第29話 雪解けの頃
しばらく、言葉がなかった。
酒の器が、わずかに触れる。
ニールスは、一度だけ視線を落とす。
少しの沈黙のあと、口を開く。
「……晩餐会の途中で、外に出ることがあって」
「そのときに、二人で話しました」
一瞬、言葉が途切れる。
「彼女は、自分を第二皇子だと思っていました」
「自分も、それは分かっていましたが」
「……違うとは、言い出せませんでした」
「後日……」
一度、言葉を切る。
「自分の意思で、もう一度だけ変装しました」
少しだけ、息を吐く。
「……どうしてああしたのか」
「今も、はっきりとは分かりません」
視線が落ちる。
「天球儀を、渡しました」
短く言う。
「……あのままにしておけなかったのかもしれません」
少し間が空く。
「嘘は、よくありませんね」
自分に向けたように言う。
「結局、使用人だと分かってしまって」
視線が落ちる。
「……当然ですが」
一瞬、言葉を探す。
「最初から、相手にされる立場ではなかったので」
「……だから、ああしたのかもしれません」
ヴァルターが、ふっと笑う。
「……そうか」
肩の力が抜けるような笑いだった。
「あんな娘のどこがいいんだ?」
軽く言う。
からかいでも、否定でもない。
ただ、確かめるように。
「まあ、でも」
視線を外す。
「使用人だからなんだって話だ」
短く言う。
「これからも気にかけてやってくれ」
「危なっかしいとこもあるからよ」
廊下の先で、アリアは動けずにいた。
扉に手をかけたまま、しばらく立ち尽くす。
もう出るきっかけはないと分かり、わずかに息を吐いた。
手を離し、音を立てないように部屋へ戻る。
寝台に腰を下ろし、そのまま横になる。
目を閉じても、すぐに眠気は来なかった。
静けさだけが、残る。
朝。
窓から差し込む光で、アリアは目を覚ました。
視界が白く滲む。
少しだけ目を細める。
(……寝すぎたかしら)
体を起こす。
静かな部屋。
気配はない。
着替えを整え、食卓へ向かう。
朝食は、すでに用意されていた。
パンと、簡単なスープ。
まだ温かい。
二人の姿はない。
もう、畑に出ているのだろう。
アリアは席に着き、遅れた朝食をとる。
静かな時間が流れる。
器を置いたとき、扉の外で足音がした。
ほどなくして、ヴァルターとニールスが戻ってくる。
土の匂いが、わずかに混じる。
「おう」
ヴァルターが言う。
「もう昼前だぞ」
軽く笑う。
「いつまで寝てたんだ」
アリアは顔を上げる。
何も言わない。
(……そっちが、遅くまで話していたからでしょうに)
心の中でだけ返す。
ヴァルターは気にした様子もなく続ける。
「もうすぐ、王都行きの馬車が出る」
「帰り支度をしろ」
一拍。
ニールスに視線を向ける。
「世話になったな」
「また来てくれよ」
ニールスは、軽く頭を下げる。
「はい。また来ます」
短く答える。
支度を整える。
荷をまとめる。
戸口へ向かう。
外の光が、少し強い。
ヴァルターが、ふとニールスに声をかける。
「お前はな」
少しだけ間を置く。
「もう少し、自分のやりたいことをやれ」
それだけ言う。
ニールスは、わずかに首を傾ける。
言葉の意味を測るように。
「……はあ」
曖昧に答える。
理解しているのか、していないのか。
はっきりしないまま、頷いた。
乗り場までの道。
二人の間に、言葉はない。
歩幅だけが、かろうじて揃っている。
やがて、乗り場に着く。
馬車は、まだ出発前だった。
御者が、準備をしている。
少し待つ。
同じ空気が、そのまま続く。
「おっ」
御者が顔を上げる。
「この前の」
ニールスを見る。
「お帰りかい?」
「ええ」
短く答える。
そのまま、馬車に乗り込む。
揺れが、ゆっくりと始まる。
少しの間、誰も口を開かない。
先に口を開いたのは、アリアだった。
「あの……」
言葉が、少しだけ揺れる。
「この前は、助けていただいて」
一度、息を整える。
「ありがとうございました」
座ったまま、深く頭を下げる。
「あなたがいなかったら……」
言葉を切る。
それ以上は続けない。
「それと」
顔を上げないまま、続ける。
「酷いことを言ってしまって」
「……申し訳ありませんでした」
もう一度、深く頭を下げる。
ニールスは、すぐに反応できなかった。
目の前の光景が、うまく飲み込めない。
アリアが、自分に頭を下げている。
その事実に、わずかに固まる。
「……いえ」
慌てて言葉を出す。
「そんな、気にしていません」
続ける。
「アリアさんが無事でよかったです」
言葉が、少しだけ早くなる。
うまく整わないまま、続いていく。
空気が、ゆっくりとほどける。
残っていた張りが、抜けていく。
馬車は、そのまま進む。
揺れは、変わらない。
ただ、空気だけが、少しだけ柔らいでいた。




