片隅の花
「……やっぱり、夢、だよなぁ」
目を覚まし、はじめに視界に映ったのは見慣れた天井だった。
幼い頃の記憶を、これほどまでに鮮明に思い起こしたことは一度もない。なぜ今日に限ってあの夢を見たのか、自分でも理由はよく分かっていた。今日は師匠と話さなければならない日だ。学園からの打診を受けるか否か――それは自分たち夫婦にとって、大きな岐路となる決断なのだから。
ふと横に視線を向けると、存在が背を向けたまま、すぅーっとか細い寝息を立てていた。
彼女を起こさないよう静かに身体を起こし、ベッドから降りる。寝顔を覗き込むと、相変わらず無機質で静謐な表情のままだ。なのに「妻」として意識した瞬間、なぜだか昨日までとは少し違って見える気がした。
「……うん。やっぱり、天使はいるのかもしれないな」
そのまま静かに身支度を整える。今日はいつもより少し早めに師匠の家へ向かいたかった。あの夢に背中を押されたのは間違いない。過去に置いてきた幼い頃の自分の名残、そして師匠と積み重ねてきた時間。これから存在と二人で未来へ進むために、一度きっちりと自分の足跡を整理しなければならないのだ。
家を出て、賑やかな商業区域を抜けた先に目的の場所はある。街の外れ、森のすぐ近くに師匠は家を構えていた。「いつでも植生のすぐ近くにいたい」という彼女の独断によるもので、周囲に店もない不便な場所だ。けれど、それはつまり――。
「……僕が色々と身の回りの世話をする羽目になるんだよね。これじゃまるで家政婦だ」
思わず独り言が漏れる。あの人は僕がいないと生活が破綻することを絶対に自覚しているし、何より僕が甘やかしすぎたのだ。
師匠の家へ向かう道中、いつも通り商業街を通る。食材や日用品の買い出しを済ませるには、このルートが一番都合がいい。ついでに世間話に耳を傾けながら、人々の暮らしに目を配る。何か困りごとはないか、緑相学士として街の植生に異常はないか――日常の中に自分の役割を探すのは、すっかり身体に染み付いた習慣だった。
花屋の前を通りかかったとき、少し風変わりなピンク色の花を買い求めている女性の姿が目に入った。
その手元は緊張でかすかに震えていたけれど、瞳はどこか遠く、けれど確かな未来を見据えている。何か大きな決心を固めた人の目だった。
(あの花も……元はこの街にはない外来種だったんだよな)
元々は環境に合わず枯れかけていた花を、師匠が仕事としてこの土地に合うよう改良し、定着させたものだ。今ではこの街で「告白」や「決意」の花言葉を持つ特別な花として親しまれている。
「そっか。あの人も、自分の未来のために一歩踏み出すことを決めたんだ。……うまくいけばいいな」
心の中でそっと祝福を贈り、さらに歩みを進める。
次に横目に入った装飾品店には、かつて師匠がこの街の生態系と共存させた植物をモチーフにした、美しいブローチやネックレスが並んでいた。その店のシンボルマークとしても大切に使われているようだ。
緑相学士の仕事は、決して派手でも目立つものでもない。
けれど、確かに人々の生活の根底に溶け込み、誰かの背中を静かに支えている。ありふれた日常の裏側に潜む、素朴で温かな後押し。
(やっぱり僕は、この仕事に誇りを持っているんだ)
自分の歩んできた道への愛おしさを噛み締めながら、男は足を早め、愛すべき師匠の待つ家へと向かった。
商業街の賑やかさを抜け、人々の生活区を遠く離れた先に、静けさを叩えた深い森の姿が見えてくる。
ガヤガヤと喧噪を極めていた人の気配は潮が引くように消え去り、代わりに風の音や鳥たちのさえずりといった、心地よい自然の息遣いが耳を包み込んでいった。
男は歩みを進めながら、ふと夢の中での出来事に思いを馳せる。
最後の場面、夢の中の師匠が紡いだ、今にも消えてしまいそうな声。何かとても重要で温かな想いが乗っていたはずのあの言葉は、幼い頃の自分には届かず、記憶に残ることもなかった。けれど、代わりに彼女が差し出した手のひらに置かれていた、あの小さな種――それには、妙に引っかかるような鮮明な覚えがあった。
「……そうか、この花だ。師匠と出会って、僕が緑相学士としての第一歩を知ることになった、あのきっかけの種」
視線の先、師匠の家のすぐ傍に、ひっそりと可憐な黄色の花が咲いていた。
今では他の花たちと共に、色とりどりの花壇を飾る添え物として綺麗に植えられている。あの運命の出会いから十年という月日が流れ、かつて森に馴染めなかった外来の種は、少しずつこの土地の生態系と共存共栄を果たし、当たり前の景観として溶け込んでいたのだ。
(いまや、すっかり当たり前の光景なんだよなぁ……)
改めて周囲を見渡すと、師匠の自宅兼作業場は、かつてあの「存在」と出会った廃屋の雰囲気にどこか似ていた。
あの巨大な廃屋ほど大きくはなく、こじんまりとした佇まいではある。けれど、静けさの中にどこか人を寄せ付けない独特の空気が漂っている点や、外壁を覆う蔓草や苔が建物そのものと静かに共存し、古びた独特の趣を醸し出しているところが酷似していた。
男は木製の重厚な扉の前に立ち、ふぅー、と深く息を吐き出して呼吸を整える。
正直に言えば、心の中は酷く緊張していた。
今日ここを訪れた結果がどうなるのか、自分の中で答えはもう決まっている。それだけの覚悟は、あの存在と共に未来を進むと決めた時からすでに固まっていた。なのに、自分の中に根付いた繊細で臆病な性分だけは、土壇場になっても無自覚に胸を締め付けてくる。
「……大丈夫。僕の選択は、もうブレない。……よし、行こう!」
男は自分に言い聞かせるように、優しく、けれど強く微笑んだ。
自分が愛おしいと願う未来を、その手で掴み取るために。
未来へと繋がるその手が押し出されると同時に、重い扉が静かに開いた。




