第38話 感じていた距離感
剣術大会の試合が終了し、残るは表彰式のみとなった。それなりに準備が必要らしく、僕とアリーは控室へ戻り、しばらく休むことになった。
王城へ戻ってから、僕は少しずつアリーが遠くなっていくような気がしていた。
王女殿下。姫様。
周囲がそう呼ぶたび、僕の知っているアリーとは別の人になっていくようで、胸の奥に小さな寂しさが積もっていく。
もちろん、アリーが王女なのは分かっている。
ずっと隠されて育った彼女が、本来いるべき場所へ戻っただけなのだ。
それなのに、昔のように気軽に名前を呼ぶことさえ、少しずつ難しくなっていた。
僕は侯爵家の令息ではあるが、彼女は王女だ。
周囲に人がいれば、護衛として、臣下として振る舞わなければならない。
頭では分かっている。
分かっているのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
この控室にも、陛下がつけてくださった護衛騎士が入口の近くに立っている。
そのため僕は、いつものように「アリー」と呼ぶのを避け、公的に「姫様」と呼ぶようにしていた。
「姫様、何か軽くお召し上がりになりますか」
返事を待ちながら視線を向ける。
すると、アリーの表情があからさまに曇った。
先ほどまで剣を振るい、楽しそうに笑っていた顔から、一瞬で明るさが消えていく。
疲れただけなのかと思った。
けれど、それにしては、どこか悲しそうだった。
「姫様、どうなさったのですか――」
「お兄様……」
呼ばれた声が、いつもより弱い。
少し涙目になっているアリーに驚き、僕はすぐに顔を寄せた。
「どうしたの?」
小声で尋ねると、アリーはちらりと入口に立つ騎士たちを確認してから、さらに僕へ顔を近づける。
そして、騎士たちには聞こえないほど小さな声で訴えかけた。
「……私を姫様と呼ばないで」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「理屈では理解しているの。人前では、お兄様もそう呼ばなければならないのでしょう?」
「うん……」
「でも、お兄様との間に壁ができたようで……少し寂しいの」
その言葉に、胸の奥が大きく揺れた。
僕だけではなかった。
王城へ戻ってから感じていた、この妙な距離。
少しずつアリーが遠くなっていくような感覚。
彼女も同じように感じていたのだ。
上目遣いで必死に訴えかけるアリーを見ていると、何とか安心させてあげたいと思う。
けれど、それ以上に嬉しかった。
僕と離れることを、アリーも寂しいと思ってくれていた。
「アリー」
名前を呼ぶ。
それだけで、先ほどまでの息苦しさが少しだけ消えた気がした。
「実は僕も、アリーが遠くに行ってしまいそうで、不安だったんだ」
照れくさかった。
こんなことを口にするのは、子どもの頃以来かもしれない。
それでも、本音で話してくれた彼女に、本音で答えないのは失礼だろう。
僕は誤魔化さず、真っ直ぐアリーを見る。
「えっ、本当に?」
目を丸くしたアリーが、僕の表情を読み取ろうとするように、じっと見つめてくる。
疑っているというより、信じていいのか確かめているようだった。
そんな仕草さえ可愛らしく思えてしまい、思わず頬が緩む。
「うん、本当だよ。アリーと離れて暮らすのも、とても寂しいと思っていたよ」
「嬉しいです、お兄様! 私も、お兄様とずっと一緒に暮らしたいと思っていました」
満面の笑みを浮かべるアリーを見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
嬉しい。
ただ、それだけではなかった。
昔からアリーは可愛かった。
守ってあげたいと思っていた。
笑っていてほしいとも思っていた。
でも、今感じているものは、それだけではない。
他の誰かに彼女の隣を譲りたくない。
いつまでも自分の隣にいてほしい。
ようやく僕は理解した。
この気持ちは、普通の『家族』へ向けるものではないのだと。
「アリー」
「はい?」
「……その、僕のことも……ギルと呼んで?」
口にした途端、急に恥ずかしくなった。
きっと僕の顔は真っ赤になっている。
今さら取り消すこともできず、視線を逸らしたくなるのを必死に堪えた。
アリーが僕を「お兄様」と呼ぶことは、ずっと当たり前だった。
でも、この気持ちに気づいてしまった以上、その呼び方を聞き続けるのも、少し違う気がした。
もう、兄のままではいたくない。
ほんの少しでも、これまでとは違う関係になりたい。
アリーも僕の言葉の意味を考えているのか、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が妙に長く感じる。
心臓の音まで聞こえてしまいそうだ。
「……ギル」
小さな声で呼ばれた。
十年以上「お兄様」と呼ばれてきたせいか、たった二文字なのに胸の奥が妙に騒ぐ。
今まで何度も名前を呼ばれてきたはずなのに、今日のそれだけはまったく違って聞こえた。
嬉しくて、でも恥ずかしくて。
僕はどう返事をすればいいのか、一瞬分からなくなった。
「うん、アリー」
ようやく返した声は、自分でも分かるほど柔らかかった。
静寂が控室を支配する。
二人とも顔を真っ赤にしたまま俯き、次に何を話せばいいのか分からなくなってしまった。
さっきまで普通に話していたはずなのに、呼び方を変えただけで、こんなにも意識してしまうなんて思わなかった。
少しして、おそるおそる顔を上げる。
ちょうど同じタイミングでアリーもこちらを見た。
目が合う。
どちらからともなく、照れながら微笑み合った。
先ほどまで感じていた距離は、もうどこにもなかった。
「国王陛下がお呼びです」
突然かけられた声に、二人とも肩を揺らす。
顔を見合わせたあと、思わず同時に笑ってしまった。
「行こうか、アリー」
「はい、ギル」
もう一度名前を呼ばれ、また少しだけ胸が騒ぐ。
僕はアリーの前へ手を差し出した。
その手を取った彼女を椅子から立ち上がらせる。
そしていつものように――けれど、少しだけ以前とは違う気持ちで彼女をエスコートし、陛下の元へ向かうのだった。




