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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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絵本

 この家の中をもっと見て回りたい――。

 僕はそう彼女に切り出した。

 彼女の深淵は未だ掴みきれておらず、普段からあまり屋敷の中を動き回らない彼女の気性を思えば、勝手に徘徊して不要な怒りを買いかねないと避けていたのだ。

 それに、この古びた家屋には魔力の類が一切施されていない。だからこそ、彼女にとっては不可侵で安心できる穏やかな居場所になっているのだろうと、僕なりに気を配っていた部分もあった。


 あらためて見渡せば、家屋の至るところに老朽化の影が落ちており、建ってからおよそ百年ほどだろうか。道も途絶えた森の最深部にひっそりと佇むその佇まいは、おそらくかつてどこぞの貴族が極密に建てさせた離れか隠れ屋敷の類だろう。

 それほどまでに広く、棚や飾り台には今なお高価で豪華な陶磁器が残されている。庶民が日常を過ごす住まいとは、あきらかに一線を画していた。


「私に家を案内してほしいなんて。そんなの、君が勝手に見て回ればいいでしょう?」


「家主様の許可くらいは取っておくのが筋だと思ってね。……いや、ちょっと待って。今、なんて言った……?」


「何か変なことを口にしたかしら?」


 なんだか……今日の彼女は様子が違う。

 言葉にしづらい微細な違和感を、僕の感覚が捉えていた。

 昨日までは、もう少し刺々しく、他者を拒絶するように突き放す空気感を纏っていたはずだ。紡ぐ言葉そのものは昨日と変わらないのに、彼女が向ける視線やちょっとした仕草の端々に、どこか甘やかで柔らかい光が混じっている。


「もしかして、別人だったりするかい? 魔法で瓜二つの偽者を作ったとか……ほら、そういう術があるって聞いたことがある」


「どうして私が二人も存在する必要があるのよ。土で似姿を作ったり、光の屈折を歪めて錯覚を見せることならできるけれど。仮に寸分違わぬ肉体を形成できたところで、そこに宿るのは魂のないただの殻よ。同一の人格なんて、どうあがいても存在しえないわ」


 彼女は横目だけで僕を追うのをやめ、つま先をこちらへ向け、まっすぐに僕の正面へと立った。

 廊下の高窓から差し込む斜陽の光が彼女の輪郭を縁取り、神々しいまでの美しさを際立たせる。

 これまでは視線だけをこちらに寄せて話すことが多かった彼女が、いまや全身で僕という人間に向き合い、対話を交わそうとしていた。


「私の夫は、妻の顔も見間違えるほど目が節穴ということかしら? 哀れな妻に落ちたものね」


「昨日よりもずっと、魅力的になったって意味さ。そう見えるなら、これから先ずっと目が抜けたままのほうが、僕は十二分に幸せだよ」


 彼女は一言も返さず、ぷいと背を向けて歩き出した。

 けれど、そのかすかに跳ねるような背中が、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。


 廊下の先、他の扉よりも重厚で深い色をした木扉が気になり、そっと押し開く。

 そこに広がっていたのは、部屋の天井近くまで積み上げられた圧倒的な本の山だった。――書庫だ。

 壁際の書棚に整然と並ぶ無数の書物が、静寂に包まれた部屋の空気をいっそう深く沈ませている。紙の匂い、乾いたインクの匂い。埃と途方もない時間が交じり合った重厚な空気の中で、僕はぽつりと呟いた。


「君の家には随分と本があるんだね。……へえ、絵本も読むのかい?」


 棚の本は几帳面に並べられ、長らく誰の手にも触れられた痕跡がない。しかし、中央の古びたテーブルの上にだけ、乱雑に絵本が積まれており、中には開きっぱなしのものまであった。


 部屋の奥、ソファに浅く腰掛けるように身を横たえていた存在が、目を細めた。

 声に反応したというよりは、遠い記憶の残滓を弄るような仕草だった。


「昔、私を襲ってきた人間たちが持っていたものを取り集めたのよ。……子連れで来た者もいたわね。あくまで観察対象の資料として読んだわ。人間の愚かな生態を知るのも、ちょっとした暇つぶしにはなったから」


 その声は、今日の天気を報告するかのように無機質で平坦だった。けれど僕は、思わず眉をひそめてしまう。


「……子供に対しても、容赦なく?」


「私から手を下して襲ったことなんて、一度もないと言ったでしょう? 『親の罪は血族の罪』という言葉が、どこかの本にあったわ。無関係に見えても、親の性質は子へと受け継がれていく。薄っぺらい感情論はどうあれ、子は親の背中を真似るものよ。いつしか成長した子が親と同じ憎悪を宿し、再び私へ刃を向けてくるのは面倒だもの。なにより、私の静かな住処を人間に知られたくなかった。私はただ、極めて合理的に対処しただけよ」


「……まあね」


 僕は小さく相槌を打つ。内心で完全に納得できたわけではない。子供に罪はない――それは人間特有の道徳や倫理からくる感情論であり、生き残ることを至上とする彼女の理には届かない。


 ――いや、これは僕の推測に過ぎないが。

 最初はきっと、人間の卑しい欲望や悪意から彼女へ襲いかかったのだろう。返り討ちに遭った者たちの残した恐怖が噂となって近隣へ広まり、いつしか「討伐」という正義の皮を被った集団的な排除運動へと発展していった。彼女はただ、その不毛な連鎖にうんざりしていたのだ。

 すべての根底にあるのは、人間の勝手な悪意。

 彼女はただ、静かにこの森で生きていただけなのだから――。


「絵本というものは、実に興味深いわね。分かりやすい絵と、極めて明快な『善と悪』の対立構造で物語が進んでいく。読んでいて胸がすくわ」


 彼女は手元の一冊を指先で持ち上げ、ぱらぱらとページを繰る乾いた音を響かせた。鮮やかな色の挿絵がちらちらと翻る。

 善が勝ち、悪が滅びるという単純な二分法。彼女にとって、それは極めて理解しやすい世界の姿だったのだろう。

 彼女の生き様は、危機に反応し、脅威を排除するという自然の摂理そのものだ。人間の都合から見ればそれが「悪」に映るのかもしれないが、彼女にとってはただの「生存」に過ぎない。


「字ばかりの書物は……人間の内情、かしら。複雑に言葉を捏ね繰り回して、善と悪の境目を曖昧にしている。都合が良いことね。言い訳ばかりを並べ立てて、今ある問題の根本から目を逸らしているだけじゃない」


「しょうがないよ。人間は一人ひとりが全く違う価値観で動いているからね。たぶん……世界は『善と悪』じゃなく、『誰かにとっての善と、別の誰かにとっての善』がぶつかり合うことで動いている弊害なんだと思う」


 僕の言葉に、彼女は不思議そうに小さく首を傾げた。


「ふうん……君は、空を飛ぶ羽虫が何を考えて羽ばたいているか、いちいち考えたことがあるの? 分からないでしょう。人間も私にとっては同じよ」


「そんなことはないさ。僕たち人間は『言葉』を使う。自分の心を知ってほしいから、そして相手の心を知りたいからね。……現に、君だってこうして言葉を使っているじゃないか。僕を知りたいから、そして君自身を知ってほしいからさ」


 その言葉に、彼女の美しい表情が一瞬だけ揺らいだ。けれど、すぐにいつもの冷ややかな仮面を取り戻す。


「……ところで。絵本のような分かりやすい物語を何か知らないの? ここの本はどれも読み飽きてしまったわ。新しいお話を聞かせてほしいのだけれど」


 僕は唇の端をゆるりと上げ、静かに立ち上がった。まるで大劇場の舞台に立つ役者のように堂々とした仕草で胸を張り、柔らかく微笑む。


「――では、どうぞご清聴あれ」




『 ナナシの王国 』

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