誘い
夜の帳が静かに降り立ち、街の灯りと入れ替わるようにして、空にはぽつぽつと星の光が見え始めていた。
深い青に染まった空の下、学園の正門には四つの影が並んでいた。
男と存在、そしてアニマに絞り尽くされて息も絶え絶えの弟を見送るために、学園長がそこまで同行していた。
「――改めて、今日はお疲れ様じゃな。急な頼みを聞いてくれて感謝するよ」
学園長は穏やかな声を響かせ、まずは存在へと視線を向けた。
「どうかな。ここがどんな場所か、少しは肌で感じ取ってもらえただろうか。君の抱く『問い』に対して、何か新しく、確かな質感のようなものは見えたかね?」
存在は何も答えなかった。ただ、夜の風に長い髪を揺らしながら、表情の読めない瞳で学園長をじっと見つめ返す。その沈黙は拒絶ではなく、今日という一日を彼女の内で咀嚼している証拠のようでもあった。
学園長はすべてを察したように優しく微笑み、深くは追及しなかった。
「構わないさ。ゆっくりと時間をかけて考えていくといい。焦る必要はどこにもないのだから」
そう言って、学園長は次に男へと視線を巡らせた。その眼差しには、慈愛と、どこか見透かすような鋭さが同居している。
「ところで、だ。……君も、ここで講師をしてみる気はないかね?」
「え……?」
不意の打診に、男は思わず声を漏らして硬直した。
その隣で、まだ肩で息をしていた弟が、顔を上げて「おっ」と白い歯を見せる。
「よかったじゃん、兄貴。学園長から直々の誘いだぞ。ずっと気に病んでたもんな、せんせぇだけがここに縛られるんじゃないかってさ」
「おい、お前は黙ってろって……」
男は弟を小突きつつも、すぐに困惑の色を浮かべて学園長に向き直った。
「学園長、お言葉は本当に嬉しいのですが……僕は魔法を上手く使えません。この学園に集まる才能豊かな子供たちの前に立ち、教え導くなんて、さすがに身の程知らずが過ぎるんじゃないでしょうか」
配慮が深く、独りよがりになることを極端に恐れる男らしい不安だった。自分の能力に見合わない椅子に座ることは、誰にとっても不誠実であると考えてしまうのだ。
学園長は、ふぉふぉ、と低く温かい声で笑った。
「人を導くのは、なにも強大な力だけではないのだよ。君は彼女とはまた違う、別の方向性の魅力で、この学園における役割を立派に全うできると確信している」
「僕の、魅力……ですか?」
「ああ。それに、学園に集う者らは誰もが好奇心旺盛で、技術の向上には貪欲だが、いかんせん勝手が過ぎる。彼らは自分の成果を『後世のために書物として残す』という地味な作業を、どうにも蔑ろにしがちでな。……君のこれまでの振る舞いを見るに、そういう緻密な記録や整理こそが本領とみるが?」
男は一本取られたように苦笑した。確かに、自分のやってきた地味で目立たない仕事の技術が、こんな場所で必要とされるのなら、それは。
「……それは、僕にとっても、かなりやりがいがありそうですね」
「そうだろう。これはわし個人の見解だけでなく、学園という組織そのものが君たち二人を必要としているのだ。――どちらも対として必要であることは、今日の一日で、お互いに理解し合えたはず」
学園長は二人の距離感を一瞥し、満足そうに頷いた。
「二人でじっくりと話し合って、答えを出してほしい」
それだけを残し、学園長は静かに背を向けて学園の奥へと戻っていった。
残された三人もまた、それぞれの足取りで家路へと就くために、夜の学園を後にする。男の胸には、新しく差し込んできた未来への選択肢が、静かな灯火のように残り続けていた。
家に帰宅すると、食卓はいつも以上の賑やかさに包まれた。
温かい湯気がのぼる料理を囲みながら、今日の学園見学での出来事が次々と語られていく。存在だけでなく、男までもが学園長から講師としての誘いを受けたことを明かすと、両親は驚きつつも、どこか誇らしげに男の言葉に耳を傾けていた。
賑やかな食事を終え、居間には男と父親が残り、存在と母親は並んで台所で食器を洗っていた。
カチャカチャと小気味よい陶器の音が響く中、父親が静かに男へと視線を向けた。
「良い機会じゃないか。……お前、ずっと気に病んでいただろう」
父親の、すべてを見透かしたような重みのある声に、男は小さく肩を揺らした。
「あいつ――弟が学園の話をするときや、庭で熱心に魔法の訓練をしているとき、お前がどんな顔で見ているか、親の目をごまかせると思うなよ。あの名残惜しそうな、置いていかれたような表情を見ていればな、お前の中にまだ消えない心残りがあることくらい分かっていたさ」
男は何も言えず、膝の上でそっと拳を握りしめた。
かつて自分が掴めなかった魔法の世界。それを無邪気に追いかける弟の姿に、応援したい気持ちと、ほんの少しの羨望が混ざり合っていたのは事実だった。
「なら、その誘いは受けるべきだ」
父親は優しく、だが確かな太さで言葉を続ける。
「案外、そういうものさ。幼い頃には見上げるほど巨大で、絶対に越えられないと思っていた壁もな、大人になって、すぐ傍に立ってみたら思いのほか大したことがなかった、と実感することもある。今の仕事の道を選んだ経験、お前がちゃんと社会の現実を学んできたからこそ、見える景色があるはずだ」
男にとって、父親のその言葉は意外だった。
幼い頃、あれほど意気揚々と受験に向かったくせに、結局はその重圧から逃げ出してしまった自分。期待を裏切り、挫折した出来損ないの息子だと、心のどこかで両親に対してずっと後ろめたさを抱え続けていたからだ。
しかし、父親の眼差しにあるのは、失望ではなく、ただ一人の男として息子を信じる温かさだった。
「それに、お前にはもう、一人で壁に向き合う必要もないだろう」
父親はそう言うと、ふっと視線を台所へ、せっせと食器を洗う存在の背中へと向けた。
「おい」
「はい」
呼ばれた存在が、手を止めて振り返る。その透き通った瞳が父親を映した。
「情けない息子だが、どうか、頼むよ」
真っ直ぐな、親としての切なる願い。
存在はわずかに目を瞬かせたあと、男の横顔をそっと見つめ、それから父親に向かって穏やかに微笑んだ。
「はい。分かりました」
淀みのない、確かな肯定。その一言にどれほどの救いがあるか、彼女自身はまだ自覚していないのかもしれない。けれど、男の胸の奥にあった古い澱みを溶かすには、それだけで十分だった。
男は耳の裏まで熱くなるのを感じながら、照れ隠しに人差し指で頬をかいた。
「……父さんも君も、僕のことを買い被りすぎだよ」
呟いた声は少しだけ震えていたけれど、その表情には、夜の寒さを撥ね退けるような確かなぬくもりが宿っていた。




