追憶1
――子供が、駆けている。
木々の生い茂る森の中を、息を切らせて必死に走っている。一見すれば探検を愉しむ少年のようにも映るかもしれないが、その顔は硬くこわばり、何かに酷く怯えているようだった。
(あぁ……あの子は、僕だ)
深い眠りの底で、男はそれが自らの古い記憶であると思い出す。
あれは、あの忌まわしい学園の試験の、翌日のことだ。
前日、試験会場で目にした魔法の実技。それは男のちっぽけな世界を粉々に砕くには十分すぎるものだった。
耳を聾するような雷鳴の轟音、視界を真っ赤に染め上げる爆音の炎。まるで幼い頃に読んだ絵本の絵空事が、そのまま現実に飛び出してきたかのような、圧倒的な暴力。男はただただ、恐怖に身を震わせるしかなかった。
そして何よりも、自分と同じくらいの年齢の子供たちが、それを事も無げに操っているという事実。彼らと自分の間にある、決して埋まることのない遥かな才能の差。それがどうしようもなく悔しくて、歯がゆくて、惨めで――自分の無力さに胸が押し潰されそうだった。
だから僕は、あの森に行ったんだった。
本来なら管理区内であり、危険な魔物も野生動物も出ないように統制された安全な場所。そこには僕のお気に入りの秘密のスポットがあって、普段ならそこで静かに本を読んだりして、息苦しい現実から逃避する時間を過ごしていた。
けれど、その日は違った。
幼い頃から一度もルールを破らず、大人の言うことに律儀に従うことだけが取り柄だった僕が、初めて世界に逆らった。
大人たちが「入ってはならない」と定めた、禁止区域。その境界線を越え、奥へと入り込んだのだ。ただ、人間の領域から、あの息の詰まる才能の競争から、少しでも遠くへ離れたかったのかもしれない。誰の目も届かない、僕を評価する者が誰もいない場所へ。
一歩踏み入れたその境界の先は、明らかに空気の密度が違っていた。
薄暗く、どこまでも深い緑が光を遮っている。見たこともない歪な形の木々や、奇妙な色をした草花が生い茂っており、恐怖の反面、どこか「面白い」と感じている自分もいた。僕は慎重に、自分が来た道を戻れるように周囲の景色を頭に叩き込みながら、一歩一歩、奥へと進んでいった。
だが、唐突にそれは訪れた。
背後から、ゴォッ……と、音にすらならない「巨大な気配」のようなものが押し寄せてきたのだ。
全身の毛穴が逆立ち、ぞわっと凄まじい寒気が脳天を突き抜ける。最初から鳴っていたのかも分からない、風のそよぎや葉のこすれる些細な音。それらすべてが、一気に凶悪な悪意となって五感に響き渡る。
(――捕まる。喰われる。消される)
理性を塗りつぶすほどの強烈な恐怖が湧き上がり、僕は無我夢中で走り出した。
何から逃げているのかも分からぬまま、ただ必死に、来た道すら忘れて泥を跳ね上げて駆けた。心臓が破裂しそうになったその時、どこまでも続くと思われた暗闇の先に、一筋の強い光が差し込んだ。
(あそこは……出口だ!)
導かれるように光へと飛び込む。視界を覆う明かりが次第に大きく、眩しく広がっていき――。
わぁっ、と、目の前の視界が一気に開けた。
そこは、信じられないほど広々とした空間だった。
頭上には抜けるような青空が広がり、瑞々しい草木が大地を覆い、色とりどりの見知らぬ花々が風に優しく揺れている。この薄暗い森の奥深くに、神様がこっそり用意した秘密の隠し場所――そう錯覚してしまうほどに、そこは生命の美しさに満ちあふれていた。
あまりの美しさに恐怖を忘れ、僕はその世界の特等席とも言える、広場の真ん中へと引き寄せられるように歩みを進める。
そのとき、耳に心地よい音が届いた。
「うふふ、あはは〜」
決して大きくはないけれど、まるで周囲の草花に語りかけているような、ひどく優しく、おっとりとした声。
そこに、その人はいた。
くるりと楽しげに踊るように、両手を大きく広げて。
大きな尖った帽子を被り、ゆったりとしたローブを纏ったその姿は、まるで童話に登場する魔女そのものだった。
見惚れるほどに綺麗な髪を揺らしながら、ひらひらと歌うように、彼女は一人で踊っていた。
「あなたたちは、ここで新しく生まれ変わるのよぉ〜」
愛おしそうに紡がれる言葉とともに、彼女の白い手から、光を孕んだ植物の種のようなものが、きらきらと宙へ舞い上がっていく。
ザザァッ、と。
見惚れていた僕の足が、思わず草を踏み鳴らしてしまった。
その微かな音に気づき、踊っていた彼女の動きがぴたりと止まる。
長い帽子の影から、奥にあるおっとりとしたタレ目が、まっすぐに僕へと向けられた。
眩い光の溢れる秘密の花園の真ん中で、少年だった僕は、後に「師匠」と呼ぶことになるその女性と、運命的に向き合ったのだった。




