残滓1
丘の上に設けられた木製のベンチは、学園の訓練場を広く見渡せる場所にあった。
夕陽を浴びて、そこにある二つの人影が陽炎のように微かに揺らいで見える。
アニマは少し離れた場所から、目を細めてその光景を眺めていた。
網膜に焼き付く橙色の光の向こう側に、ふと、別の記憶が重なる。それは時間の流れの彼方に消え去ったはずの、かつてあそこに並んでいた二人の影――残滓の記憶だった。
「ねえ、それで世界は動いているの?」
純粋で、なんの疑いも持たない無邪気な表情の少女が、隣に座る中年の男に話しかけていた。
男の語る世界の在り方は、まるで絵本のようにまとまりがない。学術的な整合性も、歴史的な正確さもない、ただの不確かな概念の羅列。それでも男は、柔らかく、どこか誇らしいような響きを帯びた声で、熱心に少女へ語りかけていた。
「そうだ。この世界は決してお前を独りにしない」
語り終えた男が、少女の頭へと手を伸ばす。くしゃっと優しく髪を潰すように、少し荒々しく、愛おしさを込めてその頭を揺らした。
少女は糸のように細い目で嬉しそうに笑い、男の言葉をなぞるようにして返した。
「じゃあ、わたしも誰かをひとりぼっちにしないんだね」
少し予想外の言葉が返ってきたのだろう。男は一瞬、動揺したように目を見開いたが、すぐに相好を崩した。その横顔は、どこか酷く嬉しそうだった。
「わたしが生まれた理由は、誰かを救うためなんだね。わたしってすごい?」
少女は無垢に男へ問いかける。
当時の少女にとって、目の前の男が綴る言葉のすべてが世界の真実であり、すべてだった。だからこそ、男がこぼす言葉をひとつも取りこぼさないよう、両手で大切に受け取り、自分の言葉として繋いで返す。
「あぁ、そうだな。お前を創ったのは証明するためだ。……だがもしかすると、お前にとっては酷く辛い時間を過ごすことになるかもしれない」
男はわかっていたのだ。これからこの少女が、どれほど答えのない残酷な時間の海に迷い込むことになるのかを。
「証明ってなに?」
「お前は世界からの『祝福』だってことをさ」
「それって、誰かを喜ばせることなの?」
少女なりの、精一杯の「祝福」の解釈だった。男は切なげに笑った。
「そんな生温いものじゃない。光を差すんだ。お前は照らす。未来を。誰かがそうしたかった形を、希望を、幾つもな。――だが、勘違いするなよ。お前はただ、そこにいて照らすだけでいい。選択とは、自分で掴み、自分で感じることではじめて意味を成すんだからな」
「う~ん……難しいけど、やってみる」
不安そうに、少女は眉をひそめる。言葉の意味はまだ分からない。けれど、隣にいる男の真剣な表情を見て、そうしなくてはいけないのだと本能で理解していた。
男はそっと、少女の額に人差し指を当てる。
「大丈夫だ。俺がまずはお前を照らす。俺の言葉が、俺との思い出が、俺達の時間が。お前を独りじゃないと証明してやる」
――ふっと風が吹き抜け、ぼやけていた残滓が、現在の形へと収束していく。
かつての残り香はとうの昔に時間の流れへと失せていた。その代わりに、いまあそこのベンチに留まっているのは、あの二人だ。
形から入り、夫婦と称された今日、アニマの大切な子供たちを教え導いた者たち。
二人の影が夕陽によって長く伸びていく。
意思を持つように這い寄ってくる「存在」の影。その先端が、じわじわとアニマの足元へと届いた。
アニマは悪戯っぽく唇を吊り上げると、ふっと片足を浮かせ、悪びれもせずその影の端を踏み抜いた。
「こんな時間を選ぶ者もいるのね」
ぽつりと、アニマの口から独り言が零れる。
自身はこの学園に留まり、子供たちを見守ることを選んだ。それは長い時間を経て、無数の選択肢を削ぎ落とした末に辿り着いた、アニマなりの答えだった。習慣と呼んでもいい。長く定着した在り方というのは、そう簡単に変えられるものではないのだ。
その重ねた時間こそが「自分」という概念を生み、形として定義し、自己となる。アニマはこれまでの長い生の中で、そんな風に己を確立させていく者らを幾つも見てきた。まるで世界が最初から与えていたパズルのピースを、あるべき場所にはめ込んでいくかのように。
彼女もまた、そうなるのだとばかり思っていた。きっと果てしない時間が、彼女という不変のピースを強固に形作っていく。決して動けない、動こうともしない。
そう思っていた。しかし、違ったのだ。
彼女は、世界の用意した枠組みから外れた。
そのきっかけになったのは、間違いなく隣に座るあの彼だ。彼が彼女を変えた。それも、パズルのピースを無理やり動かすような乱暴な方法ではない。彼女の形そのものを、内側から作り変えてしまったのだ。決まった在り方に囚われないように、どこまでも自由であるように。
そして何より、その自由の中で「選んだ」のは、彼女自身だった。自分の意思で、妻として男の隣に立つと決めたのだ。
「もう、私は変われない。そのくらいの時間が経ってしまったものね」
クスっと、どこか皮肉をはらんだ自虐のような声が出る。けれど、不思議と悔しくはなかった。
アニマの役目は、ただ世界に光を差すこと。世界の陰りを払い、そこに集う者たちの姿をありのままに映し出すこと。そして、子供たちがどのような選択をして生きていくのかを、特等席から眺めるだけ。それだけで、アニマの心は十分に満たされていた。
だが、対称的に彼女は歩く。定まることなく、この世界をその足で進んでいく。
かつてアニマ自身が世界を知り、自分を確立していった過程とは、決定的に、根本から何かが違うのだ。
まだ、彼女が抱く問いの本質まではわからない。けれど、アニマは絶対的な確信を持っていた。彼女は、自分とは違う。なぜなら――。
「ぷっ、あはは!……本当に、鈍感すぎるわ、あの子」
こらえきれず、可笑しさが笑い声となって言葉に混ざる。
先ほど、男の肩に頭を預けておきながら、その理由を大真面目に「本の観察記録の実践」だと言い張っていた彼女。その不器用な鈍感さの正体が何であるか、アニマには手に取るように分かっていた。けれど、それをわざわざ無粋に言葉にする必要がないほどに、彼女の心の動きは純粋で、初々しい。
夕暮れの風が、どこか甘い匂いを孕んで吹き抜けていく。時間を越えて、かつて自分を照らしてくれた「彼」の匂いが、一瞬だけ帰ってきたような気がした。
アニマは優しく目を細め、遠いベンチの二人を見据える。
「あなたたちの時間を、この学園に居る合間は守ってあげるわ。……だって、私は『祝福』なのだから」




