異人
扉を開いた先に広がるのは、この街にたった二人しか存在しない「緑相学士」の作業場だった。
決して広い場所ではない。本来なら二人で使うには十分な広さがあるはずなのだが、部屋中の机という机の上に、ありとあらゆる文献、書き留められた膨大な資料、未知の種、そして様々な植物の標本が足の踏み場もないほど散乱していた。
もっと綺麗に整理整頓すれば、今よりずっと広々と使えるはずなのだが――散らかり放題の書物とは対照的に、瓶に生けられた種や花々だけは、なぜか不思議なほど規則正しく並べられている。部屋の片隅の暗がりでは、最近二人で植生を調べている特殊な花が発光し、柔らかな灯りとなって静かに室内を照らしていた。
漂ってくるのは、いつもの慣れ親しんだ青々しい植物の匂い。
その部屋の奥、窓から差し込む朝日に照らされながら、机の上にうなだれている女性の姿があった。
僕の師匠だ。
開かれたままの分厚い本、そして手にはペンを握りしめたまま。昨夜も植物の観察記録を書き記している途中で、そのまま落ちてしまったのだろう。
「はぁ〜……やっぱり、また仕事の最中に寝ちゃって……」
ため息が漏れる。彼女にとって「仕事」と「生活」の境界線は酷く曖昧だ。自分の純粋な趣味や生き方そのものが、そのまま緑相学士という職業として成り立っているだけなのだから。
「これって本来は大問題だからね……? 弟子を差し置いて遅くまで働かせてるなんて、世間が見たら僕が悪者扱いされるんだから」
呆れ果てつつ小声で溢すものの、僕の心配を他所に、師匠は実に幸せそうな寝顔で「すぅー……」と気持ちよさそうに寝息を立てていた。夢の中でもまだ見ぬ種や大好きな花と戯れているのか、時折楽しそうな寝言まで漏らしている。
(……まったく、この人は)
少しだけ悪戯心が芽生えた。男は静かに呼吸を整え、胸いっぱいに息を吸い込むと――
「朝ですよぉぉおお!! 起きてくださーーい!!」
「……僕はお母さんかよ」と心の中で自分自身にツッコミを入れつつも、これはこの十年間、幾度となく繰り返されてきた「いつもの朝」の光景だった。
「ひゃぁあああいっ!? 起きてます! 起きてまーーぁあす!!」
部屋中に、おっとりとした甲高い悲鳴が響き渡る。
目を点にして周囲を見回すものの、まだ半分夢の中にいるようで現実が戻ってきていない様子の師匠。やがて僕とバチッと視線が合うと、慌てふためいていた動きがようやく静まっていった。
「あぁ〜……おはようぉ〜。今日も気持ちのいい目覚めねぇ〜」
何事もなかったかのように、にっこりと穏やかな笑みを返してくる。
あの禁止区域での運命的な出会いから、もう十年が経った。現在の彼女は二十代半ばほど。つまり、あの頃の彼女はまだ十代半ばという若さで、街に一人だけの緑相学士として認められていたことになる。
出会った当時の自分にとって、静かでおっとりとした彼女の佇まいはどこか大人のように感じられて、酷く格好よく、美しく見えて惹かれていたものだ。そして実際、今の彼女の見た目もあの頃からほとんど変わっていない気がする。毎日顔を合わせているから変化に疎くなっているだけかもしれないが――僕にとっては今や、ほっとけない手のかかる可愛らしい生き物のような存在だった。
「まったく、自分の体調管理くらい自分でしてください。ほら、大事な本に可愛らしいよだれが垂れて染み込んでますよ」
僕が指差しで指摘すると、師匠はハッと目を見開いた。
「えぇ!? ダメ、ダメよぉ〜! この子の重要な性質を書き留めていたんだからぁ!」
「この子」というのは、現在調べている種か花のことだろう。彼女はいつだって、植物たちを自分と対等な命として愛おしそうに扱う。
「……ふぅ、よかったわぁ〜。余白の箇所だったわぁ〜」
幸いにもよだれは肝心の文字を避けており、師匠は胸を撫でおろして「ほっ」と息をついた。そんな姿に、僕も思わずふっと口元を緩めてしまう。
後から知ったことだが、当時の彼女は学園にも通っていたらしく、生徒たちの間では『百草花園の異才』という異名で呼ばれていたそうだ。周りには年中植物の話ばかりしていて変人扱いもされたそうだが、持ち前のおっとりした性格で自然と周囲に溶け込み、誰からも愛されていたらしい。
今でもその根底は何も変わっていない。たしかに『異才』や『異人』という言葉は、彼女にこそピッタリだ。
「とりあえず、朝ごはんの支度をしますね。……というか、少しは自分一人で身の回りのことができるようになってください」
「自分でもやれるわよぉ〜? でもねぇ、お姉ちゃんの身の世話をするのが弟の役目でしょ〜?」
「……立場が逆でしょ。もういいです、顔でも洗って待っててください」
呆れながらも手慣れた手つきで台所へと向かい、朝食の準備に取りかかる。
(さて……どうやって、学園からの話を切り出そうか)
鍋に火をかけながら、男は静かに思考を巡らせていた。
朝食を済ませて食器を洗い、昨夜のうちに師匠がごちゃごちゃに散らかした資料や標本を綺麗に片付ける。
肝心の師匠はといえば、お腹がいっぱいになったことに大満足し、椅子に深く腰かけてお茶を啜りながら、窓の外の例の花壇を楽しそうに眺めていた。
この作業場で幾度となく繰り返されてきた、いつもの日常。
誰かに命令されたわけではない。僕自身が乱れた部屋を放っておけない性分だから勝手に整理しているだけなのだが――たぶん、これが良くないのだろう。気づけばこれが当たり前になっていて、僕が彼女を甘やかしすぎてしまったのだ。
(……年を追うごとに、師匠はどんどんダラしなくなってる気がする)
出会った頃に感じた、蕾のようにふんわりと優しかった抱擁や、時に見せてくれた知的で格好いい立ち姿なんて、もう長いことお目にかかっていない。もしかして僕が身の回りの世話をしすぎた影響なのだろうか。僕が悪かったというのだろうか。
しばしの休憩の後、本日の仕事に取りかかる。「学園」からの打診の件は、この仕事を片付けてから切り出すとしよう。
奇妙なことに、今日やるべき作業もまた学園からの依頼品――今朝、暗がりでひっそりと光を放っていたあの特殊な花の調査だった。
依頼内容は「この花が光を放つ仕組みの解明」。
どこか遠方の草原地帯で道に迷った冒険者がこの光に導かれて生還し、その後の調査隊によって採取されたものらしい。植物の生態において右に出る者のいない「百草花園の異才」、つまり僕の師匠だからこそ回ってきた仕事だった。
「……これって、やっぱり魔法の類なんですかね?」
師匠は静かに手を花にかざし、微細な魔力が秘められていないか探ぐっている。
「そういった類のものは一切感じられないわねぇ〜。ほら、光るキノコだったり、特殊な植物ってたまにあるじゃない? でもそれらは光の反射だったり、昼間のうちに蓄積した日光を発散させているだけ。言うなれば、ただの『蓄光装置』に過ぎないのよぉ〜」
「ということは……魔力で発光しているわけではない。この花自身が、自発的に光を生成して放っているということですか?」
「そうねぇ〜。植物に『自ら光ろうとする意志』なんてものが宿る症例は、まだ解明されていないわ。普通に考えたら、私たちがまだ知らない物理的な条件があると仮定するのが妥当でしょうねぇ」
植物は生命体ではあるものの、意思や意識というものは極めて薄いか、あるいは存在しないというのが定説だ。
師匠は我が子のように植物を愛でるけれど、決してそこに都合の良い幻想や理想を混入させたりはしない。学者としての線引きは驚くほど厳格だった。
その後も様々な条件を試してみたが、現時点での結論は「発光条件・原因ともに不明」。自ら光を放つ理由は、結局解き明かせなかった。
「原因不明の現象はすべて『魔法のせい』にして納得する……昔の人は随分と手前勝手な都合を押し付けたものですね」
僕が皮肉めいて溢すと、師匠は愛おしそうに花を見つめながら呟いた。
「……奇跡。そんな曖昧な言葉で片付けるよりもずっと、『諦めていない』ということよぉ〜」
実際、かつては「残留魔力による怪奇現象」と切り捨てられていた。何者かの魔法の残骸が原因であったものも多く、後の科学によって解明された例はいくらでもある。魔法を使えない立場の人間や科学者からすれば、その思考停止の足踏みこそが長年の恨みの対象でもあったのだ。
「うふふ」
「……なんですか急に嬉しそうに笑って」
「ほらぁ、夜になると蝋燭やランプの灯りじゃ物足りないでしょぉ? もしかしたらね、この子たちがいつか、人間の世界全体に新しい明かりを広げるかもしれないわぁ。夜空の星なんて比じゃないくらい、世界中をキラキラと煌びやかに照らすのよぉ〜」
「そんな昼間と変わらないような未来、あるわけないでしょう」
あきれて突っ込みつつも、ふと思う。
あるいは、本当にそんな未来が来るのかもしれない。昨今の「魔法と科学の融合」の進歩は、先日足を踏み入れた学園でも目の当たりにしたばかりだ。かつて対立していた二つの領域が手を携えるなら、そんなおとぎ話のような世界だって実現するかもしれない。
午後までかかって調査を終え、僕が手際よく観察記録を資料としてまとめあげたことで、本日の作業は無事に一段落した。
「ふぅ〜、思いのほか早く終わったわねぇ〜。休憩が終わったら、またあの子の観察でも再開しようかしら〜」
師匠は椅子に深々と座り直し、昨夜の続きを思い描いているのか、楽しそうに頬を膨らませて夢を見ていた。
僕がいつもより気を利かせて急速で仕事を終わらせたのには、理由がある。
――今だ。このタイミングで、あの話を切り出さなければならない。そのために今日、早起きて仕事を早めに終わらせたのだから。
視線を向けると、師匠とバチッと目が合った。
一瞬、身体がビクッと強張ったけれど、僕は絶対に目を逸らさなかった。
ここから、僕と……僕たち夫婦の未来の意味を、少しでも掴み取るために。




