幽居へ
二人は森の奥を抜け、静寂に満ちた深い緑の揺らめきを縫うように歩いていた。
やがて視界が唐突に開け、苔むした石垣と絡みつく蔦が迎える、古びた家屋が姿を現す。
想像していたよりもはるかに大きく、かつては人の手によって丁寧に建てられたであろうその建物は、しかし今や自然の呑み込みに晒されていた。
崩落こそ免れ、かろうじて“住まい”の形を保ってはいるものの、その佇まいは静かに時を拒絶しているようだった。
「意外だった? 人間らしい生活をしてる、って顔をしているけれど」
少女の姿をした存在が、ふっと口元を歪めて振り返る。その声音はどこか愉快そうで、だが男を試すような色が濃く混ざっていた。
「……まあね。少なくとも、初日から野宿にならなくてよかったよ」
男が正直に答えると、存在はその先に潜む「なぜこんな場所に家があるのか」という男の疑問をあらかじめ摘み取るように、薄ら笑いを深めた。
「たまたまよ。昔、この近くを通ったら襲われたの。もちろん殺したわ。せっかくだから住まいにしたのよ。はじめは噂を聞きつけた多くの人間がやってきたけれど、皆同じ結果になったわ。気づけば、誰も寄りつかなくなったけれどね」
さらりと、まるで日々の雑記でも語るかのように紡がれる言葉。だがそこには、受け止めきれないほど確かな死の重みがあった。
「ねぇ。人間って、すぐに争う生き物なの?」
「そんなことはない……と言いたいけれど、どうだろうね。少なくとも僕はそうじゃないし、君にもそう信じてほしいけれど」
彼女の問いかけは、男に対する試金石のようでもあった。
結んだ「夫婦の契り」は、あくまで形式上のものに過ぎない。二人の間に横たわるのは、信頼とは程遠い不穏な空気だ。
男は思考を巡らせる。世に語り継がれる伝承では、不老不死とは人に姿を模し、人の領域に身を置くならば静かに共に暮らす存在とされている。人に害を及ぼしたという明確な記録はないはずだった。
――つまり、彼女が最初に襲われた理由は、その姿が“一人の女”だったからに他ならない。少女というには幼くなく、大人の女性というには実りきっていない絶妙な姿容。かつてこの家屋にいた者たちが浮かべたであろう欲望と邪推について、男は意識的に思考を打ち切った。そもそも彼女に、人間と同じ生殖機能が存在するのかすら分からない。
だが――彼女は、男が一瞬だけ浮かべた葛藤を見逃さなかった。口元を吊り上げ、嘲笑するように笑う。
「気色の悪い顔で近づいてきたのは、最初の人間だけだったわね。あの醜くおぞましい眼差しには嫌気がさしたわ。だから、消したの。私の前からね。それ以降に来た人間は皆、腫れ物を見るような目だったわ。今思い返しても滑稽ね」
「人間の立場としては複雑かな。……本当に、殺す必要があったのかな」
「排除しただけよ。私から敵意を向けたことなんて、狩り以外では一度もないわ」
“狩り”――その言葉に込められた真意は、まだ掴めない。彼女の中で“狩り”と“殺戮”の境目はどこにあるのか。どのような一線を越えれば対象とみなされるのか。男はその先を問うのを踏みとどまった。
ただ、これからの二人の生活の中で、焦らず少しずつ探っていくしかないと心に決める。
男は覚悟を決め、玄関の前に立った。重い木製扉を押すと、甲高い軋み音が響く。けれどその音すら、家全体を支配する広大な静寂の中では消えてしまいそうなほど小さく思えた。足を踏み入れた室内は、あまりに奇妙な静寂に満たされていた。
埃は積もっておらず、朽ち果ててもいない。けれど、生きているものの気配も、生活の匂いも一切存在しなかった。
家具は整然と並び、食器棚も過不足なく満たされている。ベッドのシーツにすら皺ひとつない。しかしそれは「丁寧に暮らしている」証ではなく、最後に使われたその瞬間から“未来の時間”が一切流れていないことの証明だった。
誰かがこの空間から、「時間」そのものを永遠に奪い去ってしまったかのように。
男がそっと足を進めると、床板がわずかに悲鳴を上げる。沈黙が濃すぎるせいで、己の足音すら異物のように響いた。
壁に掛けられた時計の針は静止している。歪んだ鏡は光を反射せず、灰色の曇りを抱えたまま誰の姿も映そうとしない。
それなのに、何かがある。この空間そのものが根を下ろし、無言で自分たちを観察しているような不気味な気配。
そう、ここは住まいなのだ。少なくとも――“彼女”にとっては。
「……人の暮らしの形はしているけれど、人間の生活じゃないな」
男がぽつりと呟き、古びたテーブルに指先を触れさせる。木の表面は、なぜかほんのりと温度を残していた。
長年放置されていたはずの場所。だが、一日たりとも空白がなかったかのような違和感。男が覚えた居心地の悪さの正体は、それだった。
「変な家だ」
男は息を吐き出し、窓辺の縁に腰を下ろす。外の森のざわめきも、風が葉を揺らす音も聞こえない。まるで世界の亀裂に落とし込まれたような、隔離された空間。
その静寂の中で、男の意識はふと、この森へ足を踏み入れる直前の出来事へと引き戻されていた。
「依頼内容は、不可解な連続失踪事件の調査です」
ギルドの受付を担当する女性が告げた言葉は、どこまでも簡潔だった。
この不気味な森に足を踏み入れる直前、その入口にひっそりと佇む小さな村。そこには村の管理役場を兼ねた、冒険者たちが集う小規模なギルドが存在していた。
男は本来の「仕事」の傍ら、どうせ森の奥深くまで入り込むのなら、ついでに誰かの役に立てばいいと軽い足取りで依頼板を眺めに行ったのだ。
そこで目に飛び込んできたのが、あの異様な張り紙だった。
「この三か月の間に十数人。全員、最後に森へ入ったということだけが共通点です。若者から中年、旅人に村人……性別も職業も見事にバラバラ。発見された遺体もなければ、手がかりひとつ残されていません」
「それだけ?」
「ええ、それだけです。ですから、これは魔物討伐の正式依頼ではなく、あくまで“現地状況の確認”という扱いです。森の中に脅威が存在するのか否か、可能であればその痕跡を突き止めていただきたい」
「魔物や呪い、あるいは魔法の類いは?」
「現時点では何も確認されていません。……ですが、捜索隊から戻った者の中に“人ならざる影を見た”と怯える者や、“どこからか女の声が聞こえた”と呟く者がいました。いずれも極限状態の錯覚として処理されていますが……信憑性は未知数です」
男は一度だけ目を伏せ、思案するように息を吐くと、静かに笑ってみせた。
「いいよ。引き受けようかな」
「……本気ですか? 報酬は決して高くありませんし、危険の規模も分からないのですよ?」
女性の声には戸惑いと、見知らぬ青年へのかすかな心配が混じっていた。だが、男は困ったように肩をすくめる。
「命が惜しくないわけじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「ほっとけない性分なんだ。誰かが困っていると聞くと、つい足が動いてしまう。昔からの、あまり感心できない癖でね」
受付の女性は一瞬言葉を詰まらせたが、やがて呆れたように、けれど柔らかく口元を緩めた。
「……そのお節介な癖のおかげで、きっとこれまでも多くの危機を切り抜けてこられたのでしょうね。どうか、無理だけはなさらないでください」
――その言葉通り、男は今、まさに人生最大と言っていい命の危機の真っただ中に立っている。
目の前に佇むのは、人の形をした明らかに“人ならざるもの”だ。ただ対峙して会話を交わしているだけで、思考の輪郭が揺らぎそうになるほどの圧倒的な存在感が、皮膚の表面をぴりぴりと刺してくる。
そして、この時が停止したかのような異様な家屋。
不気味で歪なはずなのに、どこか心の奥底を静かに撫でてくるような、不思議な温もりを帯びていた。
(……いや、違うな。あまりに不気味で世界から切り離されているからこそ、かえって余計な雑音から遮断されて安心してしまうのかもしれない)
人が近づかないのも当然だ。ここは現世と異界の境界線。人の世の常識や理が、一切意味を成さない場所なのだから。
だとしても――目の前にいるこの絶対的な「存在」に、ほんのわずかでも言葉を通わせる“意志”があるのなら。
たとえそれがどれほど恐ろしい怪異であっても、互いに刃を交えて暴力で屈服させようとする前に、相手のことを知りたいと思ってしまう。
それは計算でも合理的判断でもない。ただの男の性分だ。
男は窓の外、鬱蒼と生い茂る森の深緑を見つめながら、声に出ない声で呟いた。
「さて……これから彼女と始まる暮らしの中で、一体何が見えてくるかな。できることなら、無駄死にだけは避けたいものだけど」
ひんやりとした風が、古びた家屋の隙間をなぞるように通り抜けていく。
そのかすかな擦過音すら、遠い昔の記憶の残響のように薄く、そしてどこか優しかった。




