約束事
いつからだろうか。存在が男のすぐ隣に佇む時間が増えていた。
取り立てて大きな理由があるわけではない。けれど、男が自分の知らない価値観や何気ない営みを暮らしの中にひとつひとつ落とし込んでいく――その様が、ただ無性に気になって仕方がなかったのだ。
そんな変化を察した男は、つい最近見つけたというお気に入りの中庭のような場所へ、彼女を連れて行くことにした。
「夫婦」という関係を苦し紛れに形づくったものの、その実態は未だあまりに遠い。だからこそ、少しでも心の距離を縮められるきっかけになればと、彼女を誘い出したのだった。
深い森の樹海を抜けると、視界が一気にひらけた。
目の前に広がっていたのは、見渡す限り一面に波打つ地平の草原だった。遙か彼方まで鮮やかな緑が続き、その先には青くかすむ山々が、幻想的な輪郭を描いて佇んでいる。
風が静かに草の海を渡っていく。ここには時計の針すら置き去りにされたかのような、奇妙で壮大な静寂があった。まるで時間そのものが、この場所だけを避けて流れているかのようだ。
男は柔らかい草の上に腰を下ろし、眩しそうに目を細めると、隣に立つ彼女を見上げて言った。
「さて……形ばかりとはいえ『夫婦』になったんだ。関係をもう少し深めるためにも……うん、ちょっと硬いかな。お互いにより良く過ごすための『約束事』を決めないかい?」
男は一呼吸置き、楽しそうに指を一本立てて数え始めた。
「まず一つ。僕と一緒にいる間は、無闇に人間を襲わないこと。……もちろん、君の身を守るための正当防衛なら仕方ないけれど、できれば君の力なら傷つけずに退けることも容易いだろう?」
隣に腰を下ろした存在は、膝を抱え、指先で草の葉を弄りながら静かに耳を傾けている。
「次に二つ目。人間の領域……初めて足を踏み入れる街や村に入る時は、必ず僕と一緒に行動すること」
(何を言い出すのかしら。私はこの森を出るつもりなんてないのに。あんな汚らわしい人間が群がる場所に、なぜ足を踏み入れなければならないの)
心の中で毒づく彼女を余所に、男は三本目の指を立てた。
「三つ目。……できることなら、いつか人間を『守りたくなる』」
「……『守りたくなる』? 奇妙な言い回しをするのね」
意味の掴めぬ言葉に、存在は薄い眉をひそめた。
「僕の最期の時に、答え合わせがしたいんだよ。これは……そうだな、僕からのささやかな願いみたいなものさ」
「ふうん……まあいいわ。飽きたら守る必要なんてなくなるものね」
そう、守る義務などどこにもない。もとより彼女にとって、この歪な夫婦関係は一方的な契約に過ぎず、立場は圧倒的に男の方が下なのだ。
飽きればいつでも殺して構わない――それは最初に出会ったあの日、二人で結んだ冷徹な取り決めだった。
「君の方にはないのかい? 譲れない条件や、僕に守ってほしいことがさ。君にだって当然、権利はある。僕の妻なんだから、女性ってのは我儘になってもいいんだよ。ほら、五つでも十でも言ってみるといい。僕にできることなら、何だって守るよ」
その言葉に、存在は少しだけ長い睫毛を伏せ、思考を巡らせた。
やがて静かに顔を上げると、彼女は自身の細い指を折るようにして、淡々と言葉を紡ぎ始める。
「なら……私からも条件を出してあげるわ。約束事、というものをね。一つ目。私を怖がらないこと。怯えられたら、途端につまらなくなるわ。観察する価値すら失せるもの」
「……いきなり一番重い難題を一つ目に置くね」
甘い歩み寄りとは程遠い冷淡な第一条件に、男は苦笑いを浮かべた。
「二つ目。私の食事を絶対に横取りしないこと」
男は一瞬目を丸くしたが、すぐに合点がいったように吹き出した。
どうやら途方もない時間を生きてきた彼女にとって、「食べる」という行為は、最近芽生えたばかりの愛おしい楽しみに変わりつつあるらしい。
思い返せば、食事の刻限になると誰よりも早くテーブルに着いたり、不器用ながら準備を手伝おうとしたりと、普段の億劫そうな彼女からは考えられないほど健気で機敏な動きを見せていたのだから。
「三つ目。……たとえ途中で死にたくなったとしても、私を最期まで楽しませ続けること」
その言葉に、男は思わず息を呑んだ。
彼女の口調はどこか戯れめいていたが、言葉の底に揺れる願いは決して軽いものではなかった。
男が途中で挫け、生きることを諦めてしまわないように――存在なりに彼へ送った、切実な励みであると男は直感した。
「……ああ、約束するよ」
「四つ目。私が眠っている間に、変な真似をしないこと」
「変な真似って……一体何をすると思っているの……?」
「私は警戒心が強いの。世界から意識を遮断している無防備な時間に、余計なことをされたくないわ。私を不快にさせたら、その瞬間に殺すから」
一見すると強者の傲慢な警告のようだが、男の目には、どこか己の弱さを必死に隠そうとする少女の頑なさに映った。
男は思わず破顔し、両手を上げて降参のポーズをとってみせる。
「……意外と君は、甘えん坊なのかもしれないね」
存在は聞こえない振りを決め込み、ぷいと横顔を背けた。そのまま指を折りながら、遠い空を見上げる。
「……五つ目。私の『したい』を壊さないこと」
「え? ……それって、具体的にどういう……?」
存在は明確な答えを口にせず、ただつまらなそうに華奢な肩をすくめてみせた。
「さあね。その時の気分次第だから、酷く曖昧なものよ。意味がないと思ったら忘れてくれて構わないわ。……ただの言葉遊びのようなものだから」
けれど、男には伝わっていた。その小さな背中が、言葉にならない「何か」を不器用に乞い願っているのだということが。
「最後に、六つ目。死ぬ時は、必ず私の目の前で死ぬこと。……勘違いしないでね。私は観察者として、あなたという『人間の実例』を最期まで見届ける義務があるのだから」
関係を深めるための、甘く淡い誓い。
けれど彼女にとって、自分はどこまでも興味深い「観察対象」に過ぎないのだと、突きつけられる言葉。
「……分かった。それ、全部守るよ」
「いい子ね」
男の方を見ようともせず、彼女は薄く唇を歪めて笑うと、再び足元の草むらへ視線を落とした。
その小さな背中は、草原を吹き抜ける風にさらわれ、今にも消えてしまいそうな儚さと危うさを孕んでいる。
風が二人を包み込み、青々とした草の海に揺れる影を落としていった。
男と交わした、いくつもの小さな約束事。
そのどれもがくだらなく、実利のない子供の「ごっこ遊び」のようでありながら、そのひとつひとつが奇妙なほど温かく胸の奥に刻まれていく。
この歪なやり取りは、まるで人間たちの真似事のようだった。
かつて知識として頭の片隅になぞっただけの「夫婦」という概念。だがいま二人が交わしたものは、冷徹な契約というにはあまりに甘やかで、純粋な愛情と呼ぶにはどこまでも歪んでいる。
ふいに彼が向けてくれた、あの陽だまりのように柔らかい笑み。
花畑で胸を刺したあの鋭い痛みのあとで交わした言葉だからこそ、余計に心の一番柔らかい部分に引っかかって離れなかった。
男が思いがけず見せた底のない優しさに触れてしまった、私自身の感覚の敗北。
あの儚い花冠に象徴されていたのは、きっと私の敗北そのものだったのだ。だからこそ、あの時私は思わず笑ってしまったのだろう。
けれど今、己の口から滑り出たひとつひとつの“条件”は、気まぐれを装いながらも、確かに自分の内にある何かに触れていた。
自分自身すら気づかぬうちに、凍りついていた何かが静かに、けれど確実に動き始めている。
退屈な日常の暇つぶし。飽きたら一瞬で命を奪って終わらせるはずだった。
それなのに……彼の紡ぐ言葉は、その愚直な姿勢は……どうしてこれほどまでに私を囚われ、面白がらせるのだろう。
この奇妙な面白さが、やがて私の求める「したい」の形を、少しずつ書き換えていってしまうのかもしれない。
そこまで思い至り、彼女はふと、自嘲するように唇をほころばせた。
(――あぁ、でも)
「……意外と、飽きないかもしれないわね」
喉の奥で押し殺すはずだった言葉が、滑り落ちるように溢れ出していた。
一度口にしてしまえば、あれほど頑なだった抵抗感など驚くほど綺麗に霧散していく。
「そうよ……これは、ただの戯れに過ぎないわ」
自らに言い聞かせるように呟く。けれど、彼が投げかけてくれた声も、あの瞳に宿っていた熱も、どこまでも真摯で本気だった。
果てしない生の記憶を遡っても、これほど正面から私という存在に向き合ってくれた人間が、過去にいただろうか。
……いいえ、思い出せない。遠い昔に置いてきた微かな時間など、影のように薄れ、消え去っていくだけの虚妄。
私は不変であり、私以外の世界は勝手に爛れ、朽ちていく。そんな無価値な世界で、他者との思い出など胸に抱く意味すらありはしない。
それなのに――どうしてこの男の姿だけは、これほど鮮明に、焼きつくように脳裏に描けてしまうのだろう。
「……それほど本気で挑んでくるというのなら、私も受けて立ってあげるわ」
胸の深層から溢れ出してくる、この未知の感情を拒絶せず、ただ言葉としてなぞり、受け入れてみる。――それもまた、悪くない。
「どちらの遊びが本物なのか……『君』と勝負をしてあげる」
これは、彼が口にしていた「信じる」という言葉の形をした、私自身のどうしようもなく身勝手で、はじめての『願い』。




