第1章-39 大商談 -クル国ハスティナプル-
クル国、首都ハスティナプルにキャラバンは到着した。
Cittamāsa(二~三月)、上弦の月がハスティナプルの街を照らし、白い街並みを幻想的な風景に変えている。
キャラバンの随行者、隊員たちは街なかの旅籠に分宿し、牛飼い達は街の外れで天幕を張り野営をしている。
ジャティラ隊長と経理官は、クル国ギルド長老プンナカ(Puṇṇaka-Vāṇija)との商談のため、ハスティナプルの中央にあるギルド会館を訪れた。
クル国の商業ギルドとの取引は濃密で、ガンダーラ国の主要輸出入先であったため、このキャラバンの積み荷の四割ほどをここにおろす。
会館の門前にはタクシラのギルド会館よりも三倍ほどは広い前庭が広がっていた。
短い芝草に覆われていて、大通りから建物の正面入口まで続く石畳の両脇には、
大きな樫の木が広い間隔で並んでいた。
ジャティラ隊長と経理官は、馬を玄関横の馬柵に繋ぎ、経理官は入口の警備役人に訪いを入れた。
Ayaṃ Gandhāraraṭṭhassa Takkasilāya seṭṭhīnaṃ saṅghato āgato sārathi Jatilo; ahaṃ pana gaṇako Tilunaḍḍo nāma
ジャティラとティルナッドは事務室に案内され、椅子に腰掛けると、程なくして、クル国商業ギルド長老のプンナカが満面の笑みで出てきた。
Aho Jatila-sārathi, cirassaṃ taṃ āgamanaṃ apekkhāmi ahosiṃ
Cirassaṃ adassanaṃ ahosi, thera
Ehi ehi, idha āgaccha
二人は事務室の奥にある長老の部屋に通された。
部屋の中は明るく、三つの方角にそれぞれ大きな出窓がある。窓の扉は両開きで、木製ピボット(軸回転)によって扉を固定してあるので、容易に開閉ができる構造だった。
窓の外には小川が流れていて、鴨の親子が一列になって流れの中を行き来している。岸辺には黄色い花がいっぱい咲いて、その向こうには風通しの良さそうな林も見える。
Ehi, idha nisīda
部屋の真ん中には円形のテーブルがあり、やや後ろに傾斜をもたせた長く幅も広い背もたれの付いた椅子が十脚ほどテーブルを囲んでいる。
ジャティラ隊長とティルナッド経理官は入口側の二席、プンナカ長老は正面の窓を背に着席した。
Sattāhena kira atikkanto āgamanakālo te
Āma, Asanī-nadītīre cha divasāni antarāyena ṭhitā mayaṃ
Asanī-nadī nāma… tattha pabbatantāsu vatantāsu valāhakā sannipātanti; idāni ca vassānaṃ pavesakālo upakaṇṭho. Sace chaheva divasehi taritvā āgatā, bhāgyavantā tumhe. Idāni pana vassakālo pubbeva pavisati; kadāci gimhānepi devo vassati. Dukkaraṃ idaṃ, aho vata… yaṃ kho pana…
話が止まらなくなったプンナカ長老。
これまでにも度々、長老の長話しを経験していた経理官のティルナッドは、これ以上話が脱線しないように先手を打った。
Khama me, thera Puṇṇaka, kathaṃ antarāyaṃ karomi; paṭhamaṃ bhaṇḍassa kammantaṃ kātuṃ labheyyāma nu kho?
Ha! Khama me. Cirassaṃ Gandhārato āgato sārathi, atithi me eso; tasmā kathāya ussāho jāto. Khamatha me. Idāni magga-nāyakaṃ pakkosāpessāmi
プンナカ長老は席を立ち、自分の机の上にある呼び鈴を振った。
程なくすると入口の扉が開いて、女性が入ってきた。
Svāgataṃ vo. Dīghassa addhuno kilamathā khantā vo
アーリヤ人特有のスッとした面立ちで黒い瞳、目元に薄い藍色の化粧を施している。
長い髪は、綺麗にまとめて渦を巻くように頭の後ろ、左耳の後ろの方には白と黄色の枝垂れるような花房に紫の花弁の蘭が飾ってある。いわゆるmālāを着けていた。
女性がお茶の接待をテーブルに準備し終わると、プンナカ長老が女性に指示した。
Magga-nāyakaṃ pakkosāhi
その女性が用意したお茶は、例の一件があったスターネシュバルでも、キャラバン隊の調理担当のモダルが作ってくれたものと似ていた。
しかし、このお茶は、なにか別のスパイスが加えられているようだった。
茶請けに出てきたのは、やはりこの地方の伝統料理なのだろう、ハスの実を中に入れて油であげたロティ、それに若いバナナを潰して薄くしたものを油で揚げたものだった。
ロティの方は非常に甘いが、バナナの方は甘みはなく、サクサクとした食感の塩気が効いた軽食のようなものだった。
お茶と茶菓子をつまみながら、ジャティラが話をした。
Ayaṃ mañco niccaṃ sobhati, thera
Evaṃ vutte tuṭṭho homi. Mama pitāmahapitāmahakālato paṭṭhāya ayaṃ upayutto; sataṃ vassāni upanīto bhavissati
kiṃ rukkhamūlaṃ etassa ahosi?
Sālarukkho ayaṃ; evarūpo mahārukkho idāni dullabho
円形のテーブルは沙羅の樹の枯木を輪切りにしたものだった。直径六ダヌス、厚みも二十アングラあった。側面は樹皮の風合いを残して自然の造形美を醸す。
Thera Puṇṇaka, paṭhamaṃ ekaṃ yācanaṃ atthi
Kiṃ nāma?
Atthi ājīvako pabbajito Gandhārato Magadharaṭṭhaṃ carati.
Ājīvako ti? Dullabhaṃ etaṃ etarahi.
Nāmena Kei; nīlavaṇṇaṃ nivāsanaṃ dhāreti. So ce Kururaṭṭhaṃ pāpuṇāti, anuggahaṃ karotha
Sādhu, āṇāpessāmi khippaṃ
Anumodāmi
Idāni pana, thera, bahuṃ bhaṇḍaṃ ānītaṃ; mama chandena pi bahuṃ ānītaṃ. Seyyathidaṃ Gandhāra-nīlaṃ. Passituṃ icchatha?
Kiṃ vadesi! Gandhāra-nīlaṃ nāma?
Āma, dassessāmi pītiyā
Atthi ca ratanaṃ ca lohadhātu ca acchariyaṃ
Handa, taṃpi passeyyaṃ. Iminā vayena aññadesiyā bhaṇḍāniyeva me nandī
西向きの窓の外から、木の香りを含んだ爽やかな風が入ってきた。
ジャティラがふと気づいたように眼を窓の外へ向けながら言った。
Lohadhātuṃ nāma… evaṃ
Lohadhātu kiṃ?
Sattāhassa matthake Sthāneśvara-dvārepi acchariyaṃ lohadhātuṃ addasaṃ
Evaṃ?
それまで、満面の笑みだったプンナカ長老の眼が、鋭い猛禽類のような眼差しに変わった。
その、鋭くなった眼を、ジャティラはにこやかに押し返すようにじっと見つめる。
-ガチャッ-
Okāsaṃ karotha
そこへ、ひげの濃い長身の契約官が入ってきた。
経理官のティルナッドがジャティラとプンナカ長老に声をかけた。
Idāni kammantaṃ ārabhāma
Evaṃ, sesaṃ tumhe karotha
Handa, thera, gacchāma?
Āma, dassetha
ジャティラは、長老の部屋を出て入口の馬柵に繋いであった馬に乗った。
しばらくすると、プンナカ長老が見事な黒毛の馬に乗って、建物の裏手から出てきた。
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その頃、ワジラの旅芸人一座は予定していたハスティナープラを経由せず、インダパッタに直接入った。
“Vajirā, udakaṃ āhara.”
“Āma, jānāmi.”
飯炊き女マリカを手伝って、ワジラは川に水汲みに行った。
ヤムナー川は、西に傾いた陽の光を照り返し、川面いっぱいに銀の帯をキラキラとゆらしていた。
ワジラはサンダルを脱ぎ捨てて裸足になると、なだらかな土手を下りた。
腰巻きの腰のところをクルクルと両手でまくりあげ、膝上丈ほどにしてからゆっくり岸辺から流れの中に入っていった。
湿った砂が足裏に心地良くまとわりつき、三歩進むとひやりとした川の水が白いふくらはぎを撫でていく。
彼女は腰をかがめ、水くみ用の革袋の一つを静かに差し入れる。
-コポッ コボボボボボ-
水面が割れると、革袋が吸い込む水の音が小気味良く返ってきた。
向こう岸で、カササギか千鳥の鳴き声が聞こえ、風が吹くたびに水際の葦が揺れて擦れる音がしていた。
遠くのほうから街道の荷車の軋みが聞こえてくる。岸では気づかなかった川の匂いがワジラを包み、革袋が満ちてゆく重さを右手で感じていた。
革袋に、ドローナほどの水が満たされると、ワジラはそれを川の流れから引き上げ、取手の縄を左肩にかけた。
“Alaṃ, niṭṭhitaṃ. Sādhu kataṃ te, Vajirā.”
川から上がると、腰布を右手で整え、ワジラは歩き出した。
一歩歩くたびに袋の底から滴がしたたり落ちては、キラッ、キラッと光っている。
ワジラの背後では、向こう岸にいた鳥がこちらの岸に移ってきたらしく、先程よりも賑やかに鳴いていて、まるでワジラの後ろ髪を引くようだった。
二十ダヌスばかり歩いたところで、
“Uhu, garukaṃ. Ayaṃ pana niccakammaṃ.”
“Ayyo, dukkhā vata! Pādatalasmiṃ khuddakapāsāṇo vijjhati… aho, Upāhanā! Upāhanā na dhāritā mayā!”
“Are,bālā ahaṃ, atibālāyeva. ”
BGM:
"More Than a Feeling"
ワジラはクルッと回れ右した。
すると、首にぶら下がっているクマのペンダントが大きく左右に揺れ、まるでワジラを見て笑いころげているようだった。
“Alaṃ, niṭṭhitaṃ. Sādhu kataṃ te.”
と、一人芝居のような独り言を言いながら、さっき水をくんだ川岸に戻っていった。
揺れていたくまのペンダント。
木彫りのくまが抱えた翡翠の玉が、いつになく深い緑色に変わって鈍い光を放っていた。
ワジラは、その事には気づいていなかった。
【脚注】
◯インダパッタ(indapatta)
現在のインド・ニューデリー付近
◯ Yamunā(ヤムナー)
古代インドの大河の一つ。
ヒマラヤから、現在のデリーをかすめて東に向かうヤムナー川。
◯ドローナ(droṇa)
約12–16 L
国・地域によって差がある。
◯装飾品に関する在家の戒
在家の五戒、八戒があり、瞑想寺院などでリトリートに参加する際、八戒に含まれているこの戒を義務付けられる。
従って、スマホ、パソコンはNG。
”私は、ダンス、歌、音楽、娯楽を見ること、
花輪を着用すること、香水を使用すること、
装身具、化粧で体を美しくすることを控える
という戒めを守ります。”
(mālā(花輪・花飾り)イメージ)




