契り
なんてくだらない、愚かしい。
はじめはそう感じていた。彼の生きる世界は、澱んだ空の下で濁り、渦巻き、どこまでも哀れで穢れた群れのようだった。
彼女はいつだって澄んでいた。
強く、乱れず。まるで世界そのものに選ばれ、愛されたかのように、ただ圧倒的な絶対者としてそこに存在していた。
それでも――その歪んだ世界へと深く浸ってみれば、不変であるはずの空も移ろいでいく。
在るがままに、永遠に変わらず在り続ける。
そうあるはずだった。そうあったはずなのに。
なぜ、あのような言葉を結んでしまったのだろう。
まるで自然の理に流されるように、運命の糸を辿るように、目に見えない大きな何かに突き動かされて。
たぶん、確かめたかったんだ。
この歪な現象に、意味などあるはずもない。
だというのに、彼は世界に色を落としていく。
あの混沌の中に確かに咲いていた彩りを、私は一緒に見つめてみたいと――そう思ってしまった。
これは、彼女が。
これは、私たちが。
この果てのない世界で、生きる意味を見つけるための物語。
この世界には時折、決して「死」に至らない存在が産み落とされる。
人々は彼らを「不老不死」と呼び、人間とは隔絶された異質の理の中で時を数えていた。
その存在はあまりに稀有であり、この世界に幾人潜んでいるのかは誰にもわからない。
長寿を誇るエルフやドワーフといった種族すら、どれほど永い年月を重ねようとも、いずれは老いと死に膝を屈する。
しかし、不老不死だけは違った。彼らの肉体は老いることすら拒絶し、終わりなき永遠の時間をただ漂い続ける。
なぜ彼らが不老不死なのか――その答えを知る者はいない。
神のきまぐれか、逃れえぬ呪いか、あるいは世界そのものが孕んだ歪みなのか。
学者も聖職者も数々の仮説を打ち立てては打ち消し、結論を出せぬまま幾世紀もの歳月が流れていた。
それでも、彼らの存在自体は都市伝説のように人々の間に語り継がれていた。
古い伝承や匿名の手記の中には、人間の中に溶け込み、静かに暮らしていた個体の記録すら残されている。
そして何より、彼らが自ら人に仇なしたという記録は、歴史上ただの一度もなかった。
不老不死とは、ただ静かに――世界に干渉する意志すら持たず、そこに存在しているだけの奇跡。人々は漠然とそう信じ込んでいたのだ。
ゆえに、「不老不死の討伐」などという言葉は、本来ならこの世に存在するはずのないものであった。
「……さて。これはどうしたものかな」
鬱蒼とした森の奥深く。足止めを食らった男は吐息を漏らし、眼前に佇む“それ”を凝視した。
男がこの地に足を踏み入れたのは、ギルドから請け負った調査のためだった。近隣の集落で相次ぐ不可解な住民の失踪、そして森の境目で発見された凄惨な遺体。森に巣食う正体不明の凶悪な魔物を討伐する――それが彼の任務だったはずだ。
本来はオマケにすぎない依頼。男の「真の仕事」とは大きく違い、ほっとけない性分からついと請け負ってしまった。
だが、そこにいたのは牙を剥く魔物などではなかった。
人の形をしながらも、およそ人間とはかけ離れた異彩を放つ者。
人ならざる者――不老不死の少女が、そこにいた。
(……間違いない。僕は魔法なんてからっきしだけど、微かな魔力の『質』だけは感じ取れる。この苛烈で重厚な魔力は、今まで出会ったどんな存在とも違う。……伝承の記述通りだ)
男は冷や汗を滑らせながら、頭の中で記録と眼前の一幕を擦り合わせる。
少女の足元には、かすかに漂う死の臭気。それは紛れもなく、彼が追っていた失踪者たちの残り香だった。
「君が人を襲っていたのは……その死臭でわかったよ。これは困ったな」
「あら。私は人を襲ったことなんてないわよ?」
少女は口元を歪め、にたりと笑った。
その瞳に、罪悪感や悪意の類いは一切見当たらない。
それどころか、最初から“悪”という概念そのものを持ち合わせていないかのように、ただどこまでも無邪気で、残酷だった。
「……うん。僕じゃ君には到底敵わないことも、この状況で逃げ場がないこともよく理解できた。本当に困ったぞ」
「ふふ、賢いじゃない。背中を見せたら一瞬で引き裂いてあげる。……でも、少しお話ししましょうか。私、人と喋るのは嫌いじゃないの」
「つまり、話し相手に満足したら殺すってことか。……う~ん、参ったな。よし、一か八かの賭けに出よう」
男は一切の躊躇を捨て、一歩、足を踏み出した。
少女の空気が一変し、本能的な警戒とともに圧倒的な魔力が波紋となって周囲の空間を打つ。威圧の風が男の頬を撫でた。
しかし、男は武器を構えるでもなく、魔力を練り上げる気配すら見せない。
一切の害意も恐れすら抱かず歩み寄ってくる異様な姿に、少女のほうが一瞬、毒気を抜かれて固まった。
これまで彼女の前に立った人間は皆、底なしの恐怖に震え上がり、哀れに命乞いを叫ぶか、あるいは刃を向けて襲いかかってきた。歩み寄ろうとした者など、ただのひとりもいなかったのだ。
そのわずかな隙を逃さず、男は少女の至近距離まで踏み込む。
そして躊躇いなく、彼女の華奢な手を取った。
「僕の妻になってくれ」
「……え?」
少女の思考が瞬時に凍りついた。
“結婚”という言葉の意味は知っている。けれど、それは彼女にとって、遥か遠い人間の世界の、滑稽な風習のひとつに過ぎなかったはずだ。
「結婚しよう、と言ったんだ。君を僕の妻にしたい」
「……本気で言っているの? どうして?」
「このままじゃ君に殺されるからね。なら、せめて殺される前に僕を好きになってもらおうと思ったのさ。この絶望的な状況を打破する方法を必死に考え抜いて……導き出した唯一の答えがこれだ」
「好きでもない私に? ただ、自分が助かりたいがために?」
「そうだよ。どうしようもなく情けない命乞いに見えるだろう? でも、僕は至って本気だ。今、本気で君と一緒にいたいと思っている。これは……そうだな、命を賭けた『遊び』だ。僕が君に好きになってもらえるよう、死ぬ気で努力する。もしそれでもダメなら、その時は僕を殺せばいい。君のほうが圧倒的に強いんだから、飽きたらいつでも殺せるだろう? ……どうかな。人と話すのは、嫌いじゃないんだろう?」
少女は自分の手を包み込む男の手を見下ろした。
そして、くすりと小さく鼻で笑う。大袈裟に肩をすくめ、わざとらしい溜息を吐き出してみせた。
「……いいわ。付き合ってあげる。ちょうど退屈していたところだし、少しは暇つぶしになりそうだから」
男が安堵でわずかに肩の力を抜いた瞬間、少女の瞳がすっと細められた。
「ただし、勘違いしないでね。これはただの“遊び”よ。私が飽きたら、約束通りあなたを殺す。それでもいいなら、好きにしなさい」
「ああ、望むところだ」
男は逃げ場のない真剣な眼差しで力強く頷いた。
少女はその顔をじっと見つめ、実に愉快そうに目を細める。
「いいわねぇ、人間って。必死で、惨めで、滑稽で……でも、ほんの少しだけ面白いわ」
そう呟いた少女の唇からこぼれたのは、これまで誰にも向けたことのない、毒気のない柔らかい笑みだった。
(興味なんて、無い。……人間なんて、ちっぽけで、脆くて、下等でくだらない生き物。それなのに、この男は――私を前にして震えもせず、涙も見せず、ただまっすぐに私を見つめていた。愚かしいけれど……少しだけ、眩しかった)
少女は繋がれた男の手を振り払うことも、引き寄せることもせず、ただそのままにしておいた。
風に舞う小さな枯れ葉を、指先で優しく摘まむように。
(いいわ。あなたがどこまで足掻けるか、見届けてあげる。……どうせすべては、私の掌の上の出来事なのだから)
心の中でそう呟き、少女は軽やかな足取りで歩き出した。
男もまた余計な言葉を挟むことなく、静かにその背を追いかける。




