花冠
森の奥、霧が晴れた先に、花畑が広がっていた。
そこは、まるで別世界のようだった。
一面に咲き誇る色とりどりの花々が、朝の柔らかな光を受け、静かに揺れている。紫、黄色、白、赤――名も知らぬ無数の花が、湿った空気の中で密やかに香りを放ち、風にそよぐ音までもが、まるで音楽のように優しく耳をくすぐった。
「すごいな……こんなところがあるなんて」
男は目を細め、息を呑むようにその光景を眺め、それから隣に立つ存在を振り返った。
存在はと言えば、特に感嘆の色も見せず、淡々と花畑を見渡していた。眼差しは冷静で、けれどどこかしら、そのまなざしの奥に浮かぶ影は柔らかくなっているようにも見えた。
「さっさと野草を摘みましょう。食材が目的でしょう?」
「まぁまぁ、ちょっと待ちなさい」
男は花の中へそっと足を踏み入れ、しゃがみ込むと、器用に細い茎を選び、小さな花を一つずつ摘み取り始めた。無駄な動きはなく、その手つきはまるで何度も繰り返してきた作業のように自然だった。
存在はその様子をじっと見下ろしていた。
「料理といい、君は器用ね。男って皆そうなの?」
「そうでもないさ。僕は手のかかる下の子たちがいてね、親が不在のときはよく面倒を見てたのさ」
男の手は止まらない。摘んだ花を指先で丁寧に編み込んでいく。繊細な茎が、互いに絡まりながら柔らかな輪を形作っていく様子を、存在は不思議そうに見つめていた。
やがて男は花冠を完成させ、それをひょいと持ち上げ、存在の頭の上にそっと乗せた。
「……なにこれ」
存在はわずかに身を引き、戸惑いの声を漏らした。けれど、花冠を手で払うことはしなかった。
男は満足げに笑い、そのまま存在を見つめた。
「うん、やっぱり似合う」
存在は眉をひそめる。
「生態系を崩さないんじゃなかったの?」
言葉は皮肉交じりだったが、不思議とその声には棘がなかった。
男は一瞬たじろぎ、それから照れたように頭をかいた。
「うん、それは正しい。……でも、どうしても君にこの花たちを纏わせたかったんだ」
存在は目を細めた。
「勝手ね」
「君が可愛くて、きれいだって、証明したかっただけだよ」
その声はまっすぐで、飾り気のない響きだった。存在はふっと鼻で笑い、花冠を手で少し整えながら、空を仰いだ。
澄んだ空。漂う雲。風が花々をわたり、さらさらと音を立てる。その音にまぎれて、彼女の唇が緩やかになったのを、男は見逃さなかった。
「どうしようもなくても、君に嫌われないなら、僕はそれでいい。君は信じていないだろうけど、はじめて会ったあの日。命乞いからはじまった夫婦かもしれない。それでも、いつか本当になればいいなと思ってる」
その言葉は真摯で、飾りのない言葉だった。
だが、次の瞬間、存在の声は冷たく響いた。
「私は遊びだと、一時の戯れだと、君が私を好きだとは到底受け入れられない。日々、いつか訪れる死を回避しようと必死なようにみえる」
口調は硬く、まるで心の奥をさらけ出さないための鎧のようだった。
だが、男はそれを正面から受け止めた。
「必死さ。飽きさせないように、楽しませられるように。みてろよ、僕はきっと"君を好き"になる」
言葉は穏やかだったが、そこに込められた決意は確かだった。
存在は答えず、花冠を少し押し上げて被りなおすと、無言で歩き出した。
男はその背中を見つめながら、微笑んで言った。
「僕の故郷には此処とは違う花が咲いている。可愛い形、キレイな色、ご希望があればどのようにも彩ってあげるよ」
首飾りか、腕輪か、衣装か。男は身体をつかって空想の装飾を纏うポーズをする。
存在は振り返らずに答えた。
「考えておく、それまで君が生きていれば」
だがその背中は、朝の光を反射し、どこか柔らかく輝いていた。
花の命は短い。けれど、誰かの心にそっと触れるには、それだけで十分だ。
静かな花畑に、二人の足音が、やがて遠ざかっていった。
森を出て、陽が少し傾きかけた道を歩く。
花の香りがまだ空気に残っている。土の匂いと混じり合い、微かな甘さを運んできた。
しばらく歩いてから、存在はふと口を開いた。
「君にけっこうな自由を与えていたけど、よく逃げ出さなかったわね」
唐突な問いだったが、男はすぐに応じた。
「少しだけさ、君に比べて魔法といっていいのかわからないけど、魔力を操作できるのさ。だから、一人でも君が見てるなぁて感じてたよ」
存在は無言で男を見た。目を伏せると、心の奥底でひとつの記憶が静かに泡立った。
(私は試した。魔力を霧散させ、感知できる範囲内は君がどこにいるのか把握している)
男がどれほど理解していたかはわからない。ただ、存在は確かに、彼に"自由"を与えていた。
狩りを任せ、単独行動を許した。少しでも遠くに逃げる気配がしたら。男を追い、問うてから無様な命乞いをきいて殺すつもりだった。
逃げる気なら、いくらでも隙はあるのに。だが彼は、どんなときも帰ってきた。手には食材だけでなく、時には花を、実を、枝を携えて。子どものように、それらを料理に飾り、部屋の一角に並べて楽しんでいた。
その様子が、むしろ疑惑を募らせた。
(なぜ、逃げない?)
「獲物を追ってか、普段より離れられたときにはチャンスだったのよ。私の感知外にいけば、もう追えない」
「なんで?」
男の返答は真っ直ぐだった。
まるで、本当に理由を知らないかのように。
存在の眉がわずかに動いた。微笑を浮かべ、唇から言葉が滑り出た。
「ふふ、いいわ。遊びましょう」
意味のわからぬまま、男はその言葉を受け取り、二人は帰路を進んだ。
だが、心の中では別の言葉が流れていた。
(嘘をまいた。彼自身があの狩りのことは覚えているだろう。そこが私の限界だと。そこを越えれば逃げられると)
存在の魔力は、実際にはこの森全体を覆えるほどに精密で広域だ。だが、それをあえて粗く制御し、男に"見える範囲"という誤認を与えた。
(さぁ、君は理解したはずよ。自由にしなさい。私を飽きさせないで)
存在はちらりと男を見る。
その瞬間、彼はふいに、柔らかく笑った。
――心臓が、跳ねた。
どくん。
それは単なる驚きではなかった。胸の内側が、きゅうっと締めつけられる。これまでに覚えたことのない感覚だった。心を突かれるような痛み。息が詰まるような、でも逃れられない重み。
(……なに?)
痛い。けれど、それを"嫌"とは思わなかった。
この痛みが、何かを知らせているようで、目を逸らせなかった。
存在は無言のまま前を向き直り、歩調を整えて森を抜けていく。頭には、男が作った花冠がまだ乗っていた。風がそれを揺らすたび、彼女の横顔がほんのわずかに緩む。
この痛みの正体はわからない
それは、これからの日々の中で少しずつ、彼女を変えていくのかもしれなかった。




