成果スープ
森の奥深く、朝靄が薄く漂う木々の中を、二人は静かに並んで歩いていた。
鳥の遠いさえずり、踏みしめる濡れた落ち葉の音。世界のすべてが透明で、静寂に満ちている。
二人がこうして並んで歩いている理由は、家屋の保存肉が切れかけていたからだった。
「肉の蓄えが怪しいわ。私が本物の狩りというものを見せてあげる」
そう言って、彼女が自ら連れ出してきたのだ。
ふと、存在が足を止めた。
その視線の先、草むらの陰に寄り添う二匹の野生の獣がいた。
まだ幼い子どもが、母親に鼻先をすり寄せ、甘えるようにすやすやと息を立てている。
存在は静かに指先を動かし、微細な魔力を練り上げた。
(あの無防備な小さな命を狙えば、容易く仕留められる。私の魔法なら、一瞬よ――)
生き延びるために他者の命を奪うこと。そこに疑問を抱いたことなど、これまでの果てしない生の中でただの一度もなかった。
「料理」という新たな営みを覚えた今の彼女にとって、この狩りは「誰かのために肉を確保する」という、ごく自然な行為に過ぎない。
かざした手へ、静かに魔力を集約させていく。
後ろに立つ男の目にも、その魔力の質が途方もなく強大で純粋なものであることがはっきりと見て取れた。
「――やめよう」
背後から、静かだが制止する男の声が響いた。
その声に集中を乱された存在は、練り上げた魔力を揺らがせ、解せない表情で振り返る。
「どうして? 私は腹が減っていないけれど、保存食はいずれ底を突くわ。それに……あなたにまともな料理を振る舞おうと考えて連れてきてあげたのよ」
男は穏やかな眼差しで、静かに首を振った。
「狩る必要のない命まで無闇に奪えば、森の生態系が狂ってしまう。……それに、よく見てごらん。あれは親子だ」
存在は、再び草むらの獣たちへと視線を向けた。
小さな身体が母親のぬくもりにぴったりと寄り添い、何一つ怯えることなく安心しきっている。
「……生態系……?」
「そう。必要以上に命を奪えば獲物は減り、やがて森そのものが歪む。その歪みは巡り巡って、僕たちの生活にも分かりやすいしっぺ返しとして返ってくるんだ」
男はゆっくりと一歩踏み出し、存在の隣へと並んだ。
「それにさ……もし僕たちが、理由もなくあんな風に誰かに何かを奪われたらって、考えてみたんだよ」
存在は眉をひそめ、首を傾げた。
「私たちが? 何を言っているの。私から何かを奪えるものなんて――」
「何の理由もなく、ただ懸命に生きているだけで奪われたら、きっと酷く虚しくなる。……あの子にも、あの母親にも、今は守りたい大切な時間があるんだ。ほら、あの二匹の時間を邪魔しちゃ野暮だよ」
存在はもう一度、その二匹を観察した。
子どもが母親の耳に無邪気にじゃれつき、母親がそれを愛おしそうに鼻先で撫で回す。
ただそれだけのありふれた光景のはずなのに、なぜだか胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、奇妙な圧迫感を覚えた。
(……まぁ、あの子が大きく成長するまで待った方が、得られる肉の量も増える。その方が合理的だわ)
理屈で己を納得させると、存在はそっとかざした手を下ろした。
練り上げられていた途方もない魔力は一瞬で霧散し、朝の空気に溶けて消えていく。
「……人間は本当に、面倒なことばかり考える生き物ね」
「僕たちは弱くて儚いからね。でも、だからこそ守りたいものがたくさんあるんだよ」
男は柔らかく微笑んだ。
存在はその笑顔をしばしの間じっと見つめ、それから何も言わずに男の歩調に合わせて歩き出した。
薄っすらと漂っていた森の霧が、朝陽を受けて少しずつ晴れていく。
木漏れ日の中を、二人は静かに寄り添うように進んでいく。
存在は胸の深層で、ぽつりと小さな問いを投げかけていた。
(守りたいもの……。そんな感覚が、私にもできるのかしら)
森から家屋へと戻った二人は、質素な夕食のテーブルを挟んで向かい合っていた。
存在が用意したのは、残り少ない硬い干し肉を湯にくぐらせただけの薄いスープと、男に教わりながら焼き上げた無骨で固い黒パン。
男は器を眺め、困ったように少しだけ首を傾げた。
「……うん。なかなか、質素な夕食だね」
「文句があるなら、獲物を獲ってこなかったあなたの責任よ」
存在は至極当然といった澄ました顔で言い放つ。
男は苦笑し、困り顔のまま肩をすくめた。
「まあね。確かに、節約と蓄えのためにはこういう日も大事か」
スプーンですくったスープを一口すする。
塩気も出汁も薄く、素材の味すら怪しいスープだったが、男は心底満足そうに「うまい」と息を漏らした。
存在は不思議そうに首を傾げる。
「味なんてほとんどしないでしょう? 一体何がそんなに嬉しいの」
「そりゃあ、君があの親子の時間を“守ってくれた”おかげで出来たスープだからね。そう思うと、味気ないスープも特別なご馳走に思えてくるんだ」
男は冗談めかして軽やかにウインクしてみせた。
存在は一瞬パチパチと瞬きをし、それからフンと鼻で笑ってみせる。
「なるほど。つまりこれは、『森の生態系を守った成果のスープ』というわけね」
「そういうこと。実に尊い一杯だよ」
「大袈裟ね……」
存在は急にぷいと顔をそっぽに向けた。けれど、その小さな唇の端は、隠しきれずにわずかに持ち上がっている。
男はテーブルに肘をつき、楽しそうに彼女の横顔を眺めた。
「でもさ、今度はもう少し彩りがあると嬉しいな。野草の青みを散らしたり、綺麗な花びらを浮かべて飾ったりしてさ」
「……必要とは思えないけれど。食べ物の見た目なんてものまで、人間にとっては重要なの?」
「すごく大事だよ。食べ物っていうのはね、目で楽しんで、舌で味わって、最終的に心で満たされるものなんだから」
「ふうん……」
関心がなさそうな素振りで黒パンをちぎって口へ運ぶ存在だったが、その内面には小さな衝撃が走っていた。
(花びらを飾る……? 食べ物を目で楽しむなんて、考えたこともなかったわ)
節約や維持だけが「守る」ことではない。
食べるというひとつの行為の中にすら、楽しむこと、心を彩ること、満たされること――そんな豊かな意味が含まれているのだと。
存在はパンを噛みしめながら、ちらりと男の様子を盗み見た。
男は、味の薄いスープを心底愛おしそうに、最後の一滴まで飲み干している。
(……本当に、不思議な人間)
胸の奥底が、またほんのりと温かな熱を帯びていく。
その理由も感情の名称も、今の彼女にはまだ分からなかったけれど。
夜の静かな森に包まれた小さな家屋に、二人の静かな息遣いと柔らかな空気が、どこまでも優しく溶けていった。




