夫婦の朝
朝靄がまだ薄く漂う森の中、古びた家屋へ静かにやわらかな陽光が差し込んでくる。
男は床の上に転がったまま、ゆっくりと目を開けた。
視界に映る天井を見つめ、ほんの一瞬、自分が今も命を繋いでいるという事実に驚きを覚える。
(……あぁ、奇跡だな。いや、むしろ不思議というべきか。目が覚めた時には首と体が離れている覚悟すらしていたのに)
ふっと自嘲気味に口元を緩め、男は己の心に静かに言い聞かせる。
(まずは、信じることから始めよう。恐怖を無理にでも押し込めて。……信じるっていうのは、きっとこういうことだ。理由や根拠なんて探さず、ただ信じるという選択から踏み出すんだ)
そんな内心の重厚な覚悟とは裏腹に、男はぐいっと体を起こすと、大袈裟に両腕を伸ばして息を吐いた。
そして、わざとらしくのんびりとした声を張り上げる。
「ふぁあぁ……おはよう、僕の妻よ。今朝も無事に生きていてごめん」
存在はベッドの縁に腰掛けたまま、片方の眉をすっと跳ね上げた。口元には皮肉めいた笑みを浮かべている。
目覚めたばかりとは思えない静けさだ。もともと無機質で完璧な美貌ゆえに、彼女がいつから起きて自分を観察していたのかすら読めない。
「何よその、まるで墓場から起き上がってきた屍人みたいな挨拶は」
「いやぁ、寝ている間に首をちょん切られているんじゃないかと思ってさ。こうして生きているありがたみを、全身で噛みしめたくなったんだ」
「失礼ね。無抵抗な寝込みを襲うなんて品のない真似、私がするわけないでしょう」
「なるほど、襲うのは僕が起きている時限定ってことか。おお、なんて恐ろしくて味わい深い新婚生活なんだろう!」
存在は鼻でフンと笑った。怒るでも呆れるでもなく、どこか退屈を紛らわせる玩具を見つけたかのような愉悦を漂わせている。
「よかったじゃない。日々が生死を賭けた新婚生活なんて。少なくとも飽きる暇だけはなさそうね」
「うん、命がけで君を楽しませないとね。実に甘美で、夢にまで見た理想の日常の始まりさ」
男は冗談めかして軽口を叩きながらも、その視線の奥には揺るぎない確かな光を宿していた。
ただ惨めに命乞いをして生き延びるためではない。
目の前の「存在」と、いつか本当に心を通わせて共に生きたいと願う、男自身の内なる誓いのように。
存在はその視線の強さを敏感に察し、ちらりと目を逸らすと、また小さく嘲笑した。
(さて……この滑稽な人間が、どこまで保つかしらね)
森の朝は静寂に包まれていた。
遠くで鳴く鳥のさえずりと、深く生い茂る木々を渡る風の音だけが、隙間だらけの家屋の中に流れ込んでくる。
存在はいつもの無雑作な手つきで、台所に積み上げられた保存食の山を漁り始めていた。
男は窓辺から立ち上がり、その手元を観察する。
水分を失い乾ききった果実、枯れる寸前のハーブ、カチカチに硬化した塩漬けの肉。
どれも単に命を維持し、飢えを凌ぐためだけに用意された無機質な食糧だ。味わいや食事を楽しむという概念など、最初から考慮すらされていない。
「何をしているの?」
背後からかけられた男の声に、存在はめんどくさそうに振り返る。
「食事の準備よ。……いつも通り。ついでにあなたの分も用意してあげようと思ったのだけれど」
「うーん、それじゃあ少し勿体ないかな」
男は困ったように苦笑しながら、彼女の手から素早く食材を奪い取った。
「勿体ない……?」
「せっかく僕の妻になってくれたんだ。初日の朝くらい、夫に腕を振るわせなさい」
男は軽快な口調で言い放つと、使い勝手の悪そうな台所を迅速に手際よく片付け始めた。
存在が森で摘んできた野生のハーブ、固い干し肉、そして棚の奥に眠っていた僅かな穀物の粉。
一見すれば貧しいありあわせの材料に過ぎなかったが、男の手にかかると、まるで魔法でもかけるかのように軽やかに調理が進んでいく。
手際よく火を起こし、古びた鍋を火にかける。
ほどなくして、香ばしくも爽やかな匂いが、家屋全体へとゆっくり広がっていった。
存在は、その光景を呆然と眺めていた。
(……匂い?)
それは、これまでの彼女の世界には存在しなかった感覚だった。
彼女にとって食べ物とは「生きるために胃へ流し込む固形物」に過ぎなかった。
だが、男の手によって立ち上るこの温かな香りは、単に腹を満たすだけでなく、身体の深層にある感覚を揺さぶってくる。
男はふと振り返り、無邪気で誇らしげな笑顔を浮かべた。
「はい、完成だよ」
深皿に盛られた鮮やかなハーブスープと、香ばしく脂を滲ませて焼き上げられた肉。
見た目こそ素朴で無骨ではあったが、そこには豊かな「生の気配」が宿っていた。
「冷めないうちに食べてごらん」
促されるまま、存在は半信半疑で木製のスプーンを手にした。
湯気が立つスープをそっとすくい、口元へ運ぶ。
――温かい。
口中に一気に弾ける、青々しい草の香り、肉の豊かな旨味、そして温かな火の温もり。
存在は、思わず目を丸くしてパチパチと瞬かせた。
(……こんなものが、この世界に存在していたなんて)
胸の奥底から静かに湧き上がる、強烈な驚き。
永い年月の間、彼女はただ肉体の渇きと餓えを凌ぐためだけに作業として物を口にしてきた。
けれど、これは全く違う。
「味覚」という刺激が、身体の芯、魂の奥底にまで染み渡っていく感触を初めて知ったのだ。
男はそんな彼女の反応を見て、くしゃりと目を細めて笑った。
「どう? ちゃんと『生きている味』がするだろう?」
存在は言葉を返さなかった。
けれど、吸い寄せられるように、もう一度そっとスプーンをスープの中へ沈めた。
今度は先ほどよりも慎重に、その驚きを確かめるように口へと運ぶ。
(……よく分からないわ。でも……なんだか、悪くないかもしれない)
「うん、夢中で頬を膨らませて食べる姿は、まるで小動物みたいで可愛いな。君もそんな表情ができるんだね」
少しだけ頬を膨らませ、真剣な眼差しで味覚を確かめている彼女の姿は、冷徹な絶対者の面影を消し去るほど愛くるしかった。
しかし、今の存在の耳には男のからかいの声など届いていなかった。
ただひたすらに、生まれて初めて知ったこの感覚を味わい尽くすことに、意識の全てを注ぎ込んでいたのだ。
歪で命懸けな関係から始まった、ふたりの新婚生活。
その確かな一歩は、一杯の温かな食事から静かに動き始めていた。
それから数日が流れた。
存在は、男の行動を特に制限したり縛ったりすることはしなかった。男が「自分の『仕事』の都合で、この森を調査したい」と願い出た際も、あっけないほど素直に快諾されたほどだ。
共に行動することこそなかったが、彼女が必要以上にこの家から出ようとしないことだけは分かった。
もっとも、男にここから逃げ出すつもりなど毛頭なかった。
この存在と共に暮らすのだという固い覚悟はもちろん、彼が持つ特異な体質――微細な魔力の「質」を感じ取る力によって、彼女から逃れられる場所などどこにも存在しないことを、誰よりも正確に理解していたからだ。
あの日以来、存在は男が作る温かな料理を密かに楽しみにするようになっていた。
そして、時折――
男の目を盗むようにして、彼の真似をし、ぎこちない手つきでハーブを摘み、火を扱う練習を重ねていた。
誰にも見せない、彼女の中の小さな変化。
当の彼女自身すら、それを「心境の変化」と呼んでいいのかどうか理解していなかったけれど。
ある日、男が森へ狩りと調査に出かけた隙を突き、存在はたった一人で台所に立っていた。
(昨日、彼は『また明日、何か美味いものを作るよ』と言っていたわ。……なら、その前に私が作ってしまったら、一体どんな顔をするかしら)
行動の理由は自分でも曖昧だった。
ただ、胸の奥底でちくりと刺すような、奇妙な感覚。それが何なのかは分からない。
けれど彼女は、突き動かされるようにその衝動に従っていた。
ぎこちなく火を起こす。ハーブを力任せに引きちぎる。硬い肉を雑に鍋の中へ放り込む。
けれど、彼女には食材の「分量」という概念も、「火加減」を整える知識もなかった。
味見をして調整するという発想すら持ち合わせていない。すべては男の動作を見よう見まねでなぞり、ただ“作る”という行為そのものを模倣しただけだった。
やがて、目を刺すような焦げ臭い煙が立ちのぼり、鍋の中身は見惨な色合いへと変貌を遂げた。
ハーブは真っ黒に炭化し、肉は木片のように硬く縮み、何とも言えない強烈な苦味とえぐみが部屋全体に充満していく。
それでも存在は、完成した鍋をじっと見下ろしていた。
(……きっと、これで合っているはずよ)
男が家へと帰ってきたのは、ちょうどその直後だった。
「おぉ……なんだか、部屋中にすごい匂いが立ち込めているね」
男は家の中に渦巻く焦げた煙に怯む様子もなく、苦笑交じりの笑顔で台所へと足を踏み入れ、テーブルの上にぽつんと置かれた皿を見つける。
「これ……もしかして、君が作ってくれたの?」
存在はわずかにそっぽを向き、無表情を装いながら小さく頷いた。
男は静かに椅子に腰かけると、幼子のように丁寧な手つきで両手を合わせた。
「どんな味がするか、すごく楽しみだな!」
木製のスプーンを取り、ぐつぐつと怪しい泡を立てる謎のスープを一口すくう。
そして躊躇なく口に含んだ瞬間――男の身体が僅かにぴくりと強張った。
口中に一気に広がる暴力的なえぐみ、苛烈な焦げ臭さ、ゴムのように噛み切れない肉。
けれど、男の口元は優しく緩んだ。
「……うん、すごく美味しいよ」
存在は、ちらりと横目で男の顔を盗み見た。
(――嘘ね)
一瞬で看破できた。
表情こそ笑顔を保っているものの、必死で味覚の衝撃をごまかしていることが。
だけど――
それなのに、男は皿を両手で抱え込むようにして、最後の一滴に至るまで綺麗に飲み干したのだ。
「君が僕のために作ってくれたって、ただそれだけで……心から嬉しいんだ」
男は誤魔化しではない、真実の込もった声でそう言った。
存在は、未だかつて抱いたことのない奇妙な感覚に囚われていた。
これまでの果てしない生の中で、彼女は万物から奪うことしか知らなかった。
自分以外の誰かに何かを与え、それを喜ばれるなどという世界は、想像したことすら一度もなかった。
(こんな、くだらないことで……どうしてこの人間は、こんな顔をするのかしら)
理屈では何も理解できない。
けれど、固く冷え切っていた胸の奥底が、ほんの少しだけ、温かな熱を帯びていくのを感じていた。
存在は視線を床へと落とし、ぽつりと小さく呟いた。
「次は……焦がさないように気をつけるわ」
「うん。次回作を心から楽しみにしているよ」
男は満面の笑みを浮かべ、心底嬉しそうに答えた。
存在はその無垢な笑顔を、まるで得体の知れない異物でも見るかのようにじっと見つめ続けた。
その胸に芽生えた奇妙な感情の正体を、今の彼女はまだ知る由もなかった。




