第1章-40 迫害(前編) -マドラ国 シヴィプラ・パティヤー-
慧は、クル国スターネーシュヴァラへ向かう途中の小さな部落シヴィプラ・パティヤーに到着した。
街道の左右には大きな森があって、その向こうは見渡せない。
特に、これと言った田園も畑も見られない寒村と言えた。
部落の家々は、街道から遥か向こうに見える森の辺りにへばりつくように散在している。また、朽ち果てた家屋や、森の中にかすかに家らしい佇まいを見せる建屋もあって、なんともいえない一種の異様な風景であった。
それらの家々もしんと静まり返っていて、人が住んでいるような気配すら観えない。唯一、家の入口の扉から少しの間が草が生えていないことが、その家のまだ生きている証拠と言えた。
街道沿いに店などはなかった。あるのは、朽ちた祠と石ころばかり。
街道にも人の気配が全くしない。
その部落に入ってから半ヨジャナほど来た処で、慧はヤナカに尋ねた。
(この村、というか部落というか、人の気配がしません)
(このような寒村は、ジャンブディパ(古代インド)には多い)
(何故ですか?)
(シュードラ(従属)だ)
(シュードラ? 人間を階層で区別するカースト制度ですか?)
(いかにも。
獣の血を流す猟師の部落、屠殺を生業にする部落、或いは、呪術や占い、予言や霊媒を生業とする者はジャンブディパの慣習として街の住人や村から忌避と差別を受ける)
(なるほど......)
(ふむ、Niyatiは避けて通れぬ。故、何度も同じ階層に生まれるものもいれば、そうでないものもいる)
(ふーん...でも、自分が同じ階層に生まれ変わったとしても、本人にはわからないですよね?)
(愚人! 汝は、何を学んだ?)
(はいぃ~?)
(スワート谷の娘から何を聞かされたかと言っておる)
(!)
(加えて、愚人。自分の胸に手を当て熟慮せい)
(何故、ここにいる?)
(!)
(よいか、世俗の刹那人生に怠惰を貪り、悦楽に刻を浪費して居れば、真の苦しみとは何たるかを知らず現世を去る)
(⋯…)
(Niyatiは動かない。
だが、それを知って現世を去ること、そのことを知らず死にゆくことは天地の差)
慧は、返す言葉を失った。
これほど、自分の身と心に突き刺さった言葉の刃は、大学時代にも、社会人になってからも受けたことはなかった。
東京で生活している時の自分には、苦しみと言えばシゴトの量が増えたり、納期に追われて残業が増えて睡眠不足になったり、休日出勤したりすること、溜まりに溜まった洗濯物の臭いが我慢できずに洗濯機を回したこと。
その程度しか思い当たらなかった。
自分の出生した家柄によって、自分の社会的な階層が割り当てられて、職業や一生そのままの身分を続けることなど考えたこともなかった。
まして、生まれながらに、社会の外におかれて差別や忌み嫌われることなど想像すらしなかったのだ。
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しばらく行くと、男が二人、道の左脇の草むらから出て来た。
Namokāraṃ.
… ito paraṃ …na gaccha.
Ahaṃ ito paraṃ gantukāmo amhi.
Aññena maggena gaccha.
Añño maggo natthi; imināva maggena paraṃ nagaraṃ gacchati.
Tena hi parivattetvā nivatta.
もう一人の男が、せせら笑いを浮かべた。
Na etaṃ yuaṃ.
(汝よ!沈黙。無関心でやり過ごせ)
(しかし...)
(よいか。沈黙だ)
(はい)
仕方なく、慧は少し道を戻って、民家のない森の方向へ歩いていった。
しばらく歩いていくと草むらの向こうから、何か飛んできて額に当たった。
-ガッシッ!-
「アッツゥ!」
続けざまに、何かが飛んできて背中と腕に当たった。
額に当たったのは握りこぶしほどの石だった。
すでに、傷口から血が吹き出ているらしく、手を当てるとぬるりとした感触が伝わってきた。しかし、衝撃がひどく眼が思うように開かない。
慧は、その場をとにかく離れようと思い、再び、もと来た街道へ出た。
しかし、額の傷は深いようで、両目が吹き出した血で塞がれていて見えない。
仕方なく、額を抑えたまま、その場に座り込んだ。
(やられたな)
(はい、ひどいようです)
その場に座ったまま、どれくらい時間が立っただろう、
額の出血は少し治まってきたが、ズキズキとした痛みは脳に達している。
眼は見えず、とても歩ける状態ではなかった。
Bhante, kacci te khemaṃ?
慧は、その声に頭を上げて、瞼の血糊を拭いてみた。
すると、霞んで見えるその先に、一人の比丘が托鉢の鉢を抱えて佇んでいる。
Bahū te vaṇā; ehi mayā saddhiṃ. Mama dāyakā taṃ paṭijaggissanti.
慧は、言われるがままに立ち上がり、比丘の衣にすがるようにしてついて行った。
程なくして、その比丘は森の中にある一軒の大きな民家に入って行き、慧の手当をするようその家の主に伝えた。
その家の主は、妻を呼ぶとすぐに手当の準備をして、手際よく傷口を洗い清めてから、薬草をすりつぶして薄い布に塗りつけて傷口を覆った。
すると薬草の香りがぷーんと辺りに漂った。
Idāni vaṇā khemaṃ; dve rattiyo sayitvā ruḷhissanti. Idaṃ pivāhi, sundaraṃ karissati.
と言って、ものすごい臭いのする薬湯を差し出した。
その苦みと甘い香りの入り混じった薬湯を飲み干し、横になった。
目を閉じると、ふいにアーロカの入れてくれたお茶の味を思い出した。そして、部屋の中で見たガンダーラ・ニーラの藍色が頭の中に広がっていった。
その藍に包まれて痛みが薄れてゆく中で、慧は深い眠りの奥底へ落ちていった。
【脚注】
◯ シヴィプラ・パティヤー
Sivipura-Paṭiyā
インド、パンジャビ州パティアラ付近。




