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不老不死にはわからない  作者: ある
流儀

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恋してる

「あの……結婚祝いとして、これを譲ってもらうことってできますか?」


 棚の奥から『それ』を取り出し、師匠へと向ける。

 使い込まれているが、とても大切に手入れされていた。


「えぇ……? そんなものでいいのぉ〜? もっとこう、素敵な贈り物を用意した方がいいんじゃないかしらぁ~」


「いいえ、これがいいんです。これがきっと……僕の『眼差し』への第一歩になると思うから」


「そう……あなたがそれが良いって言うなら、喜んであげるわぁ」


 受け取ったそれを両手でしっかりと抱え、僕は振り返って師匠を見つめた。

 きょとんとした表情を浮かべる師匠。その背後の窓越しに、あの花壇が映り込んでいた。


 色とりどりの花々に彩られた、今朝も眺めた花壇。

 その隅にひっそりと植えられた、可憐な黄色の花。小さく、けれど力強く咲くその姿は、まるで花びら一つひとつで懸命に何かを訴えかけているようだった。


(そうだ……どうして忘れていたんだろう)


 脳裏に、幼い頃に見たあの夢の光景が蘇る。

 師匠が小さな手のひらに載せてくれた、僕自身を象徴するような一粒の種。

 あの日、師匠と出会った時から、僕たちの物語は始まり……彼女は常に僕に温かな眼差しを向け続けてくれていたのだ。


 それから師匠と共に過ごした十年間は、本当に楽しかった。

 試験から逃げ出し、世界に置いてけぼりにされて「誰にも必要とされていない」と感じていた惨めな感覚を、彼女は優しく紛らわせ、拭い去ってくれた。


 すべてをそっと包み込んでくれる、柔らかくて温かい師匠。

 成長するにつれ、僕はただの師匠としての尊敬だけでなく、一人の魅力的な女性として彼女に惹かれていった。不器用に背伸びをしては、少しでも彼女に近づこうとして呆れられるような振る舞いもした。

 あの幼い憧れは、間違いなく淡い恋心のようなものだったのだろう。


 当時は、幼さゆえにその感情の正体を理解できずにいた。

 けれど――あの『彼女(存在)』と出会い、夫となったことで、その疑問に決着がついた。

 契約のような奇妙な関係から始まり、彼女と共に時を重ねる中で、僕は「恋」と「愛」の意味を知った。いや、知りはじめたが正しいのかもしれない。そしてその実感が、決定的に師匠への感情との違いを定義してくれたのだ。


 尊敬と言うには、あまりにも距離が近すぎた。

 恋と言うには、あまりにも遠すぎた。


 そう――僕は、師匠を「敬愛」していたのだ。

 ただの敬いだったなら、もっと離れた場所から見上げるだけで満足できたはずだ。

 恋だったなら、もっと欲深く、彼女の隣を求めて踏み出していたはずだ。

 そのどちらにも収まりきらない、あまりにも温かく愛おしい、この曖昧な距離感。


 窓辺の小さな黄色い花が、十年という時を越えて僕に眼差しを向け、大切なことを思い出させてくれた。

 かつて夢の中で聞いた、どこか霞んで消えそうだった、意味すら分からなかった師匠の言葉。

 窓の外に咲く黄色い花と、夢の中の言葉が、今、完璧に一つに重なり合う。


「……あの時の質問の答え、ずっと言えていませんでしたね」


 僕は扉に手をかけ、ゆっくりと開きながら、師匠とあの花へ溢れんばかりの感謝を込めて微笑んだ。


 還ってきたのだ。長い時を越えて。

 一見くだらなくて、当時は師匠にしか理解できなかったはずの、彼女の根底にあり続けていた小さく温かい願いの籠もった想いが。

 ずっと置き去りにしていた大切なものを拾い上げた、これは僕からの小さな恩返しだ。


『ねえ、君は――花が好き?』


「――僕も、花が好きですよ」


 言葉を紡ぎ終え、僕は作業場を後にした。

 最後にその答えを受け取った師匠がどんな表情を浮かべたのか、振り向かなかった僕には見えなかった。


 窓の外の黄色い花が、嬉しそうにゆらりと揺れた気がした。




「さて、僕の可愛い妻は、今頃どうしているかな」


 師匠の家を後にし、帰路を歩く僕の足取りは驚くほど軽やかだった。長年、胸の奥で重く澱んでいた過去の迷いや重荷が、まるで陽光に溶ける氷のように綺麗に消え去り、歩幅に合わせて身体が跳ねるようだった。


 あの周囲に左右されない彼女のことだ。もしかすると「昼寝」という名目で、まだベッドから起き上がってすらいないかもしれない。

 しかし……最近の彼女は、僕たちの生活に合わせるように、母さんの家事の手伝いをしたり、庭の草木の手入れを自分から進んでやってくれているような気もする。


『君以外の人間というものの生活様式を覗き見るのも、いい暇つぶしになる』


 いつだったか、彼女はそう淡々と言っていた。

 彼女の果てしない途方もない時間の中で言えば、今の暮らしなんて観察日記のほんの一ページに過ぎないのかもしれない。けれど彼女は、その日記を自分の手で丁寧に書き留め、僕たちとの日常に起きる小さな変化を決して見逃さないでいてくれる。


「そっか……。夫らしく支えなきゃとか、男らしく導かなきゃなんて、肩肘を張って重く捉えすぎていたのかもしれないな」


 木漏れ日の中、僕は一人で小さく苦笑した。

 難しい理屈なんて必要なかったのだ。


「だって――僕は今、君に『恋』をしているんだから」


 口に出したその言葉に、もう一切の迷いも曖昧さもなかった。

 遠くから静かに眺めているだけじゃ物足りない。かといって、ただ隣に並んでいるだけでも足りない。

 彼女の視線を、その深い瞳を、もっと僕の方へ向けさせたい。

 自分の中に湧き上がってくる、このどうしようもなく勝手で身勝手な想い。


「関係性の順序が先走りすぎちゃっただけで、僕は『始まったばかり』なんて口にしながら、本当は何一つわかっていなかったんだ。……いつか『好き』という言葉だけじゃ足りなくなって、『愛している』って伝えたいと思うようになるのかもしれないな」


 芽生えたばかりの、いとおしい恋心。

 彼女という果てしない存在を包み込むには、まだ少し頼りなくて、ただ惹かれ惹かれて振り回されるだけの淡い感覚。一方的なこの感情だけでは、彼女に何かを与えられる領域には届かないかもしれない。


 しかし、それでもいい。深く思い慕うこの気持ちを、僕は僕なりの形で、泥臭く彼女へ届け続けていくのだ。


 彼女は、まだ固く閉じられた『蕾』だ。

 これまで積み重ねてきた過去、そしてこれから二人で重ねていく時間。学園という新しい場所で浴びる、未知の強い日差し。

 それらを糧にして、彼女は一体、どんな美しく豊かな花を咲かせるのだろうか。


「帰ったら……今日はどんな話をしようかな」


 これまでは彼女に遠慮して、慎重になりすぎて、踏み込みすぎない絶妙な距離感を保とうとしていた。

 だけど、そんなものは全部飛び越えていけばいい。

 なぜかって? ――これは『恋』なのだから。

 どこまでも身勝手で、いつだって突然芽生えて暴れ出すのが、恋というものの醍醐味なのだから。


 一人の「夫」として、彼女の隣を寄り添って歩き、一歩一歩と未来を踏みしめていく。

 僕たちの残していく足跡が、どうか明るい明日へと続いていますようにと祈りを込めて。


 やがて二人だけの家を建てるという、学園での新しい目標に胸を躍らせながら、僕は好きな人の待つ我が家へと足を速めた。

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