第26話 薔薇は棘を残したまま
足音が、止まる。
空気が、わずかに変わる。
誰も、すぐには口を開かない。
アリアは、そのまま歩く。
迷いはない。
視線も、揺れない。
ヴァルターの前で、止まる。
「お久しぶりです」
「お父様」
ニールスが、遅れて声を漏らす。
「……え」
「ヴァルターさん、娘さんは――」
言い切らない。
アリアは、ニールスを見ない。
そのまま、言葉を置く。
「あなたの残したもので、手続きが必要です」
「目を通していただいて、問題がなければ署名を」
それ以上は続けない。
ヴァルターは、少しだけ目を細める。
「……ああ」
一拍。
「久しぶりだな」
短く。
それ以上は続けない。
「わかった」
視線を外す。
「今日はここまでにするか」
立ち上がる。
周囲を見る。
「悪いな、今日は上がる」
村人が、軽く応じる。
特に驚いた様子はない。
ただ、流れを受ける。
ヴァルターは、ニールスに目を向ける。
「終わったら、また来い」
それだけ言う。
ニールスは、頷く。
言葉は出ない。
ヴァルターは、アリアの方へ歩き出す。
アリアも、それに続く。
二人は、そのまま畑を離れる。
背中だけが、遠ざかっていく。
昼の時間が、過ぎる。
器が片付けられる。
人が、散っていく。
ニールスは、また畑に戻る。
手を動かす。
言葉を交わす。
同じことを、繰り返す。
陽が、傾く。
影が、長くなる。
「……このあたりで」
誰かが言う。
頷きが、返る。
作業が、止まる。
道具が、まとめられる。
人の流れが、ほどけていく。
ニールスは、手を払う。
土が、落ちる。
顔を上げる。
空が、少しだけ赤い。
足を向ける。
ヴァルターの家へ。
道は、細い。
土が、踏み固められている。
低い柵。
同じような家が、並ぶ。
(……トキアスにいた、と言っていた)
思い出す。
(あの人が)
(元は、貴族……か)
それ以上は、続かない。
考えは、そこで止まる。
家が、見えてくる。
他と変わらない。
ただ、少しだけ奥にある。
扉は、半分開いている。
軽く、叩く。
「失礼します」
中に入る。
木の床。
低い天井。
壁には、道具が掛けられている。
中央に、机。
ヴァルターが、座っている。
書類に、目を落としている。
紙をめくる音。
ペン先が、動く。
止まる。
名前を書く。
次の紙へ。
アリアは、向かいに座っている。
背筋は、伸びている。
言葉はない。
空気だけが、残る。
ニールスは、少しだけ距離を取って立つ。
何も言わない。
ただ、その場にいる。
ペンが、止まる。
紙が、重ねられる。
「……よし」
短く。
「これで終わりだな」
ヴァルターが言う。
アリアは、書類に目を落とす。
一枚ずつ、確かめる。
指が、端をなぞる。
小さく頷く。
「これで大丈夫です」
一拍。
「ありがとうございました」
それだけ言う。
書類を、まとめる。
ヴァルターは、ふと顔を上げる。
視線が、横に流れる。
「……お」
ニールスを見る。
「悪いな」
軽く言う。
気にした様子はない。
「飯にするか」
一拍。
そのまま続ける。
「アリアも、泊まっていくだろ」
アリアは、顔を上げない。
「ええ」
短く。
「今からでは、戻れませんので」
それだけ。
言葉は、そこで切れる。
ニールスは、少しだけ視線を外す。
立ったまま。
動かない。
何か言うでもなく、
ただ、その場にいる。




