第1章-37 蛇使いの森 #2 -マドラ国 ナガ・スーリヤ-
(前回からの続き)
カップラヴァーサで会った蛇使い父娘の招きで、一族の住む森へ招かれた慧。そこでこれまでにない危機に遭遇!?
森の奥の方へゆくと、きれいな湧き水が出ている岩があった。
水が落ちてゆくところには、きれいな黄緑色の苔がびっしり生えている。
その下の水たまりというか、小さな池のようになった湧き水は、透明度が異常に高く、結構な深さがあると思われる水底まで、くっきり見える。
試しに、右手で掬って飲んでみた。
(...鉱泉...水?)
慧がそう思ったのも無理はない。
湧き水は冷たく硫黄の香りが微かにあり、少し苦みと甘みのあるような味が口の中に広がった。
その岩清水からしばらく歩いたところに、花畑のような敷地が広がった。ここも人手が入っている様子が伺える。
その花畑の手前に小川が流れていて、そこまでゆくと流れの中に、一ウィスタスニほどの魚が群れで泳いでいるのが見えた。
しばらく、その魚の動きを見ていると、後ろから肩を叩かれた。
振り返ると、あのカップラヴァーサで会った娘、サレーユが立っていた。
”Āho. Svāgataṃ.”
”Svāgataṃ, ajja. Ajjā tumhe pubbe āgatā.”
”Āma.”
”Ajja, tvaṃ kuto āgato.”
”Gandhāra-janapadato.”
”Etaṃ jānāmi. Na taṃ pucchāmi. Atidūratova āgato si, no.”
(!)
”Kasmā taṃ jānāsi.”
”Jhanaka-ajjena sutam.”
”Kiṃ.”
(バ・バ・バ・バンテェ~どうゆうこと?)
(・・・)
(言わなかったか?我は蛇使いの出身だと)
(聞いてねぇし)
(我は、ガンダーラの南に住む蛇使い族から出家しアージーヴィカ行者になった)
(えー、それならそうと最初から言ってくださいよぉ)
(汝は聞いたか?)
(あ、そう来る)
(蛇使い族は、住む場所や国が異なれども相手の心を読む。娘も、我の存在を認識した)
(ふぇー、まったくもう)
”Evaṃ ce. Tena suṇāhi. Ahaṃ na kevalaṃ Gandhāre, na ca Kuru-janapade. Ahaṃ dūre puratthimassa ante Nippon nāma janapadato āgato. Citta-mattena pana.”
”Evaṃ kira. Tasmā tvaṃ dūre janapadato āgato si.”
”Āma.”
”Ajja, tava janapade kiṃ atthi.”
”Kiṃ nāma. Aho. Dukkaraṃ vattuṃ.”
はっきりと答えられない慧の目を、サレーユはじっと見つめながら首を斜めに傾げた。
”Ajja, tava janapade sabbe manussā sukhitā.”
”!”
慧は、その言葉を聞いた瞬間、視線を足元の流れへ落としていた。
喉の奥に妙な苦みを感じて、ゴクリと喉を鳴らした。
”Kiṃ bhuñja”
”Odano mūla-bhojanaṃ. Sūkara-maṃsañ ca kukkuṭa-maṃsañ ca. Kadāci Gyūdonaṃ nāma, no pana taṃ, go-maṃsampi bhuñjāma. Macchāpi nānāvidhā. ”
”Aho. Ati-sampannaṃ kira tava Nippon.”
”Na atisampannaṃ.”
そこまで言って、慧はふと言葉に詰まった。
自分のいる、いや、いたニッポンはみんなが幸せなのか?
それは、自分が一番よく知っていることだった。だが、それを答える気にはならなかった。
(日本での...自分の普段の生活は、この国の何倍、何十倍も豊かな食事、豊かなモノで溢れている。しかし、それが個々の幸せに結びつくかと聞かれれば、俺は、どう答えたら良いのか...)
食べているものが何か?
いつも食べているフツウの食事、街で食べるランチの定食や、コンビニの何気ない弁当、サンドイッチなどを思い浮かべた時、この古代インド遊行で食べる托鉢食は、想像すらしたことのない究極の貧困食と言えた。
BGM
“Mavurbo Sriyani Song”
今ここにあるものを働いた分だけ、その日、家族が生きてゆく分だけ食べる。
ただそれだけのこと。
だが、現代の日本の食生活をこの時代のスケールに充ててみたときには、このクル国の王様でも食べることができない『贅沢に超が付くほど豪勢な食事』と言えた。
そのことを、第三者である別の時代の別の国の、しかも十歳にも満たない娘に言われて、慧は鮮明にそのことに気づかされた。
(”みんなが幸せ”って...
どういう状態を言うのだろう?)
サレーユがふいに頭を上げて森の方角を見た。
”Sajjitaṃ.”
辺りに何の音沙汰もないにもかかわらず、サレーユはそう言った。
森の向こうからは、相変わらず涼しく木の香りを含んだ風が心地よく吹いてきていて、空は澄み渡ったように青かった。
しかし、慧の胸のうちには、いつもとは違う何かを感じていた。
あるいは、これまでにない胸騒ぎとも言えた。
(やっぱり、なにか引っかかる......)
【脚注】
◯ウィタスニ
約22.8cm




