第19話 帰還するために
アリーが王城へ帰還することが決まってから、三年が経っていた。
あの日を境に、僕たちの修行内容は少しずつ変わっていった。
剣や魔法、体術といった身を守るための技術だけではない。
王城へ戻れば、誰が味方で誰が敵なのか分からない。食事に毒を盛られることもあれば、何気ない言葉一つが弱みになることだってある。
だから僕たちは、アリーが王女として生きていくために必要なものを、一つずつ身につけていった。
そんなある日、王都で動きがあったらしく、王妃やヘレーネ、そしてアーバンからデビュタントについて知らせが届いた。
もちろん、手紙を届けてくれたのはアーバンだ。
『十五歳になれば、王女として表舞台に戻すことが決まった』
言葉の違いこそあったが、どの手紙も要約すればそんな内容だった。
分かっていたことだ。
いつか、この日が来ることくらい。
それでも文字にされると、胸の奥が妙にざわついた。
ここで僕たちと暮らしているアリーは、ただの可愛い妹だ。
けれど王城へ戻れば、彼女はこの国で唯一の王女になる。
僕が隣にいられない時間も増えるだろう。
だからこそ、それまでに出来ることはすべてやっておかなければならなかった。その一つが、毒への耐性だ。
あの日から、森に生えている草木から毒を抽出し、少量ずつアリーに与えてきた。
最初の頃は、ほんのわずかな量でも顔を青ざめさせ、腹を押さえて蹲ることがあった。
涙目で僕を見上げる彼女を一人で苦しめることに耐えられず、翌日には僕も服毒することにした。師匠は呆れていた。
「何でお前まで飲むんだい」
「アリーだけに飲ませるなんて出来ません」
「そういう問題かねえ……」
そう言いながらも、師匠はさらっと、
「まあ、あたしも毒は効かない体だけどねえ」
などと言っていたから、恐らく師匠にも服毒の経験があるのだろう。
蛇やトリカブトなどから抽出した毒にも随分と慣れた頃、師匠がどこからか小さな瓶を持って帰って来た。
「今度はこれだね」
「……何ですか、それ」
「最近出回り始めた毒さ。臭いも味もほとんどしない」
僕は思わず瓶から距離を取った。
「嫌な進歩ですね……」
「毒殺する側からすりゃ便利なんだろうさ」
師匠は平然としていた。
「この毒に耐えられたなら、そうそう毒に怯える必要はない」
どこから仕入れてきたのかは知らないが、物凄く強い毒らしい。
心配になった僕は、アリーより先に試してみることにした。
コップ一杯の水へ落としたのは、たった一滴。
それをほんの一口、口に含む。
「ぐぐえっ、ガハッ、ゴホッ!」
飲み込んですらいなかった。
それなのに喉が拒絶するように痙攣し、僕はその場に膝をついた。
胃がひっくり返るような感覚に襲われ、直前に食べたものまで全部吐き出してしまう。
「お、お兄様!」
アリーが慌てて背中を擦ってくれる。
しばらくして、ようやく呼吸が整ってきた。
「し、師匠……これは……飲み込む前に気づくのでは?」
ゼイゼイと肩で息をしながら尋ねると、師匠は僕を眺めながら首を傾げた。
「お前たちはトリカブトの毒すら効かなくなってるからねえ。体が『毒』だと早めに認識して、吐き出したのかもしれないね」
「そんなことあるんですか……」
「さあねえ。ただ、毒への反応が早くなるのは悪いことじゃない」
師匠はコップへ視線を落とした。
「慣れた方が間違いはないが……どうする?」
僕もアリーを見る。
彼女は少し泣きそうな顔で、僕を見つめていた。
これまでも二人で色んな毒を口にして、そのたびに苦しんできた。
そんな僕がここまでの反応を見せたのだから、怖くないはずがない。
「アリー、無理をする必要はないんだよ」
「……」
「この後には座学もあるのだし。これはさすがに――」
「お、お兄様は……」
アリーは一度言葉を止めた。
それから、小さく息を吸う。
「いえ。私にも一口、いただけますか」
「アリー」
「私もその毒を、身をもって知っておく必要はあるでしょう」
わずかに震えていた手を、彼女は自分で握り締めた。
「でなければ、何かあってからでは遅いですから」
その言葉を聞いた師匠の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……よく言った、アリー」
いつもの軽い口調ではない。
師匠は真っ直ぐにアリーを見つめた。
「そなたの立場は、もうそなただけのものではなくなる」
アリーもまた、その視線を逃げずに受け止める。
「国を支える者たち。そこに住む民たち。その命まで背負うことになる」
師匠は静かに続けた。
「だから、笑いなさい」
「……笑う?」
「毒で苦しくても。殴られて痛くても。怖くても、泣きたくても。人前では笑っていなさい」
僕は何も言えなかった。
それは僕では教えられない強さだった。
剣で敵を倒す方法でも、魔法から身を守る方法でもない。
王族として生きるための強さ。
「そして笑顔で『大丈夫よ』と言える人間になりなさい。それだけで安心できる者が、大勢いるのだからね」
アリーは少しの間、師匠を見つめていた。
やがて、しっかりと頷く。
「……はいっ、お母様!」
それからも、修行は続いた。
毒だけではない。
魔法、体術、剣術、歴史、政治、礼儀作法。
ここへ来た頃には僕の後ろを小さな足で追いかけていた妹が、少しずつ僕の背中に近づいてくる。
そして――。
三年目のある日。
甲高い音を立てて、僕の剣が弾かれた。
アリーの剣先が、僕の喉元でぴたりと止まっている。
「……参りました」
僕は両手を上げ、苦笑した。
「僕ではもう、相手にならないですね」
三年前までなら、まだ力でも技術でも僕が上だった。
けれど今は違う。
体術だけなら、男であり体格でも勝る僕にまだ分がある。
しかし剣となれば、アリーは体の柔軟さと軽さを存分に使い、僕より素早く、そして正確に急所へ打ち込んでくる。
とうとう、剣術では完全に追い越されてしまった。
「そうかい」
少し離れたところで見ていた師匠が立ち上がる。
「それじゃあ、そろそろあたしの出番だねえ」
アリーの顔が、一瞬で輝いた。
「お母様とですか!?」
「嬉しそうだね、姫さん」
「はいっ!」
負けた僕としては、少しくらい悔しがるべきなのかもしれない。
けれど、不思議とそんな気持ちはなかった。
剣術では追い越されてしまった。
それでも僕には、防御や修復なら誰にも負けないという自信がある。
僕がアリーより強くある必要はない。
彼女に出来ないことを、僕が出来ればいい。
そして僕に出来ないことを、アリーが出来ればいい。
もうすぐ、僕たちは王都へ戻る。
ならば残された時間で、もっと強くならなければ。
アリーも。
そして――僕も。




