲み子を預かる乳母としては警戒するのが当然だ。
「ああ、そこは問題ありませんよ」
慌てる彼女とは対照的に、ギルバートは穏やかだった。
「僕が幼い頃も、そうして助けてくれました。その、僕も魔力量が多過ぎたので」
「……そうでしたわね。ギルバート様はアレン様の弟君のご次男で、魔力量のコントロールが利かず、アレン様に預けられたとお聞きしていました」
「はい、その通りです。毎日のように暴走してしまう魔力を、僕が扱えるぐらいまで減らしてから制御の仕方を教えてくれました。それからは、自分でも魔力を抜けるようになりましたので、暴走することもなくなったのですよ」
懐かしい話だ。
あの頃のギルバートは、小さな身体に不釣り合いなほどの魔力を抱えていた。
癇癪を起こせば窓が割れ、泣けば風が吹き荒れ、寝ぼけて魔法を放つことさえあった。
最初の頃は、本当に手のかかる子だったねえ。
「な、なるほど……。姫様も魔力量がかなり多い方ですものね」
ヘレーネは腕の中のアリーへ目を落とした。
当の本人は大人たちが自分について真剣な話をしているとも知らず、ヘレーネの指を握って楽しそうに笑っている。
「今後は姫様自身が習得することで、何か起こった時に対処できるのであれば、有意義ですわね」
「はい。今はまだ、眠れなくても機嫌が良いので問題はないと思うのですが、今後、僕のように機嫌を損ねて暴走してしまっては大変です。魔法のことに関してだけは、師匠を信じてもらって大丈夫ですよ」
「こら、ギルバート! 『だけ』とは何だ、『だけ』とは!」
思わず睨みつけると、ギルバートは涼しい顔で視線を逸らした。
「ふふっ、ご説明ありがとうございました、ギルバート様。こちらの件は、アレン様にお任せしますわ」
先ほどまでの不安が消えたのか、ヘレーネがふわりと微笑む。
よくやった、とギルバートへ視線を向ければ、こちらを見る目には明らかに「やり過ぎないでくださいよ」と書いてあった。
もちろん、知らんぷりしておく。
それにしても——赤ん坊の頃から訓練できるということだろう?
まだ自分で立つことさえできない小さな身体に、これほどの魔力を宿している。
順調に育てれば、この子はあたしの魔力すら超える大物になるかもしれないねえ。
口元が勝手に吊り上がる。
——ふっ。
そんな楽しみを、あたしがやらないわけがないじゃないか。




