第1章 ワジラの卵割り -マドラ国 小さな宿場街-
クル国の税関・検問所まで十二ヨジャナ。そこはマドゥラ国北東端の小さな宿場街だった。
ジャティラ隊長の率いるキャラバンは宿を分散して取り、荷を倉庫へ入れ、牛やラクダを柵つきの草地で休ませた。
ガンダーラ国首都タクシラを出ておよそ六十ヨジャナを辿り、次の満月も近い。
補給と休養のため、この街の出発は三日後の夜明けとなった。
ワジラのいる旅芸人一座も、この街に滞在して三日間の興行をしていた。
小さな町なので、首都のような演芸場はないが、酒場の奥に板張りの小さな舞台がある。そのような店を何軒か回っては稼ぐ。
舞台が終わり、客が引けると一座は自分たちの宿営地となる村外れの草地へ帰っていった。
一座の住まいである中規模の天幕の前には篝火があり、向こうでは石を積んで作った即席のかまどで、大きな鍋から湯気が上がっている。
その湯気はスープの美味そうな匂いを運んできて、ナガの鼻をくすぐった。
ナガは自分の宿を出ると、ワジラのいる天幕の前に立った。
中の様子を伺っていると、年増女が出てきて目が合った。
“Ko tvaṃ nāma?”
“Atthi nu Wajirā nāma dārikā?”
“Wajirā pacchato atthi.”
“Sādhu.”
年増女は、そうナガに言うと笑い顔を残してかまどの方に歩いていった。
天幕の裏手に回ってみると、短い掛け声を掛けながら、ワジラが細い腰と肩が出るほど短い上着を着て、鋭い動きをしながら中年の男を相手に動き回っている。
どうやら、何かの武術鍛錬をしているようだった。
ナガは、そのまま声を掛けずに、ワジラの動きを見守っていた。
飛びかかる相手の一撃をしゃがむようにしてかわし、パッと振り向いたワジラと眼が会った。
“Aho, Nāga”
ナガは軽く手を上げて答えた。
“Thokaṃ āgamehi; vatthaṃ parivattetuṃ gacchāmi.”
そう言うとワジラは天幕の入口の方へ走っていった。
ナガは、ワジラが急に消えたあと一人残された中年の男に尋ねた。
“Kiṃ pana karosi?”
“Yuddhasippa-sikkhāya sikkhāmi; ratti-rattiṃ yeva karomi.”
そう言うと、
男も天幕の入口の方へ歩いていった。
空を見上げると、月は白く光っていた。満月が近いのが見て取れる。
しばらくするとワジラが戻ってきた。
“Cirassaṃ.”
戻ってきたワジラは、焦げ茶の木綿生地に、大きく蔓草柄を染め抜いた長い腰巻きに着替えて出てきた。大急ぎで水浴びをしたらしく、長い髪がまだ濡れている。
水を浴びたばかりのワジラからは、若草を思わせる匂いが、あの時よりもさらに強く立っていた。
“Tvampi imaṃ nagaraṃ vasasi nāma.”
“Āma.”
“Yāva kadā idha vasissasi?”
“Suvāṇṇadivasa-pabhātā yāva idha vasissāmi.”
“Mayañca cattāro divase idha.”
“Evaṃ kira; dukkhā bhavissati.”
“Paricitaṃ mayaṃ; api ca gāyituṃ piyaṃ.”
ワジラはナガの左横に座ると、ためらいもなく身を寄せて聞いてくる。
“Ahaṃ aṭṭhārasa-vassikā; tvaṃ pana, Nāga?”
“Ahaṃ saṭṭhi-vassiko. Wajirā, mātāpitaro vā bhātaro vā kathaṃ?”
“Pitā me yuddhāya gato; mātā pana maṃ imaṃ gaṇaṃ netvā paviṭṭhā, sā ca rogena tayo vassāni atikkamma kālaṅkatā.”
“O, khamāhi; pāpakaṃ pucchiṃ.”
“Mā cintayāhi; pubbeva etaṃ. Idha sabbe maṃ piyacakkhunā passanti, tasmā sukhā’mhi.”
“Evaṃ kira; sādhū.”
“Thokaṃ āgamehi; ramaṇīyaṃ kiñci dassessāmi.”
そう言うと、ワジラは再び天幕の中に戻っていった。
すぐに戻ってきたワジラは、手のひらに鶏の卵を乗せていた。
ナガは、不思議な顔をして、
(卵?なにをする?)
“Passa tāva.”
ワジラは右手の親指と人差指で卵の下の方をはさみ、顔の前で卵が上を向くようにして持った。そして、大きく口を開けて、息を思い切り吸い込むと、声ではない音を出した。
―シェーーーーーーーン―
―シェーーーーーーーン―
―シェーーーーーーーン―
―シェーーーーーーーン―
―シェーーーーーーーン―
-ピキッ-
―シェーーーーーーーン―
―シェーーーーーーーン―
-ピキッ-
―ピキッ-
-ピキッ-
ーパカッー
卵の腹の部分が横一文字に割れた。
ワジラはニコッと笑うと、親指と人差指で挟んだ半分の卵を口元に持ってゆき、ぱっと上を向いて卵を飲んだ。
“Kathaṃ? Na sundaraṃ?”
“Acchariyaṃ! Paṭhamaṃyeva passāmi.”
“Hehe, rahassaṃ ,,,pakāsesiṃ.”
“Āma, evaṃ kira hoti.”
ジェルムで見た魔術師の技が、ナガの脳裏によみがえった。
“Api ca camma-rajju pacchā chinnā ahosi.”
“Huhuhu, taṃ pana na kathessāmi.”
“Maccharī hosi.”
“Na vaṭṭati, ekaṃsena na vaṭṭati. Sace vadeyyaṃ, pacchā ativiya kujjheyyuṃ; api ca saddahissanti na.”
“Evaṃ ce, pajahāmi.”
“Huhuhu.”
しばらく会話が途切れ、ワジラが何かの唄を低い声で口吟んだ。
[BGM]
"Lefelach Harimon"
南西の方角の空には、時折、流れ星が走る。
月の白い光はワジラの顔を照らし、左と右の瞳を宝石のように輝かせていた。
ナガは、彼女を見つめている。
ワジラは歌いながらナガの方を向いた。
ナガの真剣な眼差しをワジラの瞳が受け止めた時、唄の調子がわずかに揺らいだ。
ナガは、ワジラの右と左の色が違う瞳を交互に見つめた。
その時、不意に脳裏にあの占い師の言った、もう一つの言葉が蘇った。
-Na time-
ナガは、その言葉を振り払うように、右手でワジラの小さなアゴをやさしくすくい上げると、そのまま、自分の唇でワジラの唄う口を塞いだ。
濡れた髪の先から滴が落ちた。
【脚注】
◯古代インド時代の旅芸人の記録は随所に見られ、旅の娯楽の一つになっていた。
キャラバン隊商には護衛(傭兵部隊)がいるが、旅芸人の一座には、そのような者はいない。では、どのようにして、野盗や山賊から身を守ったか?
最大の防御方法は、金銭や宝石貴金属をほとんど持たないこと。
実際には、街ごとに興行があるため、結構な額の収入があるわけだが、その収益をそれぞれの街に分散して預け置きし、必要な金額を引き出すことが可能ないわゆる小口銀行のような組織があり、そこに貯蓄をしていた。
故に、旅の途中の旅芸人を襲っても、金になるものがないことを野盗も知っていた。しかし、山賊の中には女や子供目当ての賊がいて、人身売買の人材としてさらってゆく。それには自衛が必要であった。
(もっとも、その"人さらい"との攻防が外伝では主軸に置かれるのだが⋯)
古代インド時代の北方大街道にあるこのような宿駅は、キャラバンの食料や水、必要な資材を補給する重要な役割を持ち、街の経済活性とともに他の地方からも人が集まり定住した。
しかし、物流のメインルートが海上輸送に変遷してゆく過程の中で、このような宿駅もやがて衰退していった。




