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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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初夜

「この家、ずいぶん綺麗に保たれているんだね」


 男が部屋の隅々に視線を走らせながら呟くと、存在は椅子の背もたれに深く身を預け、しなやかな足を組んだ。

 彼女の視線はずっと男から離れない。生ぬるい興味などではなく、一挙手一投足を観察し、逃さぬための明確な「監視」だった。


「もしかして、昔は誰かと暮らしていたとか? あるいは、実は腕の立つ召使いでも雇っているのかな」


「ずっと一人だったわ。どうして私が、人間ごときと一緒に暮らさなければならないのよ」


(それ、今の僕のことなんだけどな……)


 心の中でそう呟いたものの、男は口には出さなかった。ここで余計な差し口挟みをすれば、彼女の機嫌を無駄に損ねるだけだと分かっていたからだ。


「……そっか。じゃあ、君が凄く綺麗好きってことかな。そんな素敵な『妻』と暮らせるなんて、僕は幸せ者だなあ」


 男は少し大袈裟に、おどけたような笑みを浮かべて告げる。息が詰まりそうなこの緊迫感を、どうにかして和らげたかった。


「別に掃除なんて一度もしていないわ。埃も、汚れも……ある時期を境に、自然と消えていくのよ」


「……汚れだけじゃなくて、時間も?」


 男の静かな問いかけに、存在はわずかに目を細めた。


「『止まった』という表現は正しくないわね。ただ……流れていないだけ。ここには“時計”が存在しないの。はじめは針が音を立てて動いていたけれど、いつの間にか止まっていたわ。耳障りだったから、好都合だったけれど」


 彼女の言葉通り、壁に掛けられた時計にはもはや針が存在せず、ただ無言の円形を晒していた。カチリと過去を刻む音もなければ、未来を示す目盛りもない。かつてそこに「時計が存在した」という形骸だけが残されていた。


「もしかしてだけど……君は『不老不死』と呼ばれている存在なのかな?」


「あなたたちは、私をそう呼んでいるの?……初耳ね。そうね、過ぎ去った年月を数えたことなんてないけれど、人間やエルフが老いて朽ちていくのは知っているわ。それに比べて、私は何も変わらない。なら、その呼び名は合っているのでしょうね」


 男は静かに確信する。やはり彼女は伝承通りの「不老不死」なのだと。

 エルフは数百年から千年の寿命を誇る長寿種だ。人間から見れば永遠にも等しい彼らすら老いて死にゆく様を、彼女はただ静観してきた。時間の概念すら意味をなさない果てしない生。目の前の存在は、まさに世界の歪みそのものだった。


「勝手に私をそんな言葉で括るなんて。私をこの止まった時計と同類だとでも言いたいの? やはり人間は不快ね」


「……でも、君はこうして僕とちゃんと会話をしてくれているじゃないか。僕には、君が止まっているようには見えないよ」


 男のまっすぐな言葉に、存在は一瞬だけ視線を泳がせ、逸らした。


 伏せられた彼女の瞳は、まるで遠い過去の底に深く沈められていた「何か」を浚うかのようだった。やがて彼女はぽつりと、探るような声で問いかける。


「ねえ。時間って……何なのかしら」


 男は返答に詰まった。

 日時計の影や砂時計のように刻々と過ぎ去るものなのか、あるいは胸に残る思い出のように蓄積されていくものなのか。けれど、そんな機械的で一般的な定義では、この世界から切り離された家にも、彼女の心にも届かない。


 彼女が求めているのは知識としての答えではない。自らの在り方を定義づけるための、真に意味のある答えなのだ。


 男は深く息を吸い込み、彼女の目を見つめて静かに答えた。


「……僕にもはっきりとは分からない。でも、君がこうして僕と話して、言葉を交わしているなら、君の時間は動いているんじゃないかな。少なくとも僕にとっては、君と一緒に過ごして、これから『時間』を重ねていくことを、もう知っているから」


 存在は何も返さなかった。

 けれど、それで十分だった。彼女の視線はもはや眼前の男を追っておらず、その向こうにある「何か」を遠く見つめていたからだ。


 それは遙かな記憶の残像か、それとも胸の奥に静かに眠る風景なのか。永い年月を孤独に漂ってきた彼女の心の中に、言葉にならない小さな波紋が広がっていく。

 誰とも関わらない静寂の日々の中で、とうに捨て去っていた何か。思い出す必要すら失われていた“対話”という行い。今、自分が一人の人間と向き合ってそれを行っている事実が、ひどく奇妙で……そして、ほんの少しだけ恐怖だった。


 存在は男の方を見ようとはせず、ただ己の胸の奥底をじっと覗き込むように、低く、けれど確かに呟いた。


「……そう。なら、今の私は……“動いている”のね」


 それは自分自身に言い聞かせる独白のようであり、新たな世界の理を受け容れる認識のようでもあった。


 男は余計な言葉を挟まず、その声の余韻だけを静かに抱きしめた。


 部屋に、再び沈黙が訪れる。けれどその沈黙は、さっきまでこの部屋を支配していた冷たい拒絶とは、明らかに異なっていた。時が完全に停止しているのではない。ただ、長いあいだ誰の手にも触れられなかった時間が、ほんのわずかに息を吹き返した――ただ、それだけのことだった。




 やがて夜が訪れた。淡い月光が密林の深緑をくぐり抜け、わずかな光粒となって家屋の奥へと差し込んでくる。

 静寂の満ちる奥の寝室には、二人で横たわってもまだ余りあるほど立派な、大きなベッドが一つ置かれていた。


「……ねぇ、これは『夫婦として初めて迎える夜』ってことになるのかな。そうだ、仲良く一緒に寝ようか?」


「私の『夫』は、ずいぶんと死を恐れない冗談がお上手なのね。今すぐ殺されたいのかしら?」


 男は苦笑しながら両手を挙げ、降参だと示す動きを見せた。そしてそれ以上は軽口を叩かず、床の上に手早く毛布を敷くと、迷いなくその上に体を横たえた。


「おやすみ。明日からが楽しみだな」


 それは軽やかな挨拶であると同時に、「無事に明日が訪れてほしい」という男のささやかな祈りでもあった。

 そして男は、拍子抜けするほどあっ気なく、自然に深い眠りへと落ちていった。


 身体は限界まで疲弊していた。どれほど知恵を絞ろうと、今の自分では彼女の手のひらから逃れる術などない。ならば、無駄な力を抜き、訪れる運命をただ受け入れるしかない。

 けれど不思議なことに――今夜の男の心には恐怖はなく、どこか確かな安心感すら漂っていた。だからこそ、ここまでの完全な脱力ができたのかもしれない。


 存在は、静かにその無防備な寝顔を見下ろしていた。窓から差し込む青白い月明かりが、男の穏やかな表情をやわらかく浮かび上がらせている。


「……何の警戒もない、無垢な寝顔。このまま、苦痛も実感すらも抱かせずに息の根を止めることだってできるのに。本当に……理解に苦しむ男ね」


 彼女はゆっくりとベッドの縁に腰を下ろし、細い腕を組んだまま、じっと男を見下ろし続けた。

 果てしない年月を生き抜く中で、人間の寝顔など何度となく目にしてきたはずだった。けれど、過去の記憶にあるものはすべて、恐怖に引きつり、血に塗れた残酷な姿ばかりだ。


 今、眼下で息づくこの男の顔には、これまでの人間には見られなかった奇妙な柔らかさがある。


「……警戒心という概念すら持ち合わせていないのかしら」


 独り言のように漏らしたその声からは、昼間のような冷酷さはすでに消え失せていた。そこに残っていたのは、自身でも説明のつかない困惑と、ほんのわずかな戸惑いだけだ。


(簡単なことよ。今この瞬間に胸を切り裂き、その心臓を止めてしまえばいい。何も感じない。そう、私にとって人間の一生なんて、何も起こらない空白と同じ……)


 けれど、彼女の手は指一本分すら動こうとはしなかった。


(なのに――どうして? この、胸の奥を細い針で突かれるような違和感は)


 答えの出ない問いを抱えたまま、存在は静かに、深く息を吐き出した。

 やがて彼女は背を向け、ゆっくりとベッドの上に身体を預けると、無言で天井を見つめた。

 まぶたを薄く閉じながら、胸の中で小さく独白を呟く。


(止まる意味も、動き出す使命も、私には必要ない。そんなものを思考すること自体が滑稽だわ。どう足掻いたところで、このくだらない時間にはいつか終わりが来る。これはすでに決まっていること)


 それなのに――昼間、彼が静かに語った言葉が、いつまでも胸の深層に引っかかっていた。

 共に過ごすことで、時間が「動く」。

 それが自分に対する嘲笑のようにも思えて、けれど同時に、どこか言いようのない感情で口元が微かに綻んでしまう。

 

(いいわ。しばらくの間……この『遊び』に付き合ってあげる。あなたがどれだけ私を退屈させずにいられるか、見届けてあげるわ)


「せいぜい楽しませて頂戴、人間」


 囁くような声だけが、夜の静寂へと静かに溶けていった。

 それは自らに課した誓いにも似た、けれど誰の耳にも届くことのない、夜風のように儚い言葉だった。


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