第2章-7 葬送のラプソディ ―ヴァッツァ国 ナヘルのニームの森―
Visākhamāsa(4-5月)の満月。
ヴァッツァ国ナヘルのニームの森近くの河原。
夜明け前の空は、まだ夜の帷を残していた。
キャラバン隊から斥候の一人がワジラを迎えに来た。
Ehi, āruha.
斥候の男が手助けして、ワジラは馬の鞍の後ろに乗った。
男は手綱を左に引くと馬を反転させて歩かせ、しばらく行くと短い掛け声とともに走らせた。
ワジラと斥候を乗せた馬は、キャラバンの野営地がある半ヨジャナほど離れた”ナヘルのニームの森”へ向かった。
やがて、馬はキャラバンの野営地に着いた。
夜明け前の真っ暗な街道にキャラバン隊は、すでに整列していた。
ワジラを乗せた馬が森に近い草地へ出ると、そこには高く薪が組まれていた。
それは、火葬のための壇だった。
ナガを殺した野盗は、もうこの世にいない。
ワジラ自身が、ナガのウーツの両刃剣で報復をとげた。
たしかに敵は打った。
けれども、胸にポッカリと空いた空洞は埋まらなかった。
整列していたキャラバンの隊列では、牛が低く鳴き、ラクダが喉の奥から絞り出すような濁った鳴き声を上げていた。
荷車の車輪は、牛が身を捩るたびに軋み、幌の影にはまだ眠気の覚めぬ髭だらけの男たちの顔が並んでいた。
人も役畜も、今日という出発の時を待っている。
やがて、先頭の方から号令が飛んだ。
Gacchatha!
整列していた列がゆっくりと動き始めた。同時に、葬送人を務めるキャラバン隊の若い男二人が薪の脇に進み、松明を差し入れた。
―パチパチパチ―
乾いた枝が鳴りはじめた。
小さな火は、徐々に薪を舐めはじめ、ほどなくして橙色の盛大な炎に変わっていった。
横座りしているワジラは、その炎に照らされて赤く染まっていく。
―ブルルゥフ―
―カラカラカラ―
牛の蹄が地をかきむしり、ラクダの足が土を掴むように歩む。荷車の車輪が軋みを増し、列をなした商隊が朝靄の中へと入って行った。
キャラバンの通った後には、土煙がもうもうと立ちのぼり、火葬の煙と混じり天へと登って行く。
それは、地上での出発と、天への旅立ちが、同じ朝の空気の中でひとつになっているような光景だった。
ワジラは、葬送のラプソディーを歌い始めた。
BGM
“Love Song Ofra Haza”
囁きの歌声だった。
一節ごとに、草地と森と、去ってゆくキャラバンの男たちの背にも届いた。
葬送のラプソディー。
哀愁の歌は低く、細く、途切れず伸びる透き通る音色。
愛しかったナガを天に送る。
そして、自分の胸の奥にあいた隙間を埋めるために。
ナガの大きな笑い声、風のような足取り、敵に向かうときの鋭い目。そして、はじめて遭った夜のこと、腕に抱かれた夜も。
そのすべてが、旋律とともにワジラの脳裏に蘇って来た。
そして、紫色の煙へ変わって空へ昇っていく。
漆黒の東の空が、少しずつ深い藍へ変わっていった。
―ゴウゥ~ゴウゥ―
薪の火は勢いをさらに増して、盛大に燃え上がった。
ぱちぱちと爆ぜる音が、歌の合間を縫って聴こえてくる。
白い煙が高く立ちのぼり、その向こうで東の空は明るみを帯びてきて、辺りには松脂の匂いと灰の焼ける匂いが立ち込めていた。
夜の終わりを告げるときが来た。
人ひとり死んでも朝は来る。
その無常の世界が、ワジラにはむしろ救いだったのかもしれない。
葬送のラプソディーを歌い終えたとき、彼女の中にはもう流す涙は枯れ、魂が燃え尽き、空っぽの身体だけがそこに座っているようだった。
やがて、東の空が白々としてきた。
旅芸人一座のラバ曳きの幌馬車が四台、ガタゴトと似つかわしくない音とともに近づいてきた。
聞き慣れた車輪の音、見慣れた幌の揺れる音だった。
年増の飯炊き女マリカがやって来て、無言でワジラの隣に腰を下ろした。
しばらく火を見つめ、それから低い声で言った。
Vajirā, ehi, uṭṭhaha._
その声には慰めはなかった。
ただ、生き残った者を今日という世界に押し出すだけの力があった。
この場を去ってしまうと、永遠にナガと自分の縁が切れてしまう。そう思うワジラの心は、自らの脚に力が入ることを拒んだ。
マリカの腕に支えられて、ようやくワジラはゆっくり立ち上がった。
足元がふらついた。だがマリカの後について歩き出す。
ワジラは歩き出すと、もう振り返らなかった。
振り返れば、炎と煙の向こうに、ナガがまだ立っている気がした。
しかし、今日という日に向かって歩き出したワジラは、それを見てしまうのが怖かった。
やがて、旅芸人一座は、ワジラを乗せて出発した。
燃えさかる薪、遠ざかるキャラバンの車輪の音、明るくなっていく空がすべてを包み込んだ。
ジャンブディパに、また新しい一日が始まる。
無常の世は躊躇なく、今日を始める。
誰かの愛が終わっても、誰かの人生が灰になろうとも。




