残滓2
ふっと目を閉じ、先ほど悪戯に踏みつけた存在の影からそっと足をそらす。アニマがこの場を静かに去ろうとした、その瞬間だった。
背中にポンと――いや、ドシッと鈍い衝撃が叩きつけられた。
「おっ! アニマちゃんがいるなんて珍しいな!」
快活に声をあげ、アニマの背中を無遠慮に叩いたのは、男の弟だった。ニシシと白い歯をのぞかせ、くったくのない笑みを浮かべている。
「……あなたは、たしか。彼の弟くんね」
アニマは少しだけ記憶をたどり、不意の来訪者を振り返った。
そして思いつく。アニマはすっと細い指を伸ばし、視線の先にあるベンチを指差した。
「ねえ、あの二人は夫婦なのよね。どう? 弟くんから見て、普段の二人はどんな感じに見えるのかしら?」
弟は促されるまま、夕陽の中で寄り添う男と存在の姿をじっと眺めた。
アニマは待ってましたとばかりに、自分の胸をきゅっと抱きしめ、身体を小さくもじもじと揺らしてみせる。
「やっぱり、ああ見えて彼女のほうは、彼にあま~く大胆に迫って誘ったりしているのかしら……? 『あなた、わたしをどうするつもり?』なんて言っちゃったりして」
かと思えば、今度は急に背筋を伸ばし、艶やかな髪を指先でさらりと払うような仕草をしてみせる。
「で、あの優男に見える彼は、実は裏ではけっこうな漢気があって、強く強引に彼女を扱ったり……!」
どこか芝居がかっていて、少女が抱く妄想じみている。完全にアニマの妄想を詰め込んだ理想の恋愛模様だった。しかし、熱弁するアニマとは対照的に、弟は表情をひとつも変えず、ポカンとした顔でそれを聞いていた。
「ねえ、裏ではきっとラブラブなんでしょ!? そうでしょ、そうに決まってるわ!!」
アニマはぐっと眼光を鋭く輝かせ、弟の顔へぐいぐいと迫る。それは期待であり、自分の理想が確定であってほしいという強い願いでもあった。
「う~ん……。ただの『知り合い』って感じかなぁ」
弟の口から飛び出したのは、あまりにも予想外の、そして素っ気ない言葉だった。
「……へ?」
魂が抜けるような間抜けた声を漏らすアニマ。弟は頭の後ろで腕を組みながら、淡々と続けた。
「だってさ、せんせぇは普段全然喋らないし。兄貴は兄貴で、一方的に話しかけてるだけだし。それって俺たち家族とか、他の他人と接するときと大して変わんないんだよなぁ。特別がないっていうか。……あ、でも、そうじゃないような気もするんだけど」
弟は少し首を傾げ、再びベンチの二人を見る。
「だけどさ、気づいたらなんか距離が近いんだよ。この間なんて、兄貴がいきなり抱きしめてたりしたし。ほんと、わけわっかんないよなぁ~」
弟は小さく笑った。その視線の先では、夕陽に照らされた二人の影が、相変わらず静かに重なり合っている。
「でも、やっぱ近いよな。俺、恋とかよくわかんないけどさ。たぶん、アレでいいんじゃない。二人とも、なんか楽しそうだし」
二人の自然な姿を真っ直ぐに肯定する弟の笑顔。アニマは一瞬唖然としたものの、すぐに大人の余裕を取り戻すように、ふっと息を吐いた。
「ふん、まあ、私だって恋愛なんてものはよく分からないし、形はそれぞれよね~」
そこで、アニマの脳裏に一つの悪戯がひらめいた。ニヤっと、まるで悪いことを企む子供のように口元をひしゃげる。そして、弟の目の前まで一気に顔を寄せ、上目遣いで囁いた。
「ねえ、弟くん。退屈なら、私があなたの恋人になってあげよっか? どう? 最高に刺激的で、楽しい時間を味あわせてあげるわよ?」
からかい半分の冗談だった。
学園の誰もが憧れる自分がこんなことを言えば、いくら生意気な年頃の少年とはいえ、間違いなく動揺して真っ赤になるだろう。そう確信していた。
しかし、弟はあっけらかんとした表情のまま、秒で返した。
「ヤダよ」
「なんでよぉおおオ!?」
またしても想定通りの反応をしない弟に、アニマは思わず叫んでしまった。
「ちょっと、分かってる!? 私はこの学園の象徴で、皆の注目の的なのよ!? 誰しもが私に憧れ、私を目指し、この愛くるしい容姿に目を奪われているの! そんな私を独り占めにできるのよ!?」
必死になって自分の存在価値を説くアニマだったが、弟の飄々とした態度は微塵も揺るがない。
「いや、誰もそんなこと言ってるの聞いたことないけど……」
「嘘よね……? 私、みんなの崇拝の対象よね?」
「いや、マジで」
ガシャーン、と頭の中で何かが砕け散る音がした。自分に抱いていた絶対的な幻想が、ただのイタい勘違いだったと思い知らされるような、恐ろしい自己崩壊の感覚がアニマを襲う。
「ていうかさ、アニマちゃんって学園の母……ともちょっと違うか。う~ん、なんだろ。……あ、わかった!」
弟の頭の上にぽんと光が灯る。彼の中で、目の前の超越的な少女に最も相応しい、しっくりと馴染む言葉が見つかったようだった。
「これなら絶対気に入るぜ」と、弟は自信満々に胸を張る。
「アニマちゃんはさ」
アニマは、すがるような期待の眼差しを弟に向けた。きっと、いま砕かれたばかりの幻想を、もっと美しく気高く再構築してくれる素晴らしい賛辞に違いない。そう信じて。
「――婆ちゃんみたいだよな!」
世界から、すべての音が消えた。
時が完全に静止した気がした。
気づいたときには、アニマは両膝から地面へ崩れ落ちていた。
「……フフフ、いいわ。壊してあげる、こんな世界。全部、おぞましい闇で染まればいいのよ……」
普段、彼女の周囲を舞っている淡く美しい光の粒子から、完全に光彩が消え失せる。どす黒い負のオーラがじわじわと滲み出し、空気を歪ませていく。そのただ事ではない様子に、弟はさすがに「まずい」と本能で察し、引きつった笑いを浮かべながら後ずさりした。
「弟くん、覚悟なさい」
アニマの身体が、怒りの魔力によってふわりと宙へ浮かび上がる。完全なる戦闘態勢。
「たっぷりシゴいてあげるわ。とことん絞って、絞り尽くして、あなたが泣いて許しを請うても、絶対に出し尽くすまで解放してあげないんだから!」
「おい待てよ! 俺、今日の訓練でもう魔力ほとんど残ってないって! なんでそんな怒ってんだよ!」
「男ってのはねぇ! 精魂尽き果ててからが本番なのよ!!」
怒髪天を突く勢いで、アニマが叫ぶ。
「私がたっぷり時間をかけて、年長者への正しい敬い方ってやつを、その骨の髄にまで刻み込んであげるわ!」
「ほら、やっぱ言うことがババアじゃんか!」
「言い直すなッ!!」
悲鳴を上げて一目散に逃げ出す弟と、それを凄まじい魔力を引きずりながら猛追するアニマ。
その背後、騒がしくなった空気に気づき、ベンチに座っていた男と存在が不思議そうに振り返った。
引き伸ばされていた二人の影は、いつしか深まりゆく夜の闇へと静かに沈み、溶け合おうとしていた。けれど、その境界線は、どこか楽しげに笑っているようにも見えた。




