第2章-8 前夜祭 ―パンチャーラ国シュリンガヴェーラプラ―
パンチャーラ国シュリンガヴェーラプラ。
河畔には、乾いた土の匂いが北にそびえるヒマラヤ山脈から来る風に混じり、ガンガーから時折流れてくる水垢の青臭い夜風が交錯していた。
野盗集団の実働部隊は、総統ラージャプッタの本陣から離れたガンガーの対岸に野営し、漆黒の流れの向こうに、総統の指揮する近衛隊だけが待機していた。
焚き火を囲む野盗たちは、思い思いに故郷の話に興じている。
収穫前の麦畑の色、気性の激しい女房、鼻水を垂らした末の息子、老いた母が煮る豆の味などなど...
明日には他人の荷を奪い、喉を裂き、血を浴びる男たちが、今はまるで市井の父親のように笑みをたたえている。
弓隊を率いる百人隊長ディーガーユは、焚き火の前で例によって声を張り上げていた。
Vuttaṃ tayā, taṃ ettakaṃ dūraṭṭhānaṃ amocessāmiti!__
木椀に注いだ椰子酒をあおり、酒で濡れた口ひげをぬぐいもせず、百歩先の獲物を射抜いた話だの、馬上から敵兵の喉笛を貫いた話だのを、身振り手振りで大げさに語っている。
若い連中は囃し立て、古株は苦笑しながら聞き流す。酒と自慢話と焚き火――戦の前夜、男たちの心は踊っていた。
だが、その輪の中に、もう一人の百人隊長の姿はなかった。
百人隊長チャンダソーマ。
彼は、いつもそうだった。
大勢の笑いの中心にいるより、少し外れた場所で、ひっそりと自分の時間を楽しむ。
いや、「獲物が自分から寄ってくるのを待つ」とでも言うべきか...
彼の天幕は焚き火の一団から離れていた。布の隙間から油皿の灯が漏れ、その砂地だけが妙に柔らかい橙色を帯びている。
天幕の中で、チャンダソーマは脚を横に流し、まるで娼館の女主人のようなくつろぎようで座っていた。
傍らには椰子酒の壺。
片肘をついた姿勢はだらしなく見えるのに、不思議と隙がない。細い腰、しなやかな肩、だが剣を振るう前腕は鍛え抜かれ、布の下に潜む筋肉の膨らみは見事だった。
なにか妖艶なもののけめいた男だった。
声も、笑い方も、身ぶりも、あきらかに普通の男ではない。
彼の向かいには、若い部下がひどく怯えたような顔で座っていた。まだ、髭も薄い年頃で、百人隊長に呼ばれた理由もよく分からぬまま、逃げ場を失ったうさぎのように小さくなっていた。
Pubbe kho pana maṃ anubandhitukāmā purisā bahū ah|esuṃ.
チャンダソーマはそう言って、つややかに笑った。
唇の端を上げ、目尻にシワをいくつも入れる笑い方をする。だがその笑みの奥に、相手の様子を愉しむ、獣のような冷たさが潜んでいた。
Eko Kosalaraṭṭhiko puriso ahosi. Sobhaṇo puriso ahosi—vipulāhi aṃsehi samannāgato, gambhīrena sarena, ativiya attanā pasanno. Rattiyaṃ pana āgate sūraṃ bhavissatīti maññiṃ; atha kho—ku ku ku—evaṃ bhīru jāto, yāva hasituṃyeva yuttaṃ._______
若い部下は、どう返していいのか分からず、ただ口を半ば開けていた。
チャンダソーマは、それを見るのが好きだった。相手が困る顔、追いつめられて黙る顔、逃げ腰になりながらも逆らえない顔。
そういうものを、彼は酒の肴にした。
Tena hi, kiṃ maññasi, kiṃ ahosīti?
Na jānāmi.__
So mama purato sampavedhati sma.___
くすくすと笑いながら、チャンダソーマは杯を置いた。
―スササァ―
わずかに衣擦れの音がして距離を詰めた。
若い部下のすぐ隣へ座り直し、右腕を肩へ回す。
その動きには、夜伽の誘いめいた艶と同時に、戦場の間合いを知る者の速さも潜んでいた。逃げようとしたところで、遅い。そう感じさせる腕だった。
Handa, tvaṃ pana kīdisaṃ?____
囁きは甘かった。
しかし、甘いだけではない。舌先で舐めるような声音の奥には、有無を言わせないような威圧があった。
―キュッ―
若い部下の肩が強張った。
チャンダソーマがさらに顔を寄せてくると、麝香の匂いが鼻を突いた。
そのとき、チャンダソーマの首もとの飾りがゆらりと揺れた。
中央にひときわ大きな群青のアズレ玉。夜明け前の空を切り取って丸めたような深い藍に、金の斑が散っている。その左右を黒い縞瑪瑙と金の筒玉が挟み、さらに外側には紫水晶の玉が妖しく光る。
毒々しく、華やかで、けっして男の首には似合わぬその首飾り。
だがチャンダソーマがつけると、それはまるで着ける人を選んだかのように馴染んだ。
獲物を惑わせ、酔わせ、狂わせるような魔性の威嚇を秘めていた。
Evaṃ mā thaddho ahosi; na taṃ kiñci khādissāmi.__
笑いを含ませた声が、かえって不気味だった。
チャンダソーマの左手が彼の顎を掬い上げた瞬間、
若い部下は弾かれたように立ち上がり、チャンダソーマの肩をすり抜け、天幕の布を乱暴に跳ね上げ、外へ転がり出た。
チャンダソーマは、天幕の中から甲高く叫んだ。
Aho, nittaṇho vīriyahīno!__
外の焚き火の周りから、どっと笑いが起こった。
おおかたの事情を知る古参の男たちは腹を抱え、知らぬ新参者も釣られて笑った。
天幕の外に出てきたチャンダソーマは肩をすくめ、大げさに首を振って叫んだ。
Sabbathā, etarahi daharā sabbeyeva vīriyahīnā honti!___
―ドドッド~―
その言葉に、また大きな笑いが渦巻いた。
妖艶なチャンダソーマは、人から笑われても構うことはしない。
しかし、笑った男たちは誰も彼には逆らえない。
彼がひとたび剣を抜けば、真っ先にキラキラと刃が閃く戦闘の中へ真っ先に踏み込み、相手の目を見据えたままバッサリと斬る。
それを皆が知っているからだった。
焚き火の明かりは漆黒の空を焼き、男たちの心に闘志を掻き立てる。
月のない満天の星空は、明日の血生臭さを今のうちに洗い流そうとしているみたいに、澄み切っていた。
--------------
その頃、川向うの本陣では、総統ラージャプッタが拝礼敷物の上で静かに手を合わせていた。
笑い声も、酒の臭いも届かぬ暗がりの中で、ただ一人、明日の宿命だけを見つめるようにして。




