第2話 大賢者の驚き
国王の使者が立ち去ってすぐ、ギルバートが乳母と王女のために家を建て始めた。
彼は元々とても繊細な人間で、親代わりのあたしにまで気を遣って生きているような男だ。彼に任せておけば、彼女たちに配慮した立派な家が建つだろう。
「乳母と姫さんは、その家ができるまであっちで休むといい。赤ん坊を抱えての移動は大変だっただろう。足りないものは、そこのギルバートに言っておくれ」
あたしは料理をするために使っている小さな離れを指差して言う。あの家には魔道具のかまどなど、料理に関する一式が揃っているから赤ん坊を風呂に入れるのも容易だろう。
ギルバートは男の子だし五歳から預かっていたから、川で水浴びをさせて済ませていたが。
今回は生まれたばかりの乳飲み子だから、そう簡単にはいかないだろう。
「ありがたきお言葉にございます。姫様を受け入れてくださり、感謝いたします」
丁寧に頭を下げる乳母に、ふと重鎮の後ろに彼女が佇んでいた記憶がよぎった。
「……もしや。そなたは、グリューネヴァルト伯爵夫人だろうか」
「……まあ、大賢者様にお見知りおきいただいていたなんて、光栄でございます。わたくしはヘレーネ・フォン・グリューネヴァルトと申します。ご存じの通り、伯爵夫人を務めております」
美しいカーテシーを披露する彼女に、開いた口が塞がらない。まさか、彼女を寄越すなんて思ってもいなかったのだ。
夫人は王妃の右腕と言われている女性で、あたしが現役の時には先々動きやすいように裏で手を回してくれるなど、力を尽くしてくれた人物だった。
実際に会って話す機会はなかったが、王妃から噂は聞いていた。あたしは滅多に夜会にも出ないため顔までは覚えていなかったが、立ち振る舞いと魔力の色で思い出したのだ。
「……そうですか。貴女であれば歓迎します。恐らく、王妃殿下はそれを見越した上で、貴女に頼んだのでしょう」
「さすがは大賢者様であらせられます。王妃殿下の考えまでお分かりになるとは。王城では、わたくしが僻地へ行くことになるならと、わたくしの後継争いが起こりましたのに」
「ああ、王妃の側近という立場を狙っている人間は多そうだ。だが、そなたよりも賢い女性なぞ、あたしは見たこともないけどねえ」
「まあ! お褒めいただきありがとうございます。大賢者様に褒めていただけるなんて……帰ったら、王妃様に自慢いたしますね。ふふっ」
上品に微笑んだ彼女は、あたしに向かって丁寧に礼をしてから姫を抱えて移動を始めた。あたしは暇だったから彼女を手伝うことにした。家の扉を開き、魔法で空気の入れ替えをしてやると、夫人は嬉しそうな顔で微笑み、礼を言った。
「ありがとうございます、大賢者様。わたくしのことはヘレーネとお呼びください」
「光栄だよ、ヘレーネ。あたしのことはアレンでいい。弟子はギルバート。姫様の名は何と言うんだい?」
「それが、決める前にこちらに参りましたので……」
「ああ、名前を呼ぶことでバレるのを避けたかったのか。恐らく、姫様や第一王女様とでも呼ばれていたのだろうな」
「……はい、その通りでございます。噂でしか存じ上げませんでしたが、さすがは大賢者という称号をお持ちだけあって、素晴らしい洞察力です。アレン様にならば、安心して姫様をお任せできます」
目をキラキラと輝かせながら話すヘレーネは、まるで少女のようだ。一度言えば理解できる頭脳を持っている彼女との会話は、退屈な隠居生活には刺激があって楽しかった。
こうして、信用できる乳母がいることも分かり、ひとまず安心した。
「ところでヘレーネ。この子、名前がないんだったね」
「はい」
「……国王は何も考えてないのかい?」
「恐らく、アレン様にお任せするおつもりなのでは?」
「は?」
あたしはヘレーネに抱かれている姫さんを見下ろした。
国王め。面倒事をひとつ増やしていきやがったね。
「そうだねえ……アリアなんてどうだろう」
「アリア様……まあ、素敵なお名前ですわ」
「普段はアリーでいい。そっちの方が呼びやすいだろう」
ヘレーネは一瞬きょとんとしてから、ふっと頬を緩めた。
「……アレン様の『ア』をいただいたのですね」
「偶然だよ、偶然」
「ふふっ。そういうことにしておきますわ」
にっこりと笑顔を向けるヘレーネから視線を逸らし、あたしはわざとらしくアリーを覗き込む。
「アリー姫様、よろしゅうございましたね。素敵なお名前をいただけて」
ヘレーネが腕の中の姫さんに語りかけると、小さな手がふわりと動いた。
こうして、名もなかった姫さんは、アリアという名を得た。
——もっとも。
このときのあたしは、まだ知らなかった。
この小さなアリーが、想像以上にとんでもない子供だということを。




