追憶2
「きゃぁあっ!?」
秘密の花園に響き渡った第一声は、情けないほどの悲鳴だった。
彼女は弾かれたように両手で自らの口を塞ぎ、タレ目を丸くして、まじまじと僕を見つめた。
「こ、こんなところに子供ぉ……? なんでぇ、どうしてここにいるのぉ~?」
「い、イケないことだとは、知ってました……。でも、森の中で迷ってしまって……」
嘘を吐く度胸もなかった僕は、ただ正直に白状して、ぎゅっと身を縮こまらせた。
すると女性は、ゆったりとした足取りで僕の目の前まで近づいてくると、人差し指の先で僕のおでこをこつん、と優しくつついた。
「めっ、よ。君は悪い子ねぇ。……でもね、その強い好奇心だけは、絶対に大事にしないといけないのよぉ~。ただ、使いどころを誤っちゃダメだからね?」
最後には、ふにゃりと蕩けるような優しい笑顔を向けてくれた。叱られると思っていた僕は、拍子抜けすると同時に、酷く救われたような気持ちになる。
「……あの、ここは入っちゃいけない禁止区域なのに、どうしてお姉さんはここにいるんですか?」
僕がふと抱いた疑問を口にすると、彼女の動きが劇的に止まった。
「お姉さん……っ!」
カッと彼女の目が輝く。
次の瞬間、彼女は僕の肩にガシッと力強く両手を添え、もの凄い形相で顔を寄せてきた。奥の瞳が完全に据わっている。
「ねぇ、今の、もう一回。お・ね・え・ち・ゃ・ん、って呼んでみてほしいなぁ~。ねぇ、お願い」
鼻息は荒く、白い頬はぽうっと赤く火照っている。
距離の近さと迫力に圧倒され、僕は気圧されながらも、なんとか言葉を絞り出した。
「あの……お姉ちゃん……?」
恐る恐る、上目遣いでそう呼んでみる。
「きゃぁあああ~~んっ! なんて可愛いのぉおおお~~っ!! ずっと一人っ子だったから妹か弟がほしかったのよ~」
鼓膜が震えるほどの歓声とともに、僕は猛烈な勢いで抱きすくめられた。
むぎゅ、という生ぬるいものではない。骨がきしむほどにぎゅっと圧迫される、力強い抱擁。母親に抱きしめられた経験はあったけれど、全くの他人に、しかもこれほど近い距離で抱きつかれたのは初めてだった。
少年ながらに男の性だったのだろうか。当時の僕にはまだ言語化できなかったけれど、母親の時には意識したこともない、衣服越しに伝わる圧倒的な胸の弾力、そして頭を包み込む甘く芳しい香りに、顔が火がつくほど赤くなり、猛烈な気恥ずかしさが押し寄せてきた。
「あの、お姉ちゃん……くるし、い……っ」
「あらら~? ごめんねぇ、つい我を忘れちゃったわぁ~」
慌てて解放してくれた彼女は、僕の頭をよしよしと撫でながら、これ以上ないほど満足気にご満悦な笑顔を浮かべていた。
(この人、距離感がすごく変だ……)
子供心に本能的な危機感を覚えつつも、不思議と、彼女の纏う空気には絶対的な安心感があった。
「それで、さっきの質問の答えだけどね。私はここで、お仕事をしていたのよ。『緑相学士』……って言っても、分かんないわよねぇ~。地味で、ちっとも派手じゃないものねぇ。この街にはね、私一人しかいないのよ」
人差し指をピンと上へ跳ね上げ、どこか誇らしげに、自慢げに彼女は胸を張った。
「さっき、お姉ちゃんが撒いていた、あの光る種みたいなものは何ですか?」
僕の問いに、彼女は少しだけ表情を和らげ、その手元に視線を落とした。
「そう、この種はね、外の世界から新しくやってきたの。野生の動物たちが人間のせいで縄張りを奪われて、移動した結果、この森に住み着いたのね。そのときに、彼らの体に付いてきちゃったのよぉ~。だけどね……この種は、この森の元々の環境には馴染めなかったの。ただ置いておくだけじゃ、周囲の草木や花が育たなくなっちゃうのよねぇ」
「……なら、全部刈り取って、捨てちゃえばいいんじゃないですか?」
僕はごく自然な疑問を口にした。
「どうしてここでわざわざ蒔く必要があるんですか? この森には、いらないはずのものなのに……」
すると、彼女の顔から先ほどまでのコミカルな明るさが消え、ひどく悲しそうな、胸を締め付けられるような表情へと変わった。
「そうねぇ……本来は、ここにあるべきものじゃないものねぇ。ただね、君はそれで納得できるかしら?」
彼女の声は、どこまでも優しく、けれどこれ以上ないほど真剣だった。
「必要じゃないから、いなくて当然。そんな理由だけで、消えるために生まれ、運ばれてきたなんて……そんな馬鹿げたことが、あっていいわけがないじゃない。この種はね、何のために存在して、どうしてこの場所へ辿り着いたのかしらねぇ……」
その言葉は、ブーメランのように僕自身の胸へと深く突き刺さった。
この街に生まれ、ほんの少しばかりの魔力があったから、期待されて学園の試験に臨んだ。けれど、周囲の圧倒的な才能を前に、僕は惨めに逃げ出した。もし学園が、世界が僕を拒むのだとしたら、僕は一体何のために魔力を宿し、何のために学園に憧れたのだろう。自分のこれまでの歩みがすべて無意味なものだとしたら、僕はなぜ、こんなにも魔法に興味を持ってしまったのだろう。
彼女の手のひらに載せられた、小さく儚い種を見つめる。
それが、どうしようもなく「僕自身」のように思えて、放っておけないような、愛おしいような気がした。
「だからね、この森の生き物たちと共存できるように、私がこの場所を見つけたのよぉ〜。ここなら、誰の邪魔もしないわ。むしろね、この子たちはとっても役に立つの! 他の植物に必要な土壌を改良して、みんなが住みやすいふかふかの土にしてくれるのよぉ! それからね、それからね――!」
彼女のスイッチが入った。
興奮気味に、その種が持つ生態系での意義や役割が、怒涛の勢いで並べられていく。しかも、一度始まった語りは全く止まる気配がない。専門用語が多くて当時の僕には理解しきれなかったけれど、彼女が植物たちの熱烈な代弁者であることだけは痛いほど伝わってきた。
「なるほど、よく分かりました! これが、緑相学士のお仕事なんですね!」
永遠に続きそうな語りにたじろぎつつも、僕は意を決して彼女の話を遮った。
そしてその瞬間、僕の心の中で、これまでにないほど熱い興味がふつふつと湧き上がっていることに気づいた。どうしようもないほどに、心が突き動かされていた。
どんな頼りないものにだって、必ず役割がある。適した場所に正しく置いてあげれば、どんな小さな命だって輝くことができる。決して、この世界に必要のないモノなんて一つもない――。
それを泥にまみれながら、愚直に突き詰める仕事が、これなのではないか。だとしたら、僕の居場所も――。
「あの……お姉ちゃん。僕に、もっとこのお仕事について教えてもらえませんか?」
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女の目がこれ以上ないほど爛々と輝いた。
グイッと顔を寄せてくる。近い。心臓が跳ね上がるほど、顔が近い。
「いいわよぉ~~っ! 大、大、大歓迎!! やっとこの地道な作業でも、誰かに魅力が伝わったのねぇ〜〜!」
彼女は飛び上がらんばかりに喜び、それから、ふと何かに気づいたように人差し指を唇に当てた。
「あっ、そうだ」
おっとりとしたタレ目が、悪戯っぽく、けれどどこか根源的な祈りを孕んで僕を見つめる。
「ねえ、君は――は好き?」
夢の中のその声は、肝心な言葉の部分だけが、まるで水の中に沈んだように歪んで聞こえなかった。
その問い自体は、とてもくだらなく、何の意味もないもののように思えた。けれど、彼女が「緑相学士」として生きる上で、きっとその根底にあり続けた、小さくて温かい願いから始まった想いだったのだろう。
僕は夢の中で、答えを探すように、彼女の瞳をじっと見つめ返していた――。




