花冠
森の深い奥、鬱蒼と木々が覆う暗闇を抜けたその先に、視界が一気にひらけて鮮やかな花畑が広がっていた。
そこはまるで、この世から切り離された別世界のような空間だった。
一面に咲き誇る色とりどりの花々が、朝の柔らかな光を受けて静かに揺れている。紫、黄色、白、鮮烈な赤――名も知らぬ無数の花が湿った空気の中で密やかに可憐な香りを放ち、風にそよぐ音までもが優しい音楽のように耳をくすぐった。
「すごいな……こんな素敵な場所があったなんて」
男は細めた目を輝かせ、深く息を呑むようにその光景を見渡すと、隣に立つ存在を振り返った。
当の存在はといえば特に歓声をあげるでもなく、どこか淡々と花畑を見渡している。その眼差しはどこまでも冷静だったが、瞳の深層に宿る冷徹な影は、ほんの少しだけ柔らかく解けているようにも見えた。
「無駄話をしていないで、さっさと野草を摘みましょう。今朝の目的は料理の食材でしょう?」
「まぁまぁ、そう焦らずにちょっと待ちちなさいって」
男は花々の中へそっと足を踏み入れ、その場に屈み込むと、器用に細い茎を選び取って小さな花を一つずつ手際よく摘み始めた。無駄のないしなやかな指の動きは、まるで幾度となく繰り返してきた手慣れた作業のようだった。
存在はその手元を、不思議そうにじっと見下ろしていた。
「料理といい、手作業といい、あなたは本当に器用ね。人間の男というのは、皆そうなの?」
「まさか、そんなわけないさ。僕には手のかかる妹と弟たちがいてね。親が留守の時は、僕が面倒をよく見ていたんだよ」
男の手は止まらない。摘み取った花々の繊細な茎を指先で丁寧に編み込んでいく。幾重にも絡み合った茎が、柔らかな円環を形作っていく様子を、存在は吸い寄せられるように見つめていた。
やがて完成した小さな花冠を、男はひょいと持ち上げると、存在の頭の上にそっと乗せた。
「……なに、これ」
存在はわずかに身を引いて戸惑いの声を漏らしたものの、その花冠を手で払い落とすような真似はしなかった。
頭上からふわりと漂う、甘く清々しい香り。これまで関心のなかった「匂い」や「香り」といった感覚に、今の彼女は以前よりもずっと敏感になっていた。
男は満足げに目を細めて笑い、そのまま彼女の顔を正面から見つめる。
「うん、やっぱりすごく似合う」
存在は、どこか納得がいかないように片眉を跳ね上げた。
「……生態系を崩さないのが、あなたの主義じゃなかったかしら?」
言葉の表面には皮肉が混ざっていたが、その声に棘は感じられなかった。
あの獣の親子の件では無意味に命を奪うことを頑なに拒んだ男が、今は何の躊躇もなく可憐な花々を摘み取っている。そんな矛盾した人間性が、彼女の目には可笑しくも奇妙に映っていた。
突き刺さるような深い視線を受け、男は一瞬たじろいだものの、すぐに照れくさそうに頭をかいた。
「うん、言われてみれば君の言う通りだ。矛盾しているよね。……でも、どうしても君にこの花たちを纏わせてあげたかったんだよ」
「勝手な言い分ね」
「君がどれだけ可愛くて、綺麗なのかを……僕自身に証明したかっただけさ。……うん、やっぱりそうだったんだ」
その声には一切の飾りがなく、まっすぐで無垢な響きがあった。
存在はふっと鼻で嘲笑してみせると、頭上の花冠の位置を手で少しだけ整え、ゆっくりと空を仰いだ。
透き通るような青空と、ゆっくり流れる白い雲。吹き抜ける風が花々を揺らし、さらさらと涼やかな音を奏でる。その音に紛れて、彼女の硬い唇がわずかに緩んだのを、男の目は見逃さなかった。
「僕たちの関係がどうしようもなくて、君に呆れられたとしても、嫌われないで済むなら僕はそれでいいんだ。君は信じてくれないかもしれないけれど……命乞いから始まった夫婦関係かもしれない。だけど僕は、いつかこれが本物になればいいなと、心から思っているよ」
男の言葉はあまりに真摯で、偽りのない熱を帯びていた。
だが、次の瞬間、存在の声は氷のように冷たく響いた。
「戯言ね。私はこんなものを単なる遊びだと、一時の気まぐれだと割り切っているわ。あなたが私を本気で好いているなんて、到底受け入れられない。……あなたはただ日々、いつか訪れる死を回避しようと、必死に立ち回っているだけにしか見えないけれど?」
硬く突き放すような口調は、己の心の柔らかい部分を守るための頑丈な鎧のようでもあった。
けれど、男はその冷酷な言葉を逃げずに正面から受け止めた。
「必死さ。君を飽きさせないように、楽しませて生きていられるようにね。……みてろよ。僕はきっと本当に『君を好き』になるから」
静かな宣言だったが、そこに込められた決意は揺るぎないものだった。
存在は何も答えず、花冠を少し押し上げて被り直すと、無言のまま背を向けて歩き出した。
男はその凛とした背中を見つめながら、楽しそうに声をかける。
「僕の故郷にはね、ここの森とは全く違う、もっと色鮮やかな花が咲くんだ。可愛い形や綺麗なお召し物、君のご希望があればいくらでも身につけて彩ってあげるよ」
首飾り、腕輪、華やかなドレス。男は全身を使って空想の装飾品を纏うような大袈裟なポーズをとってみせる。
存在は振り返りもせず、素っ気ない声を投げ返した。
「考えておくわ。……それまで、あなたが生きていればいいわね」
そう吐き捨てて歩く彼女の背中だったが、朝の光を浴びて、どこか柔らかく美しく輝いていた。
摘み取られた花冠の命は儚く短い。
けれど、固く閉ざされた彼女の心にそっと触れるには、それだけで十分な温もりを持っていた。
静かな花畑に二人の足音が重なり、やがて優しく遠ざかっていった。
森を抜け、夕陽がわずかに傾きかけた道を二人は並んで歩いていた。
花畑の清涼な香りが、いまだに漂う空気に残されている。足元の土の匂いと混じり合い、どこか甘やかな風が二人の隙間を吹き抜けていく。
しばらく無言のまま歩を進めていたが、存在はふと思い立ったように口を開いた。
「これまであなたには、かなりの自由を与えていたと思うけれど……よく逃げ出さなかったわね」
唐突な問いかけだったが、男は驚く様子もなく、すぐに素朴な笑顔を返した。
「魔法と言えるほど大層なものじゃないけれど、僕は魔力を微かに感知できるからね。一人で行動している時も『ああ、見守られているな』って、肌で感じていたんだよ」
存在は無言のまま男を見つめた。
静かに瞼を伏せると、心の深層でひとつの記憶が淡い泡のように浮かび上がる。
(――私はあなたを試した)
自らの魔力を広大な森の隅々にまで散らし、その知覚の網の中に男を捕らえ続けていた。
男がどこまで理解していたかは分からない。ただ彼女は確実に、彼に逃走の「隙」という名の罠を与えていたのだ。
狩りを行わせ、彼の言う「仕事」とやらの単独行動もあっけなく許した。もし彼が少しでも遠くへ逃げ出そうとする気配を見せたなら。その背中を追い、追い詰めて無様な命乞いを存分に聞き届けてから殺す――そのつもりだった。
逃げ出そうと思えば、幾度となく機会はあったはずなのに。
それなのに、男はいつだって彼女の元へと帰ってきた。その手には食材だけでなく、時には野の花を、熟した実を、綺麗な枝を大切そうに抱えて。まるで無邪気な子供のように、それらを料理の傍らに飾り、無機質な部屋の一角に並べて微笑んでいた。
その滑稽な姿が、むしろ彼女の中で大きな疑問と疑惑を膨らませていた。
(なぜ……逃げ出さないの?)
「……そうね。あなたが獲物を追って普段より遠くへ離れた時なんて、逃げ出す絶好の機会だったわ。私の魔力の感知範囲を越えてしまえば、もう追うことなんてできない」
「えっ、そうなの?」
男の返答には一切の裏表がなく、どこまでも真っ直ぐだった。まるで本当に、その理由を今初めて知ったかのように。
存在の美しい眉が、かすかに動いた。口元に薄い可憐な笑みを浮かべ、その美しい唇から、甘く毒を含んだ言葉を滑り出させる。
「ふふ……いいわ。もっと私と遊びましょう?」
意図の掴めぬ言葉に首を傾げつつも、男はその申し出を穏やかに受け入れ、帰路を進む。
だが、彼女の胸中には、冷酷で残酷な計算が渦巻いていた。
(嘘を吐いた。あの狩りの日の距離……そこが私の探知の限界だと、あなたは理解したはずよ。そこを越えれば自分は自由になれるのだと)
実際には、彼女の魔力は森全体どころか、その外縁すら容易く覆い尽くせるほど精密で広大だ。だがそれをあえて粗雑に偽装し、男に「逃げ出せる限界の境界線」という決定的な錯覚を与えたのだ。
(さぁ、好きに逃げなさい。私を退屈させないで。あなたも結局は他の人間と同じように、最後はおぞましく醜い生き汚い姿を曝すのだから)
冷ややかな愉悦とともに、存在はちらりと男の横顔を盗み見た。
――その瞬間。
男はふいに、彼女へ向けて優しく、柔らかく笑いかけた。
――どくん。
胸の奥底が、力強く跳ね上がった。
それは単なる驚愕ではなかった。
胸の内側がぎゅっと、引きちぎられるように締め付けられる。
果てしない生の果てに、一度たりとも味わったことのない未知の感覚。
灰を疲れたかのような鈍い痛み。息が詰まるような、逃れることの許されない強烈な重み。
(……なに、これは……?)
痛い。激しく痛む。けれど、その痛みを不思議と「嫌だ」とは思えなかった。
この激痛が、胸の奥で何かが急速に産声を発しているのだと告げているようで、視線を逸らすことができなかった。
存在は無言のまま前を向き直し、足乱れぬよう歩調を整えて森の小道を抜けていく。
頭上には、男が丁寧に編んでくれた花冠が乗ったままだ。
吹き抜ける風が可憐な花びらを揺らすたび、彼女の硬く冷たかった横顔が、ほんのわずかに、柔らかく解けていく。
胸を刺す、この甘い痛みの正体を――今の彼女は、まだ何も知らなかった。




