詠唱
男は、子供たちの前へと歩み出た。存在が何かを言うより先に、彼は片手を空へ掲げる。
すぅ、と息を吸い込み――。
「…………ふふっ」
肩が、小さく震えた。その瞬間だった。
「ハーッハッハッハッハ!!」
突如として高らかに響いた笑い声に、場の空気が凍りつく。
「――――!?」
存在の目が、わずかに見開かれる。子供たちもぽかんとしていた。
普段の男からは想像もつかない声音だった。静かで、柔らかく、どこか頼りないほど穏やかな男。そんな印象を、真正面から粉砕するような大仰な振る舞い。
まるで、別人。男は空へ向けた手を震わせながら、芝居がかった声で叫ぶ。
「閉じ込めておくのは……もう限界だ……!」
ぎゅっ、と握り締められる拳。
「僕の鼓動が……ッ!!」
血管が浮き出るほどに力を込める。同時に、彼の周囲へ塵のような魔力がふわふわと舞い始めた。
それは決して強い魔力ではない。むしろ弱い、未熟、頼りない。だが、本人だけは完全に“その気”だった。
(……なにをしているの)
存在は理解できなかった。冷静な疑問、だが、止める暇がない。男は続ける。
「呼び覚ましたのは、お前だ……!」
どこか遠くを睨みつける。
「騒ぐな、世界――!」
びしっ、と腕を草原の丘へ向ける。
「僕に潜む熱を! 太陽を! 今ここで解き放つ!!」
子供たちの目が、どんどん輝き始めていた。
「おお……!」
「なんかすごそう……!」
「詠唱してる……!」
期待、純粋な期待、男は思う。
(やばい)
すでに後悔が始まっていた。
(なんで始めてしまったんだろう)
でも、止まれない。ここまで来たら、やり切るしかない。彼女の言葉を、存在の語った“魔法との向き合い方”を、少しでも、子供たちへ伝わる形にしたかった。
だから、男は叫ぶ。
「触れたものを侵食しろ――――!!」
魔力が、彼の手へ集束していく。
子供たちが息を呑む。存在さえも、ほんの少しだけ見守ってしまう。
「イグニッショォォォオオオオオオオオオオオンッ!!」
一拍置いて、
「カタルシスゥゥゥウウウウウウッ!!!!」
魂の咆哮。男の周囲の空気がぶわりと揺れた。世界が反応する、ほんの僅かに、確かに。何かが起こる気配だけはあった。
子供たちが目を輝かせる。
「くる……!」
「すごいの来る……!!」
男は、カッと目を見開き――放った。
「――――ッ!!」
静寂。次の瞬間。
「……ぷすっ」
黒煙が、ちょろっと出た。
以上。
火種ですらない。なんなら湿っていた。風に流され、黒煙は虚しく消えていく。
沈黙。存在は無言だった。子供たちも、無言だった。
男はそのままの姿勢で数秒止まり――。やがて、ふっと前髪をかき上げる。
「……ふっ。決まったな」
決まっていない。
「怖いくらいに」
怖いのは空気だった。男は内心で頭を抱えていた。
(やってしまった)
わかっていた。自分に火の才能なんてない。でも、それでも、“熱”を表現したかった。
彼女の言葉が、ただ理屈ではなく、感情と願いから生まれていることを。どうにか伝えたかった。その結果がこれだった。
すると。
「火種にもなってないじゃん!」
最初に吹き出したのは、子供たちだった。
「ぷはっ、なんか煙だけだった!」
「今どき詠唱って古くない!?」
「お爺ちゃんが昔は普通だったって言ってた!」
「イグニッションカタルシスって何!?」
次々に笑い声が広がっていく。
だが、それは嘲笑ではない。むしろ楽しそうだった。男は頬をかき、照れくさそうに笑う。
「いやぁ……似合わないことしたな」
存在はじっと彼を見ていた。恥をかいたはずなのに、失敗したはずなのに。なぜ、この男はこんなにも自然体でいられるのか。
男は子供たちへ向き直る。
「僕は上手くいかなかったけど」
そう前置きして。
「彼女が言いたかったことはね。“扱う側”だからって、一方的に世界を引っ張り回しちゃいけないってことなんだ」
子供たちは静かになる。
「僕たちは言葉を使うだろ?」
男は胸へ手を当てる。
「それは、自分の内側を知ってほしいからだ」
そして、空へ視線を向けた。
「だったら、魔法にも伝えよう」
両手を前へ差し出す。優しく、包み込むように。
「自分がどんな魔法で在りたいのか」
ふわり。風が集まり始める。
「どう在ってほしいのか」
先ほどとは違った。無理やり掴み取るような乱暴さがない、世界を揺らすような圧迫感もない。まるで、世界へ、そっと手を差し伸べるような。
「まずは、こっちから差し出すんだ」
風が、彼の掌で静かに巡る。
「僕は、一つくらいしかまともに扱えない」
男は少し笑った。
「これは、彼女から教わった魔法だ」
存在の瞳が、わずかに揺れる。
男は、風へ語りかける。命令ではなく、願いのように。
「――撫でて」
その一言だった。ふわり、と。風が花弁のようにほどけた。優しい風、柔らかな風、拡散したそれは、子供たちへ触れていく。
「わっ」
「……あったかい」
「なんか……気持ちいい」
それは衝撃ではなかった。押しつけでもない、親が子供の頭を撫でるような、安心させるような感触。
風は、存在の頬にも触れた。さらり、と髪を揺らす。頬を撫でる、その感触に、存在は、一瞬だけ錯覚した。まるで、男自身に触れられたような、魔法へ感情を与えている。身勝手なくらいに。
それでも。世界は、応えた。
存在は静かに男の背を見つめる。少しだけ、本当に少しだけ。その背中が広く見えた。包み込むように、そんな幻想を、抱いてしまうほどに。




