妹
「あなた、変わったわよねぇ~」
僕が言い出しかねて躊躇している間に、先に口を開いたのは師匠の方だった。
「緑相学士として立派になりつつあったからこそ、遠方への調査依頼を任せたのだけど……少し帰りが遅いから心配していたのよ? まさか、お嫁さんを連れて帰ってくるなんてねぇ。そうよねぇ、もう子供じゃないものねぇ」
「……色々と予想外のことが立て続けに起きて、すぐには戻れなかったんです。僕だって、自分がまさか結婚するなんて、あの時は微塵も考えていませんでしたよ」
僕が肩を竦めて苦笑すると、師匠は目をきらきらと輝かせ、身を乗り出してきた。
「それでそれでぇ~? どんな素敵な出会いだったのぉ? 運命的な出会いの第一声は、一体どんな甘い言葉だったのかしらぁ~?」
完全に世間話し好きの顔で踏み込んでくる師匠。隠すようなことでもないので、僕は淡々と事実を口にした。
「『僕の妻になってくれ』……と言いました」
「……へ?」
師匠は度肝を抜かれたように、口をポカンと大きく開けて硬直した。
「つい、勢いで言っちゃったんですよね。そうしたら彼女も了承してくれて。そこからなんだかんだと命の危険に晒されたりもして……時間がかかって、ようやく故郷に連れて戻ってきたわけです」
師匠は呆然としたまま、僕の言葉の意味を必死に噛み砕こうとしているようだった。まあ、当たり前だ。あんな破天荒すぎる馴れ初めを、数行の言葉だけで理解できるはずがないのだから。
「……そう。可愛い弟がいつの間にか、初対面の女性にいきなり求婚するような手の早い男に育っていたなんて、お姉ちゃん驚きだわぁ……。でも、それほどまでに魅力的な奥様なのかしらねぇ」
師匠になら、彼女の正体が俗に言う「不老不死」の存在であることを明かしても問題はないかもしれない。だが、一度面白がると歯止めが効かなくなるこの人の気質を考えると、今はまだ伏せておいた方が無難だろう。
彼女の魅力をどう伝えるべきか――師匠の趣味になぞらえるなら、答えはひとつだった。
「そうですね……彼女は、強いて言うなら『蕾』かもしれません」
「蕾……?」
「根は途方もなく広く深くて、おそらくこの世界そのものにまで深く根付いている。芯はどこまでも真っ直ぐで、何があっても折れることのない強さを持っている……それくらい果てしない、確固たる信念を持っています。なのに――これからどんな花を咲かせるのかは、まだ誰にもわからない。たぶん、僕が彼女に惹かれた理由は、そこなんだと思います」
僕の言葉を、師匠は静かに、けれど慈しむような目で見つめながら聞いていた。
「それほどまでに魅力を秘めた子なら、私もぜひ会ってみたいわねぇ~! ……あ、ちょっと待って! 弟の奥さんってことは、つまり私の『妹』ってことじゃないのよぉ~!」
「どういう理屈ですか。なんでもかんでも勝手に家族をつくらないでください」
思わず呆れ声が出たが、ふと考え直す。
「……でも、案外師匠とは気が合うかもしれませんね。彼女、未知の知識にはすごく興味を示しますから」
「うふふ~! 家族は多い方が絶対に楽しいわよぉ~! あぁ~、早く会いたいわねぇ。会えたらねぇ、まずは……」
師匠は早くも妄想を膨らませ、新しい『妹』をどう可愛がろうかと胸を踊らせている。
実際に二人を引き合わせたら、距離感の近い師匠は間違いなくいきなり抱きしめに行くだろう。そして存在からは、氷のように冷たい罵倒が浴びせられるに違いない。
(……でも、どうしてだろうな)
そんな惨状が目に見えているというのに。なぜかその光景が、まるで本当の姉妹の戯れのように思えてしまい、僕は小さく口元を緩めた。
存在についての話は、学園からの打診へと話題を誘導するのに格好のきっかけとなった。
ここから、今日の本題へと話を移すとしよう。
「実は、彼女は魔法を扱うことができて、うちの弟にも稽古をつけてくれているんです。その弟経由で、学園の方に彼女の噂が広まりまして……」
「ふむふむぅ〜、魔法がとってもお上手な奥様なのねぇ〜」
「はい。それで、先日は家に学園長自らが訪ねてこられて、彼女を直々に学園へ招待されたんです」
「……学園。懐かしいわねぇ〜。あの学園長様のお目にかかるなんて、相当な実力者なのねぇ〜きっと。今でこそ穏やかかもしれないけれど、私が通っていた頃は野心家というか、学園を大きく変えようと躍起になっていたわねぇ。それが今の科学との交流にも繋がっているわけだけど……かつては優生思想、とまでは言わないまでも『才覚には見合った席を与えるべきだ』という考え方が透けて見えていたわぁ。明確に選別をしているようには思えたわねぇ〜」
なるほど、長年対立していた魔法と科学の融合。そのきっかけを作ったのは、あの学園長の影響だったのか。
ただ、僕が先日目にした学園長の佇まいからは、師匠の言うような厳格さや野心的な気配は微塵も感じられなかった。
「僕の知る今の学園長とは随分と印象が違っていて意外ですが……彼女がかなりの高みに位置する魔法使いだというのは、おそらく間違いないと思います」
「……そんなに若いのに、本当に凄いのねぇ〜」
いつもはお喋りな師匠が、ふと視線を落とし、小さく感嘆の息を漏らした。
思考を巡らせているこの機会を、逃すわけにはいかない。
「学園側の目的は、彼女を講師として迎え入れることです。学園がどういう場所なのかを一度肌で知ってもらうための見学に、僕も付き添って行きました」
「それでぇ〜? 彼女の答えはどうだったのかしらぁ〜?」
「受けました。彼女自身の望みと、学園側の思惑が噛み合ったからです。……そして、そこで僕にとってもうひとつ、予想外の出来事が起きまして」
視線を落としていた師匠が、顔を上げてまっすぐ僕を見つめ返してきた。
ここからが本当の本題だ。このために、今日は並々ならぬ覚悟を持って師匠の元へやってきたのだから。もう僕の心に迷いも揺らぎもない。
「どういうわけか……学園長は僕のことも学園に誘ってくださったんです」
師匠の瞳が大きく開かれた。
言葉の意味を必死に噛み砕こうとするように、瞳孔が収縮し、じわじわとその事実が彼女の中に染み込んでいくのが分かった。
「講師としてではありませんが、僕という人間が学園には必要なのだと……。僕は、この誘いを受けようと思っています。かつて一度逃げ出したあの場所で、もう一度真摯に向き合う機会をいただけた。これを逃すつもりはありません。ですから――」
――バタンッ!!
言葉を最後まで紡ごうとした矢先、師匠は大きな音を立てて勢いよく机を叩き、身を乗り出してきた。
「ちょっとぉ〜〜っ!! 私の身の世話はどうするのよぉ〜〜っ!!」
「……はい?」
勢いよく机を叩いて身を乗り出してきた迫力とは裏腹に、口から飛び出してきたのは実に安っぽい悲鳴だった。
「私の朝を優しく告げる、小鳥の目覚まし時計はぁ〜!? 私の食卓を彩る、太陽の庭師はぁ〜!? 幸せを小皿に溶かしてくれる、大事な魔法使いはどうなっちゃうのよぉ〜!? それからねぇ、それからねぇ〜っ!」
「……あの、小鳥とか庭師とか魔法使いって、全部僕のことですよね? いくらなんでも例えが乙女すぎませんか?」
「私を心地よい眠りへ誘う月の子守歌にぃ、一緒にお風呂で洗いっこする妖精の案内人! それが全部なくなっちゃうなんてぇ〜! そんなの私、生きていけないわぁ〜〜っ!」
「後半の部分に関しては全く身に覚えがありませんが、師匠は普段から僕に対してそんな妄想を抱いていたんですか……。とにかく、一旦落ち着いてください」
怒涛の勢いで押し寄せる迫力よりも、彼女の口から次々と奏でられる意味不明で呆れた言葉の数々に、僕はただただ圧倒されるしかなかった。なるほど、年々ダラしなくなったと思っていたけれど、彼女は彼女なりに僕という存在をそんな乙女チックな幻想の目線で楽しんでいたのだろう。
「んっ〜〜〜〜っ!!」
まだ溢れ出してきそうな言葉の嵐を、師匠は両手で必死に口を塞いで必死に抑え込んでいる。その必死な表情も、どこか憎めなくて可愛らしい。
「……安心してください。僕は『緑相学士』の仕事を辞めるつもりはありません。この仕事に誇りを持っていますし、大好きですから、これからもずっと続けていきます。ただ……学園の仕事と行き来することになるので、これまでのように師匠の身の回りの世話をしたり、補助に費やせる時間はどうしても減ってしまうと思います」
僕の言葉を聞いた瞬間、師匠の全身からすーっと緊張の糸が解けていった。
彼女は深く息を吐き出すと、ゆっくりと自分の席へ腰を下ろした。
「……そう。よかったわぁ〜。あなたまで私から離れていってしまうなんてことになったら、私、どうにかなっちゃいそうだったもの……」
(……あなた『まで』?)
師匠の口から漏れたその言葉が、妙に心に引っかかった。
この十年間、この街でたった二人きりで緑相学士として共に歩んできたはずだ。それなのに「僕まで離れる」とは、一体どういう意味なのだろうか。
「緑相学士としての自分も、学園で自分にできる役目も……僕はどちらも諦めたくありません。僕の意志は固いです。ですが、幼かった僕を救い、ずっと一番近くで見守ってくれた尊敬する師匠に、きちんと筋を通して許可をいただきたいんです。……まだ両立できるか分かりませんが、僕はもう二度と逃げません。どうか、僕を信じて背中を押してください」
僕は深く、深く頭を下げた。
これは、これまでの十年間への感謝の形だ。
あの試験から一人で惨めに逃げ出し、暗闇の中で怯えていた幼い僕を、温かな抱擁で照らし出してくれた師匠への、偽りのない心からの敬意。
この人がいなかったら、今の僕は絶対に存在しなかった。それほどまでに大きな恩人だからこそ、自分の中に生まれた覚悟も誇りも、やましいものも含めて、何一つ隠さずにまっすぐ向き合いたかったのだ。
部屋の中に、ほんのわずかな静寂が訪れる。
深く頭を下げたままの僕の頬を、一筋の冷や汗が静かに伝っていく。
やがて、静けさを破るように、彼女の口がそっと開かれた――。




