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不老不死にはわからない  作者: ある
瞬き

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 二人は居間を辞して、自分たちの部屋へと戻った。

 扉が閉まり、夜の静寂が二人を包み込む。男は息をそっと吐き出しながら、ぽつりと溢した。


「なんだか、僕が学園の誘いを受けることが、もうすっかり決まったような物言いだったね」


「違うの?」


 存在は不思議そうに首を傾げ、その澄んだ瞳を男に向ける。

 男の心中は、驚くほど穏やかだった。父親の言葉によって、ずっと心の奥底に澱んでいた過去へのろくでもない後ろめたさに、ようやく踏ん切りがつきかけている。前向きな変化を自分でも感じていた。それでも、まだ喉の奥につっかえているような、細かな懸念が残っているのも事実だった。


「まだ、仕事先のあの人ともちゃんと話さないといけないからね。なんというか……あの人をあのまま放っておくのは、色んな意味で心配でもあるんだ。ちゃんと許可をもらって、筋を通さないと」


 学園で教えるとなれば、今の仕事を長期間離れるか、あるいは頻繁に行き来することになる。真っ先に思い浮かぶのは、仕事先にかける迷惑と、あの破天荒な師匠の顔だった。


「人間というのは、本当に色々と大変なのね。やっぱり、酷く面倒な生き物だわ」


 存在が呆れたように小さく息を漏らす。男はにこやかに笑って返した。


「あはは、そこまで重たい話じゃないよ。あの人なら、事情を話せばきっと自分のことみたいに喜んで、背中を押して見送ってくれると思う。ただ……うん。僕がいなくなった後の仕事場が、散々な状況になることだけは目に見えているからね」


 心配だ、と口では言いながらも、男の表情は今にも吹き出しそうに緩んでいた。その瞳には、仕事先の師匠に対する確かな信頼と、家族のような温かい情愛が宿っている。存在はそれを黙って見つめていたが、ふっ、と視線を窓の外の夜空へと移した。


「それにしても……まったく勝手に『先生、先生』と。人間の子供というのは、どうしてあんなに距離感が近くて図々しいのかしら。私は行くともやめるとも、まだ何も伝えていないというのに」


 存在の脳裏に、夕暮れの訓練場の光景が蘇る。あの眠たげな少女が、自分の手をぎゅっと握りしめて離さなかった、あの小さな手の熱。


「僕の目にはね、君はもう立派な教師に見えていたよ。最初の頃の突き放すような言い方から、少しずつ、子供たちにも届くように君の言葉が変化していった。それに、君は案外、子供に好かれやすいってことも分かったしね」


「騒がしくて、うるさいだけだったわ」


 存在の返す言葉にはまだツンとした棘があったけれど、その声色には、かつて人間に向けていたような絶対的な拒絶の色はもう欠片も残っていなかった。


「それでも、私はもう決めているの」


 存在はそっと、自分の胸のあたりに白い手を当てた。


「あの学園という場所が、私を何者だと答えるのか。それを、この目で見つけるわ」


 今日の出来事を通じて、彼女の胸の奥には、今まで知らなかった奇妙な熱が灯っていた。たしかにモヤモヤとした熱いものを感じている。だけどそれは、不快な拒絶反応などでは決してなかった。全身の細胞に深く心地よく響き渡るような、どこか美しい音楽の音色に近いものが、内側から静かに伝わってくる。


 存在は胸から手を離し、真っ直ぐに男を見据えた。


「――当然、君もついてくるのでしょう?」


 男にとって、それは少し意外な言葉だった。

 彼女が学園へ行ったのは、ほんの気まぐれな見学であり、人間を観察するための記録に過ぎないのだとばかり思っていたからだ。それでも構わない、それが彼女の何らかの変化の兆しになり、世界を知る助けになればそれでいい――男はそう割り切っていた。

 だが、今の彼女の言葉には、他ならぬ「自分の意志」が明確に宿っている。


「うん。……学園で教えるっていうより、君の助けになりたい、隣にいたいっていうのが僕の本音だしね。でも、学園長が言っていた『僕たちはお互いに対として必要だ』っていう言葉。あれは一体、どんな意味があったんだろう。僕みたいな無能が、君の対だなんて……」


 またしても男らしい遠慮と、繊細すぎる思考で言葉の裏を勘ぐろうとする。存在はそんな男を見て、短く切り捨てた。


「そんなの、今考えても生み出せる答えなんてないわ。どうせ学園に行けば、嫌でも分かることになるのだから」


 悩むだけ無駄だとばかりに、ただ実直に現実へ向き合う存在。男は、そのどこか凛とした佇まいに、不思議なほど大きな頼りがいを感じていた。


「まったく、僕の妻は僕よりずっと頼りがいがあるね。……なんだか、自分の情けなさに、やっぱりちょっと不安になってきちゃったな。本当に僕で務まるのかなぁ、どうしよっかなぁ」


 男は少しおどけた調子で、半分冗談のような情けない弱音を吐いた。

 いつものように、若干うかれ気味で、内心でふざけている男の底浅い性根を見透かしたのだろう。存在は、ほんの少しだけ悪戯っぽく口元を曲げてみせた。


「――いいのかしら? そんな情けないことで」


「え?」


「君が隣にいてくれないと、私、何かの拍子に気が変わって、学園の子供たちを気まぐれに殺しちゃうかもしれないわよ? それでもいいの?」


 存在の口から飛び出した物騒極まりない冗談に、男は一瞬目を丸くしたが、すぐに観念したように苦笑いを浮かべた。


「うん。それは困る。……やっぱり、僕が絶対に見張っていないといけないね」


「ええ。しっかりと、私から目を離さないで」


 それはきっと、彼女なりの、不器用で歪な「夫への支え方」であり、隣にいてほしいという「願い」なのだと信じて。

 交わされる言葉の温度に満たされながら、二人の部屋の明かりが消え、夜は静かに更けていく。




 夜風が静かに窓を揺らし、庭からは微かな虫のさえずりが聞こえてくる。カーテンの隙間からは、冷たくも美しい星の光が部屋の床へ差し込んでいた。


 そんな静寂の中、一つの影が音もなく起き上がる。

 存在は、寝台の上でゆっくりと上半身を起こした。すぐ隣からは、すぅー、すぅー、と規則正しく、穏やかな寝息が聞こえてくる。男は完全に眠りの中にいた。


(私が安眠できないなんて……これまで一度もなかったわ)


 存在はそっと自分の胸に手を当てる。やはり、あの訓練場で灯った奇妙な熱が、今もじわじわと、消えずに残っていた。


 隣の男へ視線を落とす。とても幸せそうに、無防備に寝入っている。

 そういえば、こうして男の寝顔をまじまじと見るのは、あの出会ったばかりの廃屋の夜以来のことだった。あの時と何一つ変わらず、この男には彼女への警戒心など欠片も存在しない。普段の、他者への配慮に満ちてどこか繊細な彼からは、およそかけ離れた無防備さだった。なのに、時折みせるあの大胆な行動。本当に、人間の構造はよくわからない。


(私の寝顔はどうなのかしらね。……ふふ、きっとこんな無警戒であわれな姿なわけがないわ)


 ふと、自嘲気味に口角が上がる。


 存在は、自分の中の何がそうさせたのかは分からなかったが、自然と手が動き、男の額へと向かっていた。指先で、邪魔な前髪を優しく撫でるようにして横へ払う。

 そのとき、ふと目についたのは男のまつ毛だった。


(思ったよりも、長いのね……)


 そう気づいてよくよく観察してみると、鼻筋の通りも、唇の形も、驚くほど整っているような気がした。


「ふふ、なるほどね。他の人間と違って、私を『押しつける』という気配を感じないのは、これが一因なのかもしれないわ」


 他の人間とは、何かが決定的に違う。男が自分に向ける接し方や口調の柔らかさもそうだが、この容姿そのものも、自分の心境に影響を与えているのだろうか。これまで「妻としての所作」は知識の模倣としてなんとなくこなしていたけれど、これからはもう少しだけ、丁寧に接してあげようかしら、などと殊勝なことが頭をよぎる。


 しばらくその前髪をそっと撫で続けていた、その時だった。男が、小さく唇を動かして寝言を漏らした。


「……ん、……君は、どんな部屋がいいかな。……陽だまりが、たくさん照らしてさ。……君の、寝姿を見たら、きっと、天使が降臨したって……みんな、思うよ……」


 それは、いつか二人で建てると約束した「家」のことだろう。男は夢の中でさえ、変わらず彼女との未来を紡いでいた。


(私が、天使? ……くだらない幻想よ。そんなわけがないでしょう)


 思わず鼻で笑う。人間に手を差し伸べ、無条件に救いを与える神聖なもの――そんなものと、自分は決定的に違う。

 それでも、この男はこれからも私を信じ続けるのだろう。勝手な理想をぶつけて、勝手に期待し、身勝手なほどに私の自由を許すのだ。


「くだらないわね。そんなこと言って、君は――」


 その瞬間、存在はハッと目を見開いた。

 口から出ようとした「とある言葉」の気配。それに気づいた瞬間、彼女は激しく頭を振ってその思考を掻き消した。

 そんなわけがない。私から、こんな、こんな感情が言葉になるわけがないのだ。


 動揺と同調するように、やはり胸の奥の熱が一段と強く灯った。これは、昼間に訓練場で子供たちと触れ合ったときにも起こった現象だ。子供たちは私に体を委ね、預けてきた。どうしようもなく勝手に。そして私は今、何気なくこの男の髪を撫でた。あの時と同じだ。


「これは、病気よ。そうに決まっているわ」


 そう思い込もうと、自分に言い聞かせる。だがその時、脳裏に鮮烈に蘇ったのは、あの訓練場で男が放った魔法の記憶だった。優しく、まるで男自身の手で包み込んでくれたかのように暖かかった、あの風。そして、その風に乗って届いた、彼の言葉。


『――撫でて』


 あの声が、耳の奥で優しく弾けた。

 男の感情が魔法に乗り、風に揺られて自分へと届いたのだ。そして私は、それに感化されて自分の魔法を使った。そうだ。あの瞬間の私は、ひどく素直に言葉を紡いでいた。そこには他者への拒絶も、自己への困惑もなかった。馬鹿らしい衝動だと思っていたけれど、その先にあった景色は、子供たちも、男も、皆が楽しげに笑い合う未来の縮図だった。魔法は、そこへ送られていたのだ。


(……もう一度だけ、素直になってみようかしら)


 存在は小さく息を吸い込む。これは実験だ。今ここで紡ぐ言葉は、誰の耳にも届かないし、誰にも聞かれない。未来なんていう不確かなものへ、この声が送られるわけがないのだから。


 存在は窓の向こう、遠い夜空を見上げた。

 数多の星々がひしめくその中に、ひときわ強く、優しく輝く星があった。


 カレナ。人間たちが「夫婦星」と呼ぶ、あの星だ。

 星は季節によって見える姿を変える。初めてこの星を眺めた頃よりも、今のカレナはずっと遠い位置にあるように思えた。あれから、季節が移り変わるほどの時間が、二人の間に流れていたのだと今更ながらに気づかされる。


 存在は、その眩いカレナに向けて、消え入るような声でそっと告げた。


「ねえ。こんなこと、あるわけがないわ。あなたも、そう思うでしょう?」


 きゅっと、胸の服を強く掴む。


「私が、彼を。……あの、騒がしい子供たちを――」




「『可愛い』。そう思ってしまうなんて」




 言葉として明確に吐き出した、その瞬間だった。

 胸の奥で燻っていた不明確な「熱」の質感が、劇的に変化した。


 じわじわと、全身の細胞を優しく満たしていくような、深く静かな心地よさ。熱は綺麗に消え去り、代わりに、名前のない何かが彼女の心を内側から満たしていく。その正体が何であるか、今の彼女にはまだ分からなかったけれど、それはとても、暖かかった。


 遠い空の「カレナ」は、何も答えない。

 けれど、夜の静寂の中で、ほんの少しだけ、祝福を贈るように優しく瞬いた。

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