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【特別編】第2章-2 聖なる火を灯す精舎(後編)―クル国カンマーサダンマ―

































###############################


本エピソードを、御巣鷹の尾根へ捧ぐ


###############################




























陽が西に傾いてきた。

まだ沈むまでには時間があるうちに、慧は”聖なる火を灯す精舎”に到着した。


クル国カンマーサダンマ、その精舎の中に入ると、入口のところにある机の向こうには今朝の老人ではなく別の男がこの地方の正装かと思われる独特の衣装を纏って、椅子に座っていた。


慧は尋ねてみた。



Bhante Go(バンテ・)tama Buddh(ゴータマ)assa kathā(・ブッダ)ya sotuṃ l(のお話を)abbhati nu(聴くこと)?_______(はできま)________(すか?)



Āma, sabbe(はい、ど)pi. Bhikkh(なたでも)ū pana sā(。お弟子)vakā idān(様の比丘)eva nisīd(たちは、)itvā ṭhit(すでに控)ā, tesaṃ (えていら)pacchato n(っしゃいま)isīdatha.(すので、)_________(その後ろ)__________(にお座り下さい)




Jānāmi. A(わかりま)numodāmi(した。あ).______(りがとう)______(ございま)__(す)




広い部屋の中を見ると、すでに比丘がざっと見ただけでも三百人以上はいる。

その比丘たちの前方の、ゴータマ・ブッダが座られる場所には、上衣を四つ折りにした座所が設けられていた。


比丘たちの後ろには遊行者が数名座り、そのさらに後方の壁際には、一般人か在家信者と思われる者たちが五十人ほど、二列になって座っていた。


不思議に思えたのは、これだけの人数が一つの部屋にいながら、話し声はおろか、咳払いの一つも聞こえてこない。


それは、まるで風もなく静まり返った湖の水面のようだった。





やがて、

陽が西の山に差し掛かり、薄暗さが増してきた頃、部屋の柱と壁に据えられたランプが灯り、堂内はやわらかな光に包まれた。

ランプの下には香炉が設えられ、気品のある香木が焚かれた。





そして、

なんの音も、ざわめきもなく、ゴータマ・ブッダが二人の比丘とともに部屋に入ってくると、設えた座所に着かれた。




纏っている衣は山吹色をしているようだった。




しかし、

壁に設えた幾つもの灯明を受けて、金色に輝いているようにも見えた。





それよりも、

全身から発せられる威徳が尋常ではなく、衣がランプの光を返しているのだろうか、いわゆる後光が射すという状態だろうか、ブッダの全身から柔らかな光が放たれているようにも見える。


そう、慧は感じていた。





(やはり、この人は普通の人間と違う)

(うむ、初めて見る。誠に稀有な沙門だ)




ゴータマ・ブッダは、座所のすぐ後ろにある大きな柱に背中を少し持たれかけて、ゆったりと話し始めた。


























      “Bhikkhavo”

     『比丘たちよ』



























     “bhadante”

     「世尊よ!」





















ブッダの呼びかけに対して、前列の比丘衆が一斉に呼応して、まるでこの部屋が吠えたような大音響が響き渡った。



















“ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā, sokaparidevānaṃ samatikkamāya, dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya, ñāyassa adhigamāya, nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.


   『唯一の道がある。


   比丘たちよ、この正道は衆生を清め、


   悲しみと嘆きを乗り越え、


   苦しみと憂いを消し去り、


   ニッバーナを目の当たりにするためにある。


   すなわち、四つの念処である。 』


























部屋の中は、水を打ったように静まっている。


そのなかで、

唯一、ゴータマ・ブッダの声だけが、まるで精巧に造られたオルゴールの音色のように正確に響き渡る。





















“katame cattāro? idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ;


   「その四つとは何か?

    比丘たちよ、比丘は身の中で身に集中し、

    熱心に、明晰に、そして注意深く集中し、

    世間への貪欲と憂いを捨てて留まる」





















vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ;


    「彼は感受の中で感受に集中し、

     熱心に、明晰に、そして注意深く集中し、

     世間への貪欲と憂いを捨てて留まる。」

























citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ;


    「彼は心の中で心に集中し、

     熱心に、明晰に、そして注意深く集中し、

     世間への貪欲と憂いを捨てて留まる。」























dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.


    「彼は法の中で法に集中し、

     熱心に、明晰に、そして注意深く集中し、

     世間への貪欲と憂いを捨てて留まる。』
























“kathañca, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati? idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati, pallaṅkaṃ ābhujitvā, ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya, parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā.


    『比丘たちよ、

     比丘はどのようにして、

     身の中にある身を対象として瞑想し、

     そこにとどまるのか。


     比丘たちよ、

     ここに比丘は、森へ、あるいは木の根元へ、

     あるいは人のいない小屋へ行き座る。

     足を組み、身を正しく立て、念を前面に据える。』























so satova assasati, satova passasati. dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ti pajānāti, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati.



    常に念を保ちつつ、息を吸う。


    常に念を保ちつつ、息を吐く。


    長く息を吸うとき、『長く息を吸う』と知る。


    長く息を吐くとき、『長く息を吐く』と知る。


    短く息を吸うとき、『私は短く息を吸う』と知り、


    短く息を吐くとき、『私は短く息を吐く』と知る。


    彼はこう修練する『私は全身を感じながら息を吸おう』と。


    彼はこう修練する『私は全身を感じながら息を吐こう』と。


    彼はこう修練する『私は身の動きを鎮めながら息を吸おう』と。


    彼はこう修練する『私は身の動きを鎮めながら息を吐こう』と。』



























“seyyathāpi, bhikkhave, dakkho bhamakāro vā bhamakārantevāsī vā dīghaṃ vā añchanto ‘dīghaṃ añchāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā añchanto ‘rassaṃ añchāmī’ti pajānāti ”



  『それはすなわち、

   熟練した轆轤職人、またはその弟子は、

   長く回しているときには『今、長く回している』と知り、

   短く回しているときには『今、短く回している』と知る。 

   このようなものです。』






















evameva kho, bhikkhave, bhikkhu dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ti pajānāti; ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati.


    『彼はこう修行します。

    「私は全身を体感しながら息を吸う」


     彼はこう修行します。

    「私は全身を体感しながら息を吐く」


     彼はこう修行します。

    「私は身の事象を静めながら息を吸う」


     彼はこう修行します。


    「私は身の事象を静めながら息を吐く」 』
























iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati; samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati. ‘atthi kāyo’ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. evampi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.


    『このように、


     内なる身において身を観察して過ごし、


     あるいは外なる身において身を観察して過ごし、


     あるいは内外の身において身を観察して留まる。


     彼は身の中にある生起する事象、あるいは消滅する事象、


     あるいは生滅する事象に集中しながら留まる。


     そして、「身のみがある」という識があるほどに、


     彼の中に念が確立される。


     ただ、識と念が保たれるためだけに、何ものにも依存せずに住し、

     世間のいかなるものにも執着しない。


     このように、比丘たちよ、


     比丘は身を身として観察しながら留まるのです。』























二時間ぐらい、ゴータマ・ブッダは説法をされただろうか。


しかし、

その間、誰一人として席を立たなかった。

そして話が終わって、ゴータマ・ブッダの左に座っていた比丘が、





Kiñci pucc(何か、聞)hituṃ icc(きたいと望)hasi?_____(みますか?)





と言った。



(汝よ、”生滅する事象”とは何か?問え)

(えー! そんな事できませんよ、だって御釈迦様ですよ)



(アージーヴィカから見れば他宗、ただの沙門だ)

(そんなぁ…)



慧は、眼の前に御釈迦様がいて、しかも、仏教のことなどなんの知識もない自分が質問することに気乗りがせずにいた。

しかし、ヤナカの要望を渋々受け入れて質問した。





Khamatha m(すみませ)e. Ekaṃ pa(ん。一つ)ñhaṃ pucch(質問して)ituṃ labhe(よろしい)yyaṃ?_____(ですか?)





今度は、右側に座った弟子の比丘が答えた。





Vadatha, y(どうぞ、)athākāmaṃ(思うままに)._________(お話し下さい)





Tena hi, (それでは)“samudayava(生滅とは)vaya” ti k(何でしょ)iṃ?___(うか?)




すると、

大きな柱に背中をゆったりと持たれかけて、目を閉じていたゴータマ・ブッダが、


静かに目を開いた。

























“catunnaṃ, bhikkhave, satipaṭṭhānānaṃ samudayañca atthaṅgamañca desessāmi. taṃ suṇātha. ko ca, bhikkhave, kāyassa samudayo? āhārasamudayā kāyassa samudayo; āhāranirodhā kāyassa atthaṅgamo. phassasamudayā vedanānaṃ samudayo; phassanirodhā vedanānaṃ atthaṅgamo. nāmarūpasamudayā cittassa samudayo; nāmarūpanirodhā cittassa atthaṅgamo. manasikārasamudayā dhammānaṃ samudayo; manasikāranirodhā dhammānaṃ atthaṅgamo”ti. dutiyaṃ.


    『 比丘たちよ、


     私は四念処(しんねんしょ)の生滅について説きます。


     よく聞きなさい。




     比丘たちよ、


     身の生滅とは何か。


     食が生じることから身が生じる。


     食の消滅によって身が消滅する。


     接触が生じることから感覚が生じる。


     接触が消滅することから感覚が消滅する。


     名色が生じることから意識が生じる。


     名色の消滅によって意識が消滅する。


     想念が生じることから事象が生じる。


     想念が消滅することから事象が消滅する。』
























慧は、座ったまま拝礼をして、礼を述べた。




Anumodāmi(感謝します)





ブッダは座所を離れ、部屋から出ていった。

比丘衆が順に立ち上がって、その後ろへ整然と着いてゆく。





[BGM]

“Above the Treetops”

挿絵(By みてみん)




すべての比丘が部屋を去った後、残った一般人と数名の行者は、 その”聖なる火を灯す精舎”を出て、月光が眩しいほど照らした夜の街並みの中へと散っていった。









※まえがき「献辞」について※

このあとがきを記すことには、いささか躊躇があった。

しかしながら、誤解を招かないようにとの願いから記しておくことにした。


若き日の著者は関西に住み、公私において羽田と伊丹を往復していた。

その際、出発時刻の関係からあの便を利用することが多かった。


123/23 Y 58A


裏には、”ビデオテープは National(昭和59年5月現在)”という広告。


5~6年前、搭乗券の半券が偶然、フエルアルバムの中から見つかった。

現在、パスポートケースの内ポケットには、この黄緑色の「ご搭乗券」がパウチ加工して挟んであり、どの国へ渡るときであっても、ランウェイを滑り出した機内でパスポートケースを開き、券面の文字を静かに目で追う。



BOARDING PASS 

大阪 OSAKA



著者には、41年が経過した現在でも、

いや、恐らく一生涯、忘却の彼方へ追いやることは難しい。



【脚注】

◯上衣 (sanghāṭi)

比丘の資具、厚手の衣。

托鉢、遊行に出かける際には持ってゆく。

現代では、托鉢に持ってゆくことはなく、地方へ遠出をするときとカティーナ祭のときぐらいしか使わない。



◯四念処

マッジーマ・ニカーヤMN10 Satipaṭṭhāna Sutta、

もしくはディーガ・ニカーヤDN22 Mahā Satipaṭṭhāna Sutta

uddeso, および kāyānupassanā ānāpānapabbaṃ

PTSを参照。



〇熟練した轆轤職人、またはその弟子

この翻訳は、「轆轤工」と「旋盤工」に分かれる。

パーリ語:bhamati の原意は「回る・旋回する」で、縄を引くことで対象を回転させる機構(コマを回す原理)を指している。

原典の比喩の核心は「長く引けば長く回ると知っていて、短く引けば短く回ると知っている」という回転工具を操作する身体感覚に着目している。

ゆえに、比喩対象となるのは「長く・短く」という動作であり、職人がどちらであっても良い。


〇内なる身、外なる身

Nikāya の一般的な翻訳では、以下のようになっている。


 ajjhattaṃ=自分

 bahiddhā=他人


Nikāya の難しさ、即ち原始仏教の難解である理由のひとつが「翻訳そのもの」にある。


瞑想修行の中で、「他人を瞑想対象とする」ことはできない。

「ブッダが修行できないことを説くはずがない」との思いから、このことを何年かペンディングにしておいて、後続する以下の部を経験した。


・paṭikūlamanasikārapabbaṃ

・dhātumanasikārapabbaṃ

・navasivathikapabbaṃ


その結果、導き出された答えは、


主観的身体経験 → 身体の対象化 → 身体の脱人格化


つまり、Atta(我) 的な身体認識が、Anatta(無我) 的な身体認識へ移っていく過程を意図しているということ。


Nikāya のもう一つの難しさは「行間の時間」である。

その状態を経験するまでにどれぐらい時間(歳月)がかかるのか?

それは一切説かれていない。


例えば、前述の



iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati


『内なる身において身を観察して過ごし、

あるいは外なる身において身を観察して過ごし、

あるいは内外の身において身を観察して留まる。』


という翻訳上のたった3行を経験で理解するにしても、最低3年程度はかかるということである。



そして、Nikāya は編纂の際、教団内で言語的に整理・標準化する必要があり、マガディ語を母体とするパーリ語が形成されたとされる古文書がある。


つまり、ブッダはパーリ語で説法をしていたのではない。


諸国を説法して回る中で、その国と地域によってプラークリットの諸方言(中期インド・アーリア語)を話していたと推測されている。

例えるならば、通常は標準語、大阪では関西弁、青森では津軽弁、ソウルではハングルを話していたというような状況だったと想定できるが、これは決して飛躍した考えではない。


なぜなら、アショーカ碑文は、ブッダの死後およそ150〜200年程度の時点における実際の中期インド語を、石に固定して残した一次資料であるが、アショーカ碑文そのものにも地域による言語差があるからである。



Seyyathāpi, pahārāda, mahāsamuddo ekaraso loṇaraso;

evamevaṃ kho, pahārāda, ayaṃ dhammavinayo ekaraso, vimuttiraso.

-AN 8.19 — Pahārāda Sutta-


「パハーラーダよ、大海が一味、すなわち塩味であるように、この法と律も一味、すなわち解脱の味である。」



海は広大で、国、地域、気象によって千変万化する。しかし、どの国と地方に行っても、海の味は一つである。

それと同じ様に、Nikāya は断片を切り取らず、全体を「一つの味」として捉えることが重要であると著者は考える。





◯ニッバーナ

nibbāna

漢訳で『涅槃』。

意味は「消滅、吹き消す」。

後世の大乗仏教の一部の思想のように、”死没後に導かれて行く状態、居処”とは異なる。

本来の位置づけは瞑想の実践の中において、現世に生きながらにして到達する段階(レイヤー)であり、自己の識によってのみ認知される状態を指す。

これはブッダの教え(原始仏教)独自の理論ではなく、同様の状態はマハーヴィラ(ニガンダ・ナータプッタ)を開祖とするジャイナ教でも謳われる。

ただし、両者を比較した場合、到達するまでの時間的な差(それぞれの始祖が何年かかったか)という点に着目すれば、それぞれの教理、理論、実践方法に依存する要素の顕在化を導く。



◯ヤナカ、慧の質問に対するブッダの回答

Saṃyutta Nikāya SN47.42



◯ 名色が生じる

「名色」はパーリ語 nāmarūpa

nāma とは、精神作用の”受・想・行・識”の四つを指し、rūpa は物質要素の身を指し、実態は pathavī āpo tejo vāyo 即ち ”地・水・火・風” 。

つまり、名色=人の実態を指す。


一般的に仏教で言う五蘊盛苦( saṃkhittena pañcupādānakkhandhā dukkha)の五蘊とは、この nāmarūpa『名色』を言う。






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